糸師凛を怒らせるべからず。
そんな暗黙の了解がこの青い監獄で過ごす大抵の人物にはあった。一部、そんなものどこ吹く風とばかりに煽り散らかす者もいたが。
理由は非常に簡単。
凛を怒らせたりイライラさせてしまい機嫌を損ねてしまうと、その眼力や顔面の強さ、何より隠しきれないその強者たる故のオーラがその場にいる者全てを圧倒してしまうのだ。
そして何よりこの監獄にいる上で一番重要なサッカーをプレイする上でもチーム内の雰囲気が悪くなってしまう。
こうなってしまうとそう簡単に軌道修正も出来ず、凛以外の人物はただ時が過ぎてほとぼりが冷めるのを待つしか無いのだ。
そのあまりに居心地の悪い空間を生み出さないために、何より己の心の平穏のため、この青い監獄で過ごすうちはなるべく凛の地雷を踏まぬよう各々が動いてきた結果、そんな暗黙の了解が生まれたのだった。
とは言え、それで全て解決できたら苦労はしないものだ。
「チッ! クソが……っ」
現に今、練習中だった凛が大きく舌打ちをしたかと思えば、ズカズカとフィールドから抜け壁際に寄りかかってドカリと乱暴に腰を下ろした。
試合形式で行っていた練習で他のメンバーとの連携が上手くいかず、パスミス等大きなものから小さなものまでミスが連発していた。
「ありゃりゃ、今日の凛ちゃんは絶不調かにゃ〜」
いつもより何割増しかの不機嫌オーラが漂うこの空間で他のメンバーがたじろぐ中、一人それを全くものともしない声色でそう告げたのは一緒に練習に参加していた蜂楽だった。
蜂楽はこの凛の不機嫌オーラを当てられたところで全く動じない。むしろ凛ちゃんが機嫌悪いのなんてしょっちゅうだし、と自分だけで考えたら何の問題もないのだが、少なくとも今は他のメンバーも絡む練習中。そう言って放っておいてもこの先状況の改善は見込めなかった。
(今日はいつもより苛立っちゃってるっぽいし、そのせいで他の子達がより緊張しちゃって余計にミスが出ちゃってるんだよね……)
うーむ、とうしたものか。
凛の機嫌を直すなんてそう簡単にできるものではないし、何よりその不機嫌の根幹は常に上を目指す凛だからこそ起こる己の理想と現実のギャップから生まれているのだ。そう簡単な話ではなかった。
このままでは練習にも支障がでかねない、そう頭を悩ませていたところ。
この嫌なムードを払拭することができるであろう、この監獄唯一の人物が現れたのだ。
「蜂楽! ここにいたか」
「あっ! 潔じゃん、やっほ~」
入口から現れたのは、潔世一。
蜂楽の相棒とも言える存在。
そして、何より糸師凛と最良のパートナーとまで絵心に称された人物だった。
「練習中悪い。帝襟さんからお前宛の書類一緒に預かったからさ、終わったあとで取りに来てくれよ」
「ん、おっけー! この時期の書類ってことは学校からかな〜」
うげぇ、と舌を出して面倒くさいというのを隠しもしない蜂楽に潔は苦笑いを浮かべるしかなかった。
「今休憩中か?」
「ん〜、そんなとこといえばそんなとこ」
「? なんだそりゃ?」
「あーれ」
蜂楽の答えに首を傾げる潔に、蜂楽は凛のいる方向にそっと指をさす。潔もそれにつられて凛のいる方向へ視線を向ける。
「あー……」
「凛ちゃんがあんな感じだからさ、この後どうしよっかな〜って考えてたとこ」
「……」
「潔?」
返答が返ってこない潔を不思議に思い蜂楽が名前を呼んでみる。潔はそれに答えることなく、視線をそらさず凛の元へ近づいていった。
「凛」
潔が名前を呼ぶと、ぴくりと身体が反応したものの返事は無い。
「凛」
「……」
「凛」
「………、うるせぇよ」
放っとけ、と言葉を続けようとした凛に次の瞬間、頭上から凄まじい衝撃が落ちてきた。
「!?」
