鈴蘭を待つ「芥川。お前の外套を貸してくれないか」
春分を迎えた頃、昼下がりの喫茶店。ポートマフィアからも武装探偵社からも僅かに離れた、街外れにポツンとある此処は近頃気に入っている店だ。珈琲は勿論、紅茶も日本茶も口に合う。夫婦らしき年配の主人と女中は煩わしく無く、だが心地良い空間を作り出す人の良さが垣間見える。
だから人虎に話がしたいと請われ、此の店を選んだのに決して他意は無い。そして唐突に言われたのが先の言葉。
「…………何をほざくかと思えば、藪から棒に何だ」
「え、理由を聞いてくれるのか? 『羅生門』で攻撃は?」
「望むならば即応えてやる。表に出ろ」
ピキリと血管が浮かぶ。場所が場所だから『羅生門』は耐えてやったというのに、発した張本人は自らの身を守る様に両腕を顔の前に構えていたのだ。
「イエ、ココロノソコカラオコトワリシマス」
「ふん」
気を鎮める意味で一口珈琲を啜る。人虎も砂糖とミルク入りの珈琲に口を付けている。
「で、何なのだ」
「あ、うん。詳しくは言えないんだけど、今度特務課との合同任務に就く事になってさ。其れが外つ国との合同でもあって、長くヨコハマを離れる事になりそうなんだ」
話を聞くと人虎、と云うよりも人虎の異能力が必要な任務らしい。特務課と外つ国との任務ならば秘匿性が高く、多くを語れないのも致し方無いだろう。詳細を知る者が少ない程、漏洩の危険性も減る。
「其れでな、一人でヨコハマを離れる長期任務って初めてだし。ちゃんと帰って来れる様に、御守り的な物が欲しいって言うか…ろ否、お前にとって外套が特別に大切なものだってのは分かってる! だから外套じゃ無くても、手巾(ハンカチ)とかペンとかでも良いんだけど……」
「そうか」
話を聞き終え、僕は温くなり始めている珈琲を普段より幾分か早く飲み干して、席を立つ。珈琲杯を両手で弄っていて座り心地が悪そうにしている人虎に「何をしている」と呼び掛けた。「ふぇ?」と間の抜けた声を発した愚者に『羅生門』をけしかけてやろうかと頭を過るが、時間が勿体無い故見逃してやる。
「太宰さんから賜った外套を貴様なんぞに貸す心算は皆無だが、私服の外套ならば吝かでは無い」
「え、じゃあ……!」
僕の言わんとしている事を理解したのだろう。八の字になっていた人虎の表情が、一瞬でパッと明るいものに変わった。
「私服を貸してやる代わりに、人虎がヨコハマにおらぬ間の外套を今から購いに行く。当然貴様にも付き合ってもらおう」
「うんっ! 有難な、芥川」
「ふん————人虎、一つ言っておく。貴様の殺すのは僕だ。他者に殺されるのも、何処ぞで野垂れ死ぬのも許さぬ。其の事を努々忘れるな」
其れから今持っている私服の外套と大差は無いが、僕と銀では選ばぬであろう意匠のものを人虎と選んだ。
人虎が任務へと赴いたのは、其の数日後だったらしい。
✽✽✽✽✽
人虎が任務に赴いてから、半年と少し。
共に購いに行った外套もだいぶ馴染んで来た。
其の間、当然だが何の連絡も無い。探偵社には特務課を通じて連絡が行っているやもしれぬが、僕の預かり知らぬ所だし知る必要もない。
禍狗としての任務も支障は無い。寧ろ目障りな存在がいない事で邪念無く仕事に邁進出来ている。
「どうぞ」
女中の柔らかく控え目な声と共に卓に差し出された焼き菓子。珈琲以外は何も頼んでいない筈だと云う意味で視線を向けると、「サァビスです」とニコリと微笑まれた。ホカホカと温かそうなスコーンが一つと、同じ皿の上に乗っている透明な小皿。小皿には長春(ちょうしゅん)色のトロリとしたもの。
「今年も無花果のジャムを作りましたので、味見をお願いしても良いですか? 確か無花果がお好きだと去年言われていましたよね」
言われるとそんな会話を主人と女中と交わした記憶がある。細やかな会話を自然と覚えている、そんな気遣いが此の店を心地良くさせている秘訣の一因なのだろうか。だが————
「済まぬが此れは貰えぬ」
此の店の無花果ジャムが美味だと知っている。だが僕には貰えぬ理由があった。
「今は無花果断ちをしている故」
「あら」
「折角の気遣い、申し訳無い。焼き菓子だけ有り難く頂戴する」
「そうなのですね。此方こそ勝手にすみません。代わりに別のジャムをお出ししましょうか?」
「……そうだな、では頂こう。正規の料金は払う」
「まぁ。では半額だけ頂戴しますね」
僕の身勝手な理由と詫びを、店側は嫌な顔一つせずに受け取ってくれた。
また、此の店に通う理由が増えた。
✽✽✽✽✽
其れから更に二年。
其の間、人虎から一切の連絡も無い。合同任務で偶々共に行動する事になった鏡花からは、探偵社には特務課を通じて連絡があると聞かされた。但し場所や任務内容などの詳細は矢張り伏せられた状態らしい。
鏡花からは「心配?」と問われたが、何故僕が奴を案じねばならぬのだろうか。二年前と変わらず僕の預かり知らぬ所だし知る必要もない。
だが禍狗としての任務に僅かな支障を感じてしまった。目障りな存在がおらず邁進出来ていたと云うのに、此処に人虎がいればより的確に素早く敵を押さえられた筈だと考えたのは一度や二度では無い。此の苛つきは自らへのものなのか、人虎へ向けたものなのか……釈然としないものが胸の奥で埋(うず)めいている。
「今年も無花果のジャムを作ったんですけど……如何しますか?」
女中から話し掛けられたのは、そんな日々が続いた頃であった。
人虎がヨコハマを離れてから無花果の季節は今年で三回目になる。主人も女中も詳しく聞く事は無いが、僕に思う所があって無花果を食していない事は知っている。だからこその気遣いの言葉なのだろう。
だが、僕の応えは去年一昨年とは違う。
「否、無花果断ちは今日で終いだ」
そう言うと主人と女中の表情が一変した。まるで我が事の様に嬉しそうだ。
「まぁ、願掛けが叶ったのですね」
「其れは其れは……おめでとうございます」
主人と女中の言葉に礼を言おうと口を開き掛けるのと時をほぼ同じくして、カランカランと店の扉の呼び鈴が勢い良く鳴る。
次いで姿を見せる黒を纏った白。
そして————
「ただいま、芥川!」
記憶にあるよりもほんの僅かに低くなっているが、底抜けに明るく懐かしい声が聞こえた。
【終】
鈴蘭の花言葉……幸福の再来
鈴蘭は文豪ストレイドッグス中島敦のイメージ花でもあります