堅苦しい場から解放され、キースはネクタイをくつろげた。
お偉いさんとの会合は毎度毎度、ただ疲れる。
駐車場に着くや否やキースがポケットから煙草を取り出すと、ブラッドはそれを目敏く見付けて口を開いた。
「キース、煙草は帰ってからにしろ」
「一本くらい許せって。ずっと我慢してたんだから」
言われた通りイイ子にしてただろう、と言ってやると、端正な顔の眉間に皺が寄る。
並んで歩きながら一本咥えると、ブラッドはまだ何か言いたげだったが、丁度良く掛かってきた電話に邪魔されたので、これ幸いとキースは通話するブラッドを置いて先に車に戻った。
助手席側の車体に凭れてライターを擦る。薄暗がりに灯る火が眩しく目を眇める。点じた煙草を深く吸い、しみじみと味わって長く息を吐いた。
ノースのビル街の隙間にあるこの駐車場は整備されていて静かだった。
帰り支度のビジネスマンが、こんな一等地で煙草を吹かす男をチラリと眺めて通り過ぎていく。夕暮れはとうに過ぎて、西の空に僅かに残照が残るばかり。キースはぼうっとそれを眺めながら煙をくゆらせていた。
制服の袖口を巻くって、きっちり留めていた首元のボタンも外す。夕飯は何を食おうか。面倒なお偉方のお愛想に行儀よく付き合ってやったのだ。今日は早く帰って一杯やろう。
そんな画策をしていると、通話を終えたブラッドがやって来た。
車のロックを外し、まだ長い一本を味わうキースに目を向ける。
「この後、予定はあるか?」
「んー? いや、別に」
「そうか」
そう言うとブラッドはさっさと車に乗り込んだ。
エンジンがかかりヘッドライトが煌々と前を照らす。『早くしろ』と言わんばかりにライトを点滅させるブラッドに負けて、キースは携帯灰皿に吸いさしの煙草を押し付けた。
「あーあー、せっかちなヤツ」
助手席に乗り込みながら文句を垂れるも反応は無かった。
シートベルトを締めたのを確認して車が発進する。駐車場から道路に出て、最初の信号に捕まると、籠った空気を除くように空調を強くする。
信号が変わっても進みは緩やかだった。丁度ラッシュアワーにあたったらしい。なかなか進まない渋滞に、チラリと隣を見ればブラッドは涼しい顔をしていた。
前の車のバックライトに照らされて、瞳はいつもより明るい色に見える。
「少し、遠回りをする」
そう宣言する横顔はいつも通りだったので、キースは何も考えず相槌を打った。つい先ほどまで浮かべていた完璧な営業スマイルから、見慣れた素顔に戻っている。
キースは視線を前に向けた。進まない車の代わり映えしない視界。静かな車内で何を話すでもなく、窓外の景色を眺めている他にない。沈黙を厭う間柄でもないが、遅々として進まない道に、流石に気まずくなってくる。
「……混んでんな」
「ちょうど帰宅時だからな。次で道を変える」
落ち着いたブラッドの声。空調とエンジンの音。会話が終わればまたしても訪れる静寂。
「なぁ、ラジオ点けねえ?」
何もないよりはマシだろうと提案すると、ブラッドは黙ってカーラジオのボタンを押した。
淡々とニュースが流れ、知らない政治や事件の話が続くので、キースは勝手に番組をぽんぽん変えていく。
「何か聞きたいものがあるのか?」
「いや、別に」
軽やかな音楽を見付けて指を止める。控え目に流れる曲に、これでいいかと背凭れに体重を掛けて足を伸ばした。
適当に選んだ局だが、うるさ過ぎず丁度いい。一曲終わり、短く曲の紹介をした後に次の曲が始まる。少し昔のヒットチャートを紹介する番組らしかった。
ブラッドがハンドルを切って横道に入ると、ようやくスムーズに走り始める。
ビル街を抜けると視界が開けて、夜の空がネオンの明かりでくすんだ群青色に見えた。
流れる街灯や申し訳程度の街路樹を眺めながら、心地良いスピード感と、ゆったりとしたリズムに包まれる。
疲労も相まって少し眠くなってきた。
「寝ててもいいぞ」
キースが欠伸したのに気付き、ブラッドは声を掛けた。
珍しい、とキースは思ったが、車に乗ったときからブラッドはどこか機嫌良く見えた。
「お前は疲れてねえの」
「慣れているからな。お前ほどではない」
「オレにはああいうのは向かねえよ。普通にパトロールでもしてた方が全然マシだわ」
「だろうな」
「分かってんなら、もうオレを連れてくんなよ。ジェイとかマリオンとか、他にいるだろ?」
「スケジュールと先方の希望を優先した結果だ」
文句もどこ吹く風といった様子。いつもならもう少し呆れや叱責が言葉に乗っているのに。
「……お前、なんか機嫌良くねえ?」
車に乗るときから思っていた。小言も眉間の皺も、いつもより少ない気がする。
「遠回りすると言っただろう」
そう言いながらチラリとこちらに目を向けた。心なしか楽し気なプラッドに思わず眉を顰める。
「司令から連絡があって、今夜の予定が空いたんだ。折角だから少しドライブして帰るぞ」
「え、なんだそれ、聞いてねえ」
「今言ったからな」
呆気に取られてブラッドの横顔を凝視した。同行者の了承無しにドライブってなんだ。早く帰って酒が飲みたかったのに、完全にとばっちりじゃねえか。
「ドライブデートというやつだ。嫌なら、もう帰るか?」
さらりと告げられて言葉に詰まった。この暴君様は、オレが断りづらいポイントをよく心得ている。
ここで帰ると言っても何だかんだ言い包めるくせに、選ばせるフリだけして、本当にいい性格をしている。
「……どっか寄ってくれ。飲みもんと、あと煙草一本吸わせろ」
「あぁ、分かっている。軽く食べるものも買おう」
一瞬だけ振り向いた顔が嬉しそうに綻んでいた。
そうして結局文句の一つも言えないまま、急なデートに駆り出されてしまったのだった。
* * *
郊外のハイウェイは静かで、走るほどに車通りもまばらになっていく。
どこまで行くのか、と、聞こうとする度、運転するブラッドの横顔に見入って口を噤んでしまう。
ライトの反射、街灯の流れる光線、何もない夜のドライブを、ただ楽しんでいる横顔を眺めるのは不思議と飽きなかった。
広い道路を悠々と走りながら流れる音楽に耳を澄ませ、手持無沙汰になって前方を走る車のナンバーを無駄に数えたりしながら、途中で買った缶コーヒーをちびちびと啜る。
高架から見える夜景も、走り続けるうちに光が遠くなっていく。
こうして二人きりで出掛けるのはいつ以来だろう。
ブラッドはもちろん、オレもなんやかんや忙しくて、時々一緒に飯を食ったり寝たりするだけで、ドライブデートはおろかデートらしいデートなんