神さまのこどもたち 夜は窓ガラスの向こうにある。
ベッドがふたつと窓辺にデスクがあるきりの、無機質な部屋は蛍光灯のあかりの下しらじらとしていた。空調は暖かくもなく寒くもなく、どこか乾いて清潔な匂いがする。
ホテルの一室だった。
エデンの四人で観光地案内をと、急遽はいった遠方の仕事だった。そのため手配が追いつかなかったらしい、駅前のビジネスホテルにようやく二部屋を確保したのがつい先ほどのこと、閣下と殿下におかれましてはいまひとたびのご辛抱をと茨はしきりに恐縮していた。
日和とジュンは隣の部屋にいて、すでに寝入っているのかもの音ひとつしない。
五時間以上のロケをこなしたうえに、お風呂が箱みたいだとかベッドに手足がおさまらないだとか、日和いわくの「発見」をするたびこちらに報告をしにきていたから、さすがに疲れたのかもしれなかった。
部屋の入り口あたりで茨が電話をしている。
ときおり声をひそめるのはならい性か、それともこちらの耳を気にするものか、後者ならすこしさびしいなとそんなことを考えた。
時計の針は十のところをさしている。
シャワーを浴びた髪はまだすこし湿っていて、茨に気づかれたら怒られるかなとおもいつつ凪砂は動かないでいる。
室内の灯りがふいと翳ってまた明るくなる。空調がかすかにぶんと音を立てた。
ベッドに腰かけて本を読んでいると、通話を終えた茨がやってくる。
寝るのかなと眺めていると、タブレットを手に立ったままで仕事をはじめた。
ひとさし指ひとつで画面を開いては閉じ、スクロールさせては止まる。無駄のない動きに凪砂はすこしだけ見とれて、それからこっそり真似をしてみる。これがビジネスマンの動き、と確かめるように口にして、頭の隅にたたみこむ。
集中しているのか、茨はたまに小声で天上の存在を罵るようなことを言う。
権力闘争に興味はないけれども、茨がまたどこかで悪い子の役をやっているのだろうなということは確かめるまでもなかった。
「……精が出るね」
そう言えば、茨はタブレットから顔をあげる。
いつであれ茨がこちらの声を聞き落とすことはない。それが世のならいとしてはずいぶんとめずらしいことなのだとは、星奏館に移ってしばらくしてから気づいた。
「……また戦争ごっこ?」
「男の子は陣取りゲームが大好きですからな」
否定もしないでそんなことを言う。どうしてそうわざわざ苦労を背負うものかと、小首をかしげてみても相手はただほほえむばかり、こまったものだねと凪砂は本を閉じる。
男の子、と先ほど聞いたばかりの文言を口のなかでくりかえしてみる。
茨はいつも、世間ではとうに古びてしまったような言葉を平気でつかう。そうして自分の本意をそのなかに隠してしまう。
会話とはそういうものかと昔はすなおに感心していた。
いまでは茨はちょっと面倒くさがりだとおもう。
「……『男の子』だって千差万別だよ」
茨はにっこりとして、閣下にはかないませんな、と言った。
その手にあるタブレットの画面、ネットの記事らしい、コズミックプロダクションという文字がちらりとのぞいた。こちらの視線に気づいたか、茨がすいと指先ひとつで画面を消す。記事の内容はその身ぶりだけでも察せられたから、あえて問うことはしないでおいた。
茨はタブレットを机に置き、そろそろ寝ましょうかと言った。
しろいシャツの背を凪砂は眺める。ふだんは大仰な身ぶりを好むくせ、ふとしたときに見せるその佇まいには一切の無駄がない。それがアイドルとしての鍛錬によるものか、それとももとよりのなにかなのかは凪砂にははかりようもない。ただ茨はとても綺麗だと、そればかりは知っている。
それほどに綺麗ななりをして、茨はみずからを最低野郎と定義する。
凪砂はふたたび小首をかしげる。自分のおもてがすこしばかりしかめられていることには、窓ガラスに目をやってから気づいた。
みずからを底辺にあるものと決めこんでしまえば、どんな誹謗も悪口もさらなる傷をつけることはできない。
そうしておいて、茨はすべてを自分の戦争にしてしまう。
愚かだと決めつけることはたやすいけれど、どうしてか、それよりほかの方策があるような気がして凪砂は口をひらく。
「……反対も非難も戦うことも、だれかのためという大義名分があるならむしろたやすいのかもしれない」
そう言えば、茨は上目遣いに小首をかしげる。おそらくは日和から自分にうつったその癖がいつのまにか茨のなかにもある。そのことがすこし胸を明るませるようで、その熱につられるまま凪砂は先を続ける。
「……これはいいこと、これは良くないこと、そういう風に善悪のコードを認識すれば、あとはそれをなぞるだけで世間の望む「善人」にはなれる。反復学習を繰り返して最適解を選ぶのはそう難しいことでもないし。脳は訓化されるものだし、学習は体験にまさらないとはいえそれなりに有効ではあるから」
