005_清明(4月5日頃) 持ち帰るわけにはいかない類の仕事を片づけているうちに、定時が過ぎていた。庁舎が完全な無人になることはないため、そこかしこでタイピング音が聞こえる。風見もパソコンに向かっていた。現場に出ない時間は報告書を作るのが警察官の仕事だ。事件が起こらなくとも、解決したとしてもやることは多い。
メッセージの受信音に、風見はタイピングの手を止めた。気がつけば背中が丸まり、画面と顔の距離がもうあと数センチという体勢になっていた。上司からの緊急の連絡かもしれないと、すぐにスマートフォンを確認する。上司に提示された物品リストを見て、風見は「またか」と溜息を吐いた。緊急というほどではなかったが、今書いている報告書よりは優先順位が高い。用意するまでもなく、デスクの足元に常備されているそれらをまとめると、風見は駐車場に向かった。
日が沈みかけていた。
風見は十五分ほどで指定された三階建てのビルに到着した。公安部が管理しているビルの一つである。一階部分は以前、自動車整備工場として使用されていた物件だ。周辺は再開発が進んで、比較的新しいマンションやアパートが建っており、その隙間に工場や倉庫が点在している。
ビルの前に車を停め、中へ入ると、上司と彼の愛車が待っていた。
「悪いな、わざわざ来てもらって」
降谷はちょうど洗車を終えたところだった。風見は白い車体に目をやる。
どうやらサイドミラーを割ったらしい。正確には、サイドミラーのカバーが割れている。ついでに車体右側にもそこそこ目立つ傷とへこみができている。風見としては、この男は何をしたんだという感想しか出てこなかった。風見が上司の愛車を運転する際には、絶対に傷をつけてはいけないと戦々恐々としているのに、当の本人がこの美しいスポーツカーを傷だらけにする。今回は、部品そのものを交換するほどではなかったため、割れた部分をパテで埋めて塗装するだけで済みそうなのが不幸中の幸いといったところか。
「君はボディの方を頼む」
降谷が放った整備用のグローブを受け取り、ジャケットを脱ぐ。腕まくりをしながら傷を確認する。擦ったような傷は軽い塗装で目立たなくなりそうだった。
「へこみは埋めるところまでやりますが」
「それで十分だ」
「分かりました」
降谷も作業を始めた。今日の服装は安室透として動く際に着ていたのを見たことがあるものだった。洗車する際に邪魔だったのか、上着は作業台の隅に置かれていた。
黙々と作業に取り組む上司に倣って、風見もスプレー缶を手に取った。
しばらく手を動かしていると、タイヤの近くに桜の花びらが落ちているのを見つけた。すでに葉桜になり始めているが、まだ花見のシーズンである。運転している間に、車体に花びらが付いたのだろう。
「降谷さんは、お花見はしたんですか」
多忙な上司のことだからそんな暇はないと思いつつ聞いてみた。
「この間、商店会の人たちとやったな」
風見には目を向けぬまま、降谷は答えた。
「ああ、あの人たちですか」
商店会とは、上司がアルバイトしている喫茶店が属している団体のことだ。良好な人間関係を構築することも降谷の大切な仕事である。商店会は風見も草野球やらラグビーやらで顔を合わせたことがある面々だ。そこそこ馴染みがあるものの、「飛田」として接しているのでボロが出ては困るし、「飛田」が降谷の潜入先の人間と親交を深める必要性は基本的にはない。それゆえ、当然のことながら風見は参加していない。
「飛田さんも、と言ってたんだが、僕が適当に理由をつけて断ったんだ。悪いな」
風見は、彼らが自分のことも誘ってくれていたことに驚きつつ、「いえ、行かない方がいいと思うので」と答える。
「君はお花見はしたのか?」
今度は降谷の方が質問してきた。はて、と風見は思案する。桜の花を見た覚えはある。だが、誰かと集まって見た覚えはない。思えばここ数年、花見をしていないかもしれない。
「見るには見ましたが……」
「まあ、宴会はなかなかできないよな」
警視庁の近所には都内屈指の桜の名所がいくつかあるのだが、通り過ぎるだけで、きちんと腰を据えてというのは無かった。ニュースなどでよく見る千鳥ヶ淵の桜も、警察官になったばかりの頃に一度見に行ったきりで、画面越しの方が馴染みがあった。
「桜餅は食べましたよ」
なんとなく風情のあることをしたと主張したくて続けてしまった。
「前も食べてなかったか? チョコレートだったけど」
少々呆れた声で降谷が返す。以前、降谷に渡そうとして断られた、あの小さなチョコレート菓子のことだろう。
「そうですね」
チョコレートのパッケージに、二種類の桜餅が描かれていたことを思い出す。
「あの、道明寺じゃない方の、普通のやつ――」
「関東風のやつな。長命寺って言うんだ」
「長命寺って言う人に会ったことないですね」
「僕も」
そこでいったん会話が止まった。フロアに設置した換気扇の音と、車体をやすり掛けする音だけが響く。窓の外は暗くなっていた。
「この間の花見では飲めなかったんだ」
「はい?」
降谷が急に言うものだから、風見は何のことか全く分からなかった。
「君となら飲めるかと思ったんだが、車があると二人で飲むわけにはいかないなって」
ああ、と風見は頷いた。
「今日は、飲むのは無理ですね」
「飲むのもだが、実は食事も無理なんだ」
どうやら降谷には、まだやらねばならぬ仕事があるらしい。部下の健康状態を気にするわりに、この上司はいつ休んでいるのか分からない。風見は以前、降谷にいつ寝ているのか真正面から聞いてみたことがあるが、「夜」とすげなく返されてしまい、あまり聞かない方が良いのだと学習した。いつ、と言われても答えようがないのかもしれない。
「すみません、コンビニで何か買って来ればよかったですね」
「いや、大丈夫だよ。――終わったか?」
「はい」
降谷は一人で作業を続けるらしく、修繕用の道具は置いて行けとのことだった。まだパテで埋めた部分が乾いていないため、後は待つしかない。風見を付き合わせる気はないのだろう。上司を置いて帰るのは申し訳ないが、これ以上できることはない。言われた通り、風見は帰ることにした。
外に止めた車に乗り込む。エンジンを掛けたタイミングで、ビルの二階――住宅部分に明かりが点いたので、降谷が移動したのだと分かった。定期的に手入れをしているので、不便はないはずだ。
少し遠回りをして、桜でも見て帰ろうかと思ったのもつかの間、腹が鳴った。夕食はどうしようかと考えながら車を走らせているうちに、普段の味気ない退勤と同じルートをたどってしまった。
結局花見らしいことはできぬまま、桜は散っていった。