これはあれだ、不可抗力ってやつだ。
ある日のこと、食材を買いにリトルトーキョーで買い物をしたら、くじ引きの券を貰った。
勧められるまま一枚引いたら、五等だか六等だかが当たって、手が塞がっていたのでろくに中身を確認せずに手提げ袋に入れられたそれをそのまま受け取った。
持ち帰って箱を開けると、デカいハートのマークが目に飛び込んできて、流石に固まった。
側面にでかでかとハートが描かれたペアのマグカップが二つ、箱に並んで収まっていた。
冗談キツイと、まず真っ先にそう思った。
その場で断れば良かったのだが、今となっては後の祭りで、今更捨てるのも憚られる。
仕方ないから誰かに譲ろうと思い、とりあえず自宅のテーブルに箱のまま置いておいた。
その日はブラッドが来る日で、だから和食を作るためにリトルトーキョーに赴いた訳で、下準備をしているうちにすっかりマグカップのことを忘れていた。
そうしたら、オレが夕飯を作っている後ろでブラッドがその箱を開けたのだ。
不自然に会話が途切れて振り返ったら、ブラッドは赤いハートがでかでかと描かれたマグカップを取り出して、じっと見詰めていた。
「しまった」と思っても時すでに遅く、弁解しようにも、かち合ったブラッドの瞳は輝いて見えて、喉元まで出かかった言い訳をつい飲み込んでしまった。
「これはお前が買って来たのか?」
「え~っと……まぁ……そうだな……」
「そうか……」
どうせ売れ残りを景品にしたのだろう、見るからに安っぽいそれは、うちのメンターリーダー様の手には似合わなかったが、本人は案外気に入ったようで、その日から赤いハート柄のをブラッドが、黒いハート柄のをオレが使うことになった。(オレは絶対に赤は嫌だと言ったらすんなりと黒い方を譲ってくれた。)
こんなもの置いておくのもこっぱずかしいのに、ブラッドはうちに来る度にそのカップを使って、余計に処分出来なくなった。
そうして、不本意にも揃いのカップを使い始めた訳だが、先にも言った通り売れ残りの安物だと思ったのは本当だったようで、洗うときに少し力を入れただけで持ち手が取れてしまった。
タイミングが良いのか悪いのか、それはちょっとした喧嘩をして、ブラッドとプライベートで口を聞かなくなってからちょうど二日目のことだった。
そして今、壊れたマグカップを前に、オレは非常に悩んでいた。
「……捨てちまってもいい、よな……?」
取っ手の取れた赤いハートのマグカップ。
別にプレゼントした訳じゃない。オレの家にあるオレの食器をどうしようが勝手だろう。
ブラッドがよく使っていたというだけだ。それも、あいつが勝手にそうし始めただけで。
いや、まぁ、ブラッドが来る日は洗っておいたり、来ない日は締まっておいたり、そうしていたのは確かだが。
だが、いくら何でも、もう使えない物だ。マグカップが割れたから捨てるという、それだけのことだろう。
そう思うのに、いざ捨てようとすると手が止まる。
ブラッドは怒るだろうか。怒らないまでも、小言くらいは言うかもしれない。悲しまれるよりはそっちの方が全然マシだが。
ちゃんと話せば納得はするだろうが、内心どう思うかは分からない。
きっと、こんな関係になる前なら、壊れたものをいつまでも捨てない方が煩く言われただろう。
深々と溜息を吐いた。
一人の部屋にそれはやけに大きく響いた。
接着剤で付けてみようか。あとは、店に持ち込んで修理を頼んでみるとか? でも、こんな安物を?
いっそ、やすりを掛けて花瓶にでもしようか。花でも生けて窓辺に置けば、それらしく見えるかもしれない。
様々なことを考えながら、テーブルに頬杖をつく。どの選択肢を選んでもすっきりしない気がする。
(ブラッドには何て言おう)
壊れたのは仕方ない。ワザとではないし、不可抗力だ。
喧嘩はこれとは関係の無いことで、意地を張っているだけの些細な事だし、一言伝えるだけなら大した手間でもない。
なのに、何故こんなに心が塞ぐのか。いっそもう理不尽なくらいだ。
思えば、お揃いの物なんて今まで持っていなかった。
ディノと三人一揃いの物はあったが、こんな関係になっても、二人だけの物は無かった。
ブラッドはうちに泊まった日は必ず、翌朝コーヒーを淹れてくれた。
このカップを使うようになってから、ブラッドがどんなに朝早く出ようとも、オレが起きたときに書置きしか残さなくても、必ずこのカップが使われた形跡があって、リビングにはコーヒーの香りと、水切りかごに洗ったこれが置いてあった。
ブラッドなりに大切に思っていたのだろうか。
それを黙って捨てたとなったら、どう思うのだろう。
ガリガリと頭を掻く。もう一度深々と溜息を吐いて、スマホを取り出した。
欠けた取っ手とカップを写真に撮る。
その画像をブラッドに送り、『壊した』と一言添える。悪い、と続けて送信する。
これで何も反応が無ければ捨てよう。
煙草を取り出し一本咥えた。と、スマホから着信音が鳴る。
見るとブラッドからの着信であった。恐る恐る通話ボタンを押し、耳に当てた。
『怪我は?』
落ち着いた声だった。喧嘩中とは思えない、いつも通りのブラッドの声。
「……無いです」
『なら良い』
あっさりと会話が終わる。
分かっていた。こいつはこういう奴だ。カップ一つでうだうだ考えていたのが馬鹿みたいだ。
でも、胸のつかえは取れない。
呆気なく許されて、後ろめたさだけが残ってしまった。
「あー……その……悪かったな」
『物はいつか壊れるものだ。怪我が無いのならそれでいい』
口がムズムズする。もっと何か言いたいのに言葉が出ない。
怒られもせず、悲しまれもせず、ただ心配されるばかりで、𠮟られ損なった子供のような気分。嬉しいような、申し訳ないような。
「……なんか、食いたいもんあるか?」
何となく良心が咎めてそう言うと、ブラッドは一瞬間を置いて、「肉じゃが」と答えた。
『それと、だし巻き卵と味噌汁。少し遅くなるが、日付が変わる前には行けるはずだ』
「りょーかい。先に食ってるから、タワー出る前に連絡くれ」
『分かった。何か買っていくものはあるか?』
「……花、とか? まぁ、気が向いたらでいいわ」
やすりを掛けて花瓶にしよう。こんな部屋には似合わないかもしれないが。
また後で、と言い合って通話が終わる。
少しだけ心が晴れて、取っ手の部分は捨ててしまった。
その後、思いの外早くにやってきたブラッドは、冗談だったのに律儀に薔薇の花束を抱えて来たので、オレは動揺してその場に立ち尽くしてしまったのだった。
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