閣下、と茨が片手をあげる。教えを乞うこどもめいた、そうしてわざとらしくもへつらう笑みをつくってみせる。
「自分察しが悪いもので、よろしければご説明をいただけますと恐悦至極に存じますな」
ああ、と凪砂はうなずく。
「……茨は私の光らしいと言ったんだ」
そう言えば茨はすこし真顔になる。しばらくしてふたたびにこりとし、両腕を腰に、胸をそらすようにする。
「さもしく地べたで血肉を啜るものはおめずらしいという話ですかな?」
おどけた風であるのに声の底にかすかなこわばりがある。たとえば日和やジュンとともにあるときならつい聞き逃してしまうかなにかにまぎれてしまうような、けれど静かな部屋ではそれは妙に耳についた。めずらしいというならその響きだと、思ってそれから自分が茨にとっての正解を外したのだということに凪砂は気づく。
それがいいことなのか悪いことなのかはわからないまま、ひとまず茨の言葉にひそんだ棘を壊さぬようにする。つねに仮面でみずからを鎧う茨の、綻びがいまそこにあって、だからそのさきを凪砂は知りたかった。
「……そうだね」
ひとまずうなずけば茨は笑みを深くする。そうですか、という声からはさきほどの緊張は消えていて、すこし寂しいなと凪砂はおもう。
茨は話を切りあげるつもりらしい、さて寝ますかと窓辺側のベッドに向かう。
茨の望みをかなえてあげたいような気もしたけれど、さきほどの綻びがどうしても気にかかり凪砂は口をひらく。
「……そうやってわざわざ露悪的な言葉でめくらましして逃げをうつところが可愛いよねという話かな」
茨が枕を整えていた手をとめる。しばらくして、沈痛というものをかたちにしたならこうもあろうかという声を出す。
「僭越ながらそのご趣味は深淵に過ぎて自分程度の若輩者にはいささかプロデュースいたしかねますので、表に出すのはお控えくださるとありがたいですな」
「……そう」
小首を傾げてみせれば、茨はこちらに向きあい、そうですともとおおきく頷く。
「自分如きが偉大なる閣下に差し出がましいことを申し上げて恐縮ではありますが、お聞き届けいただけましたなら恐悦至極」
「……わかった。茨と私だけの秘密だね」
微笑みかければ、滔々とまくしたてていた口つきのまま茨はふいと押し黙る。
まるで寄る辺をうしなったこどものような顔をしていることに本人は気づいているものか、眼鏡の奥で見ひらかれたままの目がいつもより澄んでいて綺麗だなと凪砂はおもう。
手をのばし、眼鏡をはずしてその色をもっと近くでみつめてみたい気もしたけれど、そこまでするときっと茨はかえってかたくなになってしまうだろうからやめておくことにする。
しばらくして立ち直ったらしい、茨はふうと息をつきおおげさに肩をすくめてみせる。
「閣下の空よりも広く海よりも深いご慈悲に小人たる身では及びもつかず、醜態を演じましたことどうぞお許しくださいますよう。さて、夜も更けて参りました、閣下におかれましてはどうぞご就寝の程を願います」
はいはい寝ましょうおやすみなさい! と、いつものように言葉を飾る手間をもかなぐり捨てて茨はさっさとベッドにもぐりこんでしまう。そのうえに電灯まで消されてしまったから、凪砂はしょうことなしに本を枕元に置き、茨の言うままシーツのうえに横たわる。
ガラス窓の向こう、うっすらとした街の明かりにかたわらにあるひとの姿がぼんやりと浮かぶ。
わざとなのかこちらに背を向けて、茨は蓑虫のようにシーツにくるまっている。
人工的にととのえられた清潔な空気のなか、かすかに馴染んだひとの匂いがした。
そう考えて、凪砂はひとり小首をかしげる。
それを馴染んだものととらえるほどに、茨は自分のそばにいるのだと、そんなことにいまさら気づいた。
暗がりのなか、たしかにそこにあるひとに凪砂は声をかける。
「……おやすみ、茨」
「おやすみなさい、閣下」
あれほど潔く切り捨てておいて、やはり茨がこちらの言葉を拾い落とすことはない。その律儀さに凪砂はこっそり口の端をあげる。
馴染んだひとの匂いも熱も、けして消えることはない。そのことが胸の底を明るませる。
ゆるりと溶けてゆく頭の片隅で、これが安心というものかとおもいいたった。
茨はいつも、自分にいろいろなことを教えてくれる。
「……やっぱり茨は私の光だよ」
つぶやけば、しばらくののち恐縮ですとやけくそのような返事がかえってくる。
ふふと笑い、凪砂もまたベッドにもぐりこむ。きょうはきっと良い夢を見られそうだと、そんなことをおもいながらゆっくりと目を閉じた。