きっかけは、些細な口喧嘩だった。
お互いに引けないほどにヒートアップしてしまい、最後は恐ろしいくらい冷えた潔の声が響いた。
「もういい」
それだけ言って、潔は部屋を飛び出していった。
出ていく潔の背中を凛は動けずただ見送るだけだった。
バタンッ、とドアが閉まる音がして、静寂が広がる。ふーっ、と重い溜息を吐き出して、凛はソファに沈む。
売り言葉に買い言葉になって、自分でも思ってもいないことを潔にぶつけてしまった自覚はある。その時一瞬見せた、潔の傷付いたような悲しさが滲んだ表情。それが脳裏にこびり付いて凛の心に重くのしかかっている。
かと言って、すぐに追いかけることができるほど、凛はプライドを捨てきれてなかった。心はすぐにでも追いかけろと叫んでいる気がするのに体が動かない。体と心がバラバラでもう訳がわからない。
「クソッ……」
ぐちゃぐちゃの感情を持て余しているうちに時間は過ぎていく。時間が経てば経つほど潔に追いつけなるかもしれない。そう思っても、やはり体が動かない。
──そんな時、ふと以前の兄との会話が頭をよぎった。
『おい凛。残念ながら俺とお前は血が繋がった兄弟で、なんだかんだ言っても縁がある。繋がっていることができる』
いつぞやかの冴の部屋で兄弟水入らずで酒を酌み交わしていた時、冴がそんな話をしてきた。
カラン、と手に持ったグラスの中の氷が鳴る。
『だが、潔は違う。あいつはあくまで血の繋がらない赤の他人だ』
『んなことわかってる』
『いや、お前はわかってねぇ。そんな赤の他人が自分の隣にいることの奇跡のような事象を』
奇跡。兄からそんな言葉を聞くとは思ってもみなかった凛は、内心少しだけ驚いていた。
『他人であろうと、確かに過ごした時間で繋がる縁がある。だが』
酒が入っているというのに、凛を見つめる冴の瞳は真剣そのものだった。それほどまでに凛に伝えたいことなのだろう。
『万が一それが壊れてしまった時、それを修復するのは難しい。場合によっては修復不可能だ』
くいっ、とグラスを傾ける。冴が何を伝えたいのか、凛は何も言わず
冴の言葉を待つ。
『そうなってしまったら、もうそいつとは一緒にいられないだろう。家族と違って、そいつとの繋がりも何も残ってないのだから』
この意味がわかるか、と冴は凛に問う。
『潔世一という赤の他人がお前の隣にいるのは、いつどう転ぶかわからない、実はとても不安定な状況なんだよ。何かの弾みでその縁が壊れてしまったら最後、二度と潔はお前の隣には戻ってこない』
冴から紡がれる言葉が凛に染み渡り、そして最後の言葉が鋭く突き刺さる。
『プライドとか譲れないものもある、折り合いをつけることが難しいこともあるだろう。ただ、お前達の関係性はそれだけ不安定なのだと頭に入れた上で、その時の最善を尽くすことだ。……後悔のないようにな』
お兄様からの有り難い言葉は以上だ、という言葉で冴はその会話を締めた。
その時、凛はその言葉の重みを感じつつも、潔が隣からいなくなるという現象があまりピンとこず、その会話は凛からも続けることなくそこで終わらせた。
──あぁ、兄ちゃんの言ってることは正しかった。
今、ようやく凛はあの時冴が伝えたかったことを本質で理解した気がした。
そして、今が冴の言っていた『壊れるかもしれない瞬間』なのだとも理解した。
──すると、どうなる?
