路地裏に至る病〜龍の眼———スッ、サスッ
——スースッ、スッ
「如何かしましたか先輩、手が止まっていますが」
とある静かな日暮れ前、前夜に大なり小なりドンパチを繰り広げた後の独特な空気が漂っているポートマフィアにて。上がって来た報告書を手にした儘の芥川は部下の樋口一葉からそう指摘される。
「お渡しした報告書に何か不手際でも?難しい顔をされて何やら考え込んでいる様に見えましたが……」
「む?」
「口元に当てている手の指で、こう、スッスッとなぞられていました」
「!」
樋口の仕草を見て、芥川は自分の無意識の行動に目を軽く見張った。思い当たる節があるからだ。
「そうか……否、唯此の報告書を見て僕なら如何動くか、と想定していた迄だ。特に他意は無い故、貴様は貴様の仕事をしろ樋口」
「は、はいっ先輩っ!!」
******
「くくっ無意識、か……熟彼奴は不可解な行動をさせてくれる……」
無事に報告書を読み、上層部への直々の報告も終えた芥川は、其の後特に仕事も残っておらず、早々に帰途に付いていた。其の足で雑多な建物と其れ等の室外機が無造作に、けれどどこか整然と並んでいる印象のある路地裏へと向かっている。勝手知ったるポートマフィアの庭とも言える其処は、何処を如何行けば何があるのか熟知しており、何の目的も目印も無くとも迷いの無い確りとした足取りで向かった先はほんの少し開けた空虚な場所。否、空虚な場所と思っていた芥川の視線の先には期待していた先客がいた。
「いる訳、ないよなぁ……」
ほんの少し空気が振るえて、芥川の元迄届いた呟き。其処には期待して、期待が外れた自嘲が含まれている。其の自嘲は何処から、何から来ているのか手に取るように理解した芥川は口元を手で覆い、スーッと意識して自分の唇を指の腹でなぞる。
面白い、と思った其の時には『羅生門』で早蕨を発動していた。
「無意識かぁ……芥川の莫迦……って、ぅわっ!!??」
「莫迦などとはまた一方的に言ってくれるな、人虎」
「ぅぇえっ!芥川っ!?」
流石は獣、気配を殺した芥川の殺気に気付き其の場から飛び上がる。が、其れは想定済みの動き。グンッと『羅生門』で後ろに勢いよく引っ張ると、覚えのあり過ぎる呻き声と案の定間の抜けた顔が其処にあった。今日は逆さ吊りにしていないだけマシと思え。
「お前さぁ、此れが1ヵ月振りに顔を合わせた恋人に対する態度かよ」
「愚者が、貴様如きには此れでも十二分に過ぎる。其れとも何か?絵物語の様にしろ。とでも言いたいのか?」
「芥川が?……う〜ん、其れは其れで、気色悪いかも」
一応師から歯の浮く様な台詞も態度も一通り習いはしているから、格好だけならば出来なくも無い。然し其の様なもの、僕達には似合わぬというもの。
想像したらしく、生意気で失礼な事をぬけぬけとぬかした敦を中途半端に宙に浮かせていた状態から無造作に壁側に放り投げてやった。猫科の獣宜しく、空中で身体を捻って壁すら使って難なく着地した敦が顔を上げる前に距離を詰めておく。目の前にいた僕の姿に驚き、身動ぎした身体は混凝土の壁と芥川自身に挟まれる。僅かに見開いた紫黄水晶の瞳が今日はやけに美しいと感じ、瞳を堪能しながらゆっくりと顎を掴む。
「あ、芥川……?」
「黙れ」
辛うじて出したであろう問い掛けの声は直ぐ様一蹴した。互いに言葉も無く、ただ敦は指の腹で唇を何度も何度もなぞられる。控え目に溢している熱の籠った吐息に俄かに己の吐息を重ねる。
「っ、んんっ……ふ、ぁっくた、ん……」
口付けされたのだと判った瞬間、敦は吐息と共に甘さが足された声を漏らした。
自分のものよりも僅かに厚く柔い唇、温かい体温、石鹸と陽光が微かに混じった敦の淡い匂い、耳に心地良い甘やかな吐息が含まれた声。無意識に求める程に乞うていたものが手に入ったのだ。歓喜で心が密かに震えた芥川は夢中で口付けを施す。
ぼやける程に近くにある敦の明朗で淡い色彩の顔(かんばせ)、其れを裏切るかの様な印象強い二色の瞳は口付けの最中でも閉じられていない。常ならば無垢を装う小癪な瞳の其の奥底、誰にも見せず秘匿している胸のどす黒く汚い部分まで残さず引き摺り出してやろう、そんな気にさせる。
———ゾクゾクゾクッ
足元から背筋に、背筋から脳にまで電流が走った。嗚呼、此の男の全てを引き摺り出してやりたい、此の男の幼さも醜悪さも全て見たい。明け渡せと視線でぶつけると敦の瞳が閉じ芥川は口付けを深める。
「は、あぁ、ぁっ……ん、くちゅ、ちゅ、んぁっ!はっぁぁ、じゅ、じゅる、ぁむ、んんーっ!」
敦の口内で二人の舌が激しく絡まり、縺れ合う。自然、交わす水音も大きく激しくなるが、其れすら耳を犯す媚薬だ。幾度も幾度も角度を変えて、合間に呼吸を少ししては呼気すらも貪る。
「あ、く……たっ、んむぅっ!ん、ん、っひあぁぁっ!」
「ちっ」
口内の弱い箇所を狙って嬲ると、酷く感じ入ってしまった敦の身体がズルリズルリと落ちていき、遂には膝も崩れ落ちそうになった。慌てて縋る先を求め伸ばされた両腕は芥川の首に回され、芥川も咄嗟に敦の両足の間に膝を差し込んで支えた。
「ぁ、ぁう……?あ、り、がと」
「此の程度で左様な程に感じるのか。相変わらず快楽に弱い身体だ」
「だって……1ヵ月振りなんだから、仕方が無いだろ。芥川、お前は?」
「そうだな……貴様が我にも無く浮かんでは唇に触れていた程度には」
「え?おな、じ……?」
「無駄口は仕舞いだ。僕は未だ到底足りておらぬ」
「僕も……足りないっ、全然っ!もっ、っん……ふぅ、ぅぅん、あく、ったがわ、もっと……」
———もっとお前を寄越せ
僕だけ貰い受けるなど割に合わない。僕も寄越せと言わんばかりに腕に力を込め、負けじと積極的に仕掛けてきた。
異能力で殴り、掴み掛かる様に舌を激しく奪い合い、切れるギリギリの強さで噛み付かれる。此方の呼吸や時機などお構い無しに角度を変え、押し返されては僕の口内でも貪られ、貪る。唇も舌も触れていない時が無い位に互いに夢中で口付けを交わし。
「はふっ、は、ぁ、あんんっ、いっ……!ん、ちゅ、じゅる、っうぅん……あ、く……りゅう……」
「ふっ、は……あつ、し……」
其れは夜の帳が降り始めても、僅かな呼吸の音と絶えない水音が狭い路地裏に響き続ける。
矢張り僕達には絵物語の様に浪漫的な遣り取りは似合わぬ。
〈終〉