落ちてきた衝撃による痛みで目の前がチカチカと点滅し、何が起こったのか理解するのに数テンポ遅れてしまった。
驚きでパチクリと目を見開いて自分でも笑えるくらいの間抜け面になっているだろう。凛はその衝撃を落とした犯人であろう目の前の人物を見上げると、その右手が拳を握っているのが分かった。
遠目で蜂楽がわぁ、と楽しそうに笑っているのが視界の端に見えて、瞬間カッと怒りのボルテージが上がる。
「テ、メェっっ!! 何しやがる!!」
立ち上がって潔の胸ぐらを勢いよく掴み、そのままその身体を壁に打ち付ける。
周りの雰囲気が一気にざわめいたが、そんな事は知ったことではない。
ぎりぎりと胸ぐらを掴んで怒りのまま潔を睨みつける凛だが、反対にそんな強すぎる激情をぶつけられても潔の表情は変わらない。澄んだ青が凛を見つめ返すだけであった。
そこには怒りも哀れみも感じない。ただ、凛の怒りさえ全て吸い取ってしまうような深い青があるだけだった。
「凛」
再び名前を呼ばれれば、詰め寄ってたはずの凛が何故か身体を震わせてしまう。
「目ぇ覚めたかよ、クソガキ」
「は」
普段の潔とは全く違う声色が響き、周りにいた人物は戸惑いを隠せない。
試合中のエゴイストを全面に出している時とも違う、全ての揺らぎを一瞬で止めてしまうような、静かで、それでいて反論する隙を与えない、そう感じさせる声色だった。
「ここはお前の城じゃねぇんだよ。そんなことも分からず喚き散らしてるんだから、今のお前はただのクソガキ」
「〜〜っ、〜〜っっっ! チッ!」
何かを言いたそうにしているが、それ以上言葉を紡ぐことが出来ないのか、凛は声にならない唸り声をあげる。そして、先程より特大の舌打ちをして乱暴に潔の胸ぐらを掴んでいた手を離した。
「凛」
「…んだよ」
「もう大丈夫だな?」
「……」
潔の問いかけに凛は答えなかったが、傍から見ても先程まで凛の周りに充満していた不機嫌なオーラはほとんど見えなくなっていた。
それを確認し、次に発した声はいつもの潔に戻っていた。
「まったく、そうやってすぐ不貞腐れるの良くないぞ」
「るせぇよ、つか触んなクソが」
先程自ら鉄拳制裁を与えた凛の頭をわしゃわしゃと撫で回す潔。それを凛はうっとおしそうにしてるものの、振り払おうとはしない。
先程のピリついた空気が嘘のように通常に戻っていくのを周りのメンバーは感じていた。
「じゃ、邪魔したな! 凛、あんま他の奴らに迷惑かけんなよ! 蜂楽、あとはよろしくな」
「うるせぇよ……、とっとと出てけ」
「あいあーい、ありがとね潔!」
そう言ってあっという間にこの騒動を収めた潔は、まるで春の嵐のように唐突に現れて去っていった。
一連の流れを見ていたその場にいたメンバーはぽかんとしたまま、その場から動けずにいた。
騒動の当人である凛はすっかり通常通りに見えた。そこへ「潔に怒られちゃったね、凛ちゃん」と意地の悪そうな笑みで近付く蜂楽に「うるせぇ」と一言言って何事もなかったかのように凛は再び練習を再開しようとしていたのだった。
(あの糸師凛にげんこつかまして大人しくさせるなんて、潔世一って実はめちゃくちゃ怖いのでは……?)
試合中ならともかく、普段はあの通り至って平凡な好青年。
なのに先程見た光景はまるで、猛獣を目と指先一つで手懐けてしまう調教師のようだった。
そのギャップが、余計に潔世一という人物像を不可解で、恐ろしいもののように感じさせてしまう。
この騒動を見たメンバーは全員、心の中で誓う。
糸師凛を怒らせるべからず。
否。
潔世一を怒らせるべからず。
「なー、蜂楽」
「ん〜?」
「最近さ、俺が声をかけると色んなやつが身構えてくるんだけどさ、俺、何かしたかなぁ」
「あ~……」