冬の夜 十二月の街は底冷えがする。
夜ともなればいっそうで、厚手のコートにマフラーをぐるぐる巻きにしてもまだ足りない。革の手袋は隣を歩く恋人とおそろいのものだった。おなじ色かたちをしているのにサイズがひとつ違うのがどうにも小憎らしい。
石畳にのびる影もまた、恋人のほうが頭ひとつぶん高い。おおきくなったもんだとちいさくつぶやいてみる。声は耳にとどくほどにはならず、白い息にまぎれて消えた。
足元を枯れ葉のかけらが転がっていく。きんと冷えた夜の匂いがマフラー越しに鼻先をかすめた。
街は石と煉瓦でできている。教会の尖塔がすっくりと夜空にのびて、満月に細い線を刻む。あたりの景色はかつて過ごした街そのもので、けれど星の並びは違うからなにやらおかしな心地がする。
しらじらとしたあかりに照らされた、恋人の額にはおおきな傷痕がある。どれだけ背がのびたとしてもそこばかりは変わらない。いいめじるしだなと、今度は聞こえるように言う。察しのいい恋人は、そっちもだろとちいさく肩をすくめてみせた。
さきほどまで恋人の隣には恋人とおなじ顔をした男がいた。歳も背格好もそっくりそのまま、重ねた歳月によるのかそれとももともとの気性か、ふたりともそれをもはやあたりまえのこととして受け容れていた。
夜気にまぎれてかすかな酒の匂いがする。離れていた十年のうちにどこからか拾ってきたらしい、聞き覚えのない歌を恋人は口ずさんでいる。
恋人とそっくりな男の住む街は、自分と恋人がかつて過ごした街ととてもよく似ていた。
あの角を曲がればむかしの家に帰れそうだと恋人が言う。父と母とともに暮らしたあの家に、帰りたいかとたずねてみれば恋人はさあねとふたたび肩をすくめる。
夜は更けて、通りの窓に明かりはない。石畳をうつ靴の音ばかりがあたりには響いている。
さっき、と口をひらけば恋人は律儀にこちらを向いた。
「向こうの君の妻と話をしたよ」
恋人はきまじめな顔をしてオリガだよと告げてくる。その名をもったもうひとりの少女はこちらのオリガと付き合ううちに恋人のなかから消えるのか、それともむしろたしかなものになるのかと、そんなことが頭の隅をちらりとよぎる。
「『あっちのマルコのそばにいるのが私じゃなくてちょっと嬉しい』、彼女はそう言っていた」
ね、とのぞきこむようにすれば恋人はなにを言われたのかわからなかったらしくきょとんとする。
「なんで?」
のんきな口ぶりはこどものころから変わらない。鷹揚なようでいてこちらのふるまいにいちいち付き合うところもと、そう考えてすこし笑った。
「なんだかね。どんな世界のマルコの隣にもぜんぶ私がいるなんて、そんなのちょっと雑じゃない? だそうだ」
雑、とくりかえして恋人は顔をしかめる。わからんでもない、そんなつぶやきがしばらくして聞こえた。
舗道沿いの常夜灯がちかちかと点滅している。薄闇のなか恋人の額の傷はあおじろい。
指をとってみれば恋人は嬉しそうにした。軽く握って、それからふたたび手を離す。恋人の口がみるみるうちにへの字になった。くだものの種を飲み込んだらへそから生えてくるんだぞという嘘を真に受けて泣きべそをかいていたこどもの姿をおもいだした。
『どんなオリガでも絶対にマルコに好きになってもらえるなんて、そんなのちょっといやだなっておもうの贅沢かしら』
さきほど話した女性の声がふと耳によみがえる。
『男でも女でも年上でもおないどしでも年下でもどれでもよかったんだって、いろんな選択肢とか偶然とかがあって、そのなかからマルコが私に、私がマルコに決めたんだってこうしてはっきりわかるのってうれしいことよね』
ね、とほほえむ女性に自分もまた笑みで応えたことは恋人には秘密にしておく。運命だなんて言ってしまえば、恋人は有頂天になってなにやらおかしなことをしでかしてしまいかねない。そんなことが予測できるくらいの歳月を自分は恋人とともに過ごしてきたのだと、こっそりゆるめる口元もマフラーの下に隠しておく。
ふりかえった。
足元からのびた影は通り沿いの建物や常夜灯のそれに溶けこんでいる。隣を歩く恋人の影は月明かりに照らされてくっきりとかたちどられている。
ぽんぽんと自分の腰のあたりをたたいてみる。厚いコートにつつまれた、その下にある皮膚はさきほど饗された酒気のせいではなく赤い。痛みは歳月に薄れるとしても、泥とよばれた昔は消えない。
ひいやりとした風がコートの襟元からしのびよってくる。
この街に辿り着けなかったこどもはいまどこにいるのだろう。そんなことをぼんやりとおもった。
隣を歩く、恋人がふと身をかがめたようだった。気遣わしげな目がこちらをみつめている。
きれいな目だった。そこに映る自分の姿はどうにもよるべなく、どちらがこどもなのだかわからなくなりそうだった。
手をのばし、恋人の指と自分の指とをからめる。揃いの革はごわごわとしていてぬくもりなど伝わらない。それでもぎゅうと握ってみれば、恋人はやはりうれしそうな顔をする。そのうえに、十年間こんなことがしたくてたまらなかったと殊勝なことを言うからついつい笑ってしまう。
「まったく、私もとんでもなく贅沢者だ」
そう口にして、恋人の手を自分のコートのポケットに入れる。握りかえしてくる指の強さが心地よかった。