『二度と潔はお前の隣には戻ってこない』
冴の言葉が、頭に響く。
その言葉通りになると考えた瞬間、体が血の気が引いて全身がひゅっ、と冷えた。
想像しただけで、この恐怖感。これが事実となった時にどうなってしまうのか、もうそこから先は想像したくなかった。
──瞬間、先程までの体の重さが嘘のように、凛は部屋を勢いよく飛び出していた。
「はーっ……」
季節はまだ冬。夜になると、まだ白い息が出る寒さだ。
凛との口喧嘩でヒートアップしてしまって、勢いで部屋を飛び出して来てしまった。コートも財布が入ったバッグも凛の部屋に置いたままで出てきてしまった。スマホはポケットに入れてたおかげでなんとかあるものの、さてこれからどうしよう、と潔は寒空の下、思案を巡らせる。
この寒さで頭はすっかり冷えてはいたが、すぐに部屋に戻る気持ちにはならなかった。
何より凛の気持ちも整理できているとも限らないし、もしかしたら呆れ果てて顔も見たくない、とでも思ってるかもしれない。
(あ、そうだったらちょっと今泣きそうかも)
寒さのせいもあるが、先程の喧嘩は自分が思ってるより心にダメージを負っているようで、ネガティブな想像だけでも今は心が沈んでしまう。
(とりあえず、一度帰るかな……)
スマホはあるから、ひとまず帰路に着くことはできる。荷物はまた後日受け取るか、何なら送ってもらうか。
寒さは人の心を弱くする。このままじゃ、本当に泣いてしまいそうだった。
そう考えて、潔は駅へ足を向けようとした。
──その時だった。
唐突に後ろから強い力で腕を掴まれた。潔は驚きで後ろを振り返ると、そこには息を切らせ汗だくになっている凛がいた。明らかに全力で走ってきた様相だった。
「り……、ん……」
想像していなかった凛の様子に、潔は驚きで次の言葉が告げられない。腕を掴んでいる手から、冷えた体に凛の熱がじわじわと広がっていくようだった。
「はぁ……っ、はぁ……っ」
まだ息が整わない。試合と違って、何も考えず全力で走ってきたのだろう。それでも掴んだ凛の手の力は強いままだった。潔は空いた方の手でその背中を優しく擦る。
「潔……」
ようやく落ち着いた凛は、ぽつりと潔の名を呼ぶ。
「ん……」
「潔」
「なんだよ」
追いついたは良いものの何を言えば良いのか、考えがまとまらず、凛はただ潔の名前を呼んだ。それでも掴んだ腕は絶対に離すものかと力を緩めることはしない。その衝動のまま、潔の体を強く抱き締めた。
「……どこにも、行くんじゃねぇ」
それが今の凛に紡げる精一杯の言葉だった。こんな状況で、もっと言うべき言葉があることを凛自身も分かっている。でもうまく言えない。自分の不器用さがとても腹立たしく感じた。
自分の気持ちが触れ合った体から潔に伝えられたら、そんな思いから抱き締める力が増す。
「凛」
今度は潔が凛の名を呼ぶ。その声は先程と違って温かった。
「本当に、お前は不器用だな」
「……うるせぇ」
そう言われて反論するが、あまりに弱々しい。
そんなの自分が一番良く分かってるんだよ。
兄もきっと、そんな凛の性格をわかっているからあんな話をしたんだろう。
「……ここで甘やかしたら駄目なんだろうけどなぁ」
そう、ここで折れてしまうなんて、傍から見たら甘いんだろう。でも。
(──あんなに必死になってる凛を見せられたら、それだけで十分て思ってしまうのも仕方ないだろ)
誰に言ってる訳ではないが、心の中で潔は言い訳のようにそう思ってしまった。
「帰ろうぜ、凛」
「……あぁ」
それだけ言って、潔は乱れた凛の髪を優しく撫でる。自分を撫でるその手を、何も言わず凛は目を閉じて享受する。
また、潔の優しさに甘えてしまったという自覚はある。このまま何も変わらなければ、また同じようなことは起こる。そんなのはもうゴメンだ。
サッカーだけではない。
自分自身を変えなければ。
──この先もずっと、潔の隣で歩むためにも。
そう誓いを立てるように、凛は吐き出される白い息ごと飲み込むように、潔の唇を塞いだのだった。