009_芒種(6月6日頃)「おかえり」
風見がハロの散歩から戻ると、家主が出迎えてくれた。
「ただいま、戻りました」
突然のことに動揺しつつ、風見は辛うじて返事をした。
仕事終わりの風見は、いつものように数日家を空ける降谷の代わりに、ハロの散歩の準備を整え家を出た。ハロは時間帯からか風見の服装からか、今日は遊ばずに歩くだけであることを理解しているようで、よそ見もせずにさっさと歩いた。三十分ほどの散歩を終えて風見とハロがアパートに戻ると、降谷の部屋の明かりが点いている。戸締りを確認し、電気も全て消したはずだった。空き巣だろうか、それとも――。心臓が早鐘を打つのを感じながら、ハロとともに玄関前に向かった。ハロを共用の廊下にお座りさせ、扉越しに室内の音を探る。大きな物音はしない。鍵もこじ開けられたような形跡はなかった。試しに、音が立たぬようにドアノブを回してみるが、確かに施錠されている。一人で突入することは賢明ではない。場所を変えて降谷に連絡しよう、としたところで玄関ドアが開いた。
「おかえり」
出てきたのは冒頭の通り、降谷だった。
心臓に悪いからやめてほしい。
「悪いな、急に予定が変わって」
降谷は愛犬を撫でまわしながら、風見に目線を向けて行った。
「君に連絡しようと思ったんだが、もう散歩に行ってくれていたみたいだったから」
「肝が冷えましたよ」
「そうだよな」
降谷は再び謝罪を述べると、風見に上がるよう促した。荷物も置いてあるので素直に上がらせてもらう。梅雨入り間近ということもあってハロに念のため着せていたレインコートは、降谷がすでに脱がしていた。降谷から水玉模様のレインコートを受け取り、犬用の消臭スプレーをふりかけ、窓際のピンチハンガーに干す。だいぶ日が延びたこともあり、十九時を過ぎていたがまだ窓の外はうっすらと明るかった。
「夕飯まだだろ? 食べていかないか」
背後から声を掛けられ、振り返る。風見の返事を待つことなく、調理台には降谷が買ってきたと思われる材料がいくつか並んでいた。これから夕食を作るのだろう。この場に留まってよいものか逡巡してしまう。
「僕の夕飯のついでになってしまうけど」
風見のためだけに作るわけではないと聞いて、お言葉に甘えることにした。手を洗ってくるよう指示され、洗面台を借りる。綺麗に掃除されていて、髪の毛一本も落ちていない。備え付けのタオルを使用するのは気が引けたので、手持ちのタオルハンカチで手を拭いた。
洗面所から戻ると降谷はすでにエプロンを着けて調理を開始しており、その足元にはハロがいる。ご主人が料理するのを見ているらしい。弁当を受け取ったことは何度もあるが、降谷が調理する姿を見たことは無い。上司に飯を作らせておきながら自分は何もしていないという状況にいたたまれなくなり、風見は手伝いを申し出たが、「ハロと遊んでやってくれ」と言われ和室に追いやられてしまった。実際、風見が手際よくできることと言えば電子レンジでごはんを温めるくらいだったので、正しい判断だった。
ハロのおもちゃがしまってある籠からお気に入りを取り出し、少し離れたところに投げる。取りに行って渡しに来てくれると思いきや、今日は一人で齧りたい気分らしい。戻ってこない。風見がハロの方に近寄り、見守るという体制になった。手持ち無沙汰で気まずい。キッチンの方へ目をやると、すでにダイニングテーブルに小皿が用意されていた。
「やっぱりお手伝いしますよ」
味噌汁のいい匂いが漂っている、具は豆腐とわかめのようだった。
「じゃあお茶とグラスを用意してくれ」
「分かりました」
随分と簡単な用を言いつけられた。数日空けるつもりだったからか、冷蔵庫の中に作り置きなどは無く、卵や納豆、スライスチーズ、調味料などそれなりに日持ちするものしか入っていなかった。お茶もペットボトルの新品のものだった。これも先ほど降谷が買ってきたのだろう。まだ完全には冷えていない。氷を貰ってよいか、許可を取ってグラスを用意する。
手際よく準備をしていた降谷の方も、ほとんど用意が済んだようで、作業を開始してから十五分足らずで白米と味噌汁におかずが何品か食卓に並んだ。降谷は「簡単なもので申し訳ないが」と謙遜したが、風見には到底できないことだった。ハロのご飯も準備して、手を合わせる。
――と、降谷が風見を制止した。
「いいのがあるんだった」
何やらまだ出てくるらしい。降谷は台所の床下収納から大きなガラス瓶を取り出した。
琥珀色の液体に、梅の実が沈んでいる。
「梅酒ですか」
「もう一つグラスを出してくれ」
風見の都合は聞かずに、問答無用で飲むことになったらしい。断る理由もないので、いそいそと準備する。
「ロックでいいですか」
「ああ」
改めて、食卓の準備が整う。テーブルの下から、ハロが鼻をヒクヒクさせながらこちらの様子を見ている。降谷が用意した餌の方に誘導すると素直に従った。二人も手を合わせて、食事を始める。
風見はせっかくなので、降谷が漬けた梅酒を口にした。梅の爽やかさと甘酸っぱさを感じる。すっきりとしていて飲みやすい。そういえば、実家の母も風見が幼い頃から梅酒やら梅シロップを漬け込んでいた。梅雨の時期になると、幼い風見も青梅のヘタを取るのを手伝ったものだ。
「美味しいですね」
「ちょうど飲み頃だったんだ。このままだと一人で飲み切ることになるから。」
そう言って降谷は笑った。そして梅酒に関するうんちくを語り始める。たぶんこの人は、知識を得ることも、それを実践することも、人に話すのも好きなのだ。風見は相槌を打ちながら話を聞く。降谷の話は、時折面倒に感じることもあるが、素直に面白いと思う。興味のない分野の話でもこの人から聞くと面白いような気がしてくるのだ。
風見の空いたグラスに、降谷が梅酒を追加する。
楽しそうに話す降谷を見ながら、この人の楽しみを分け与えられたことを光栄に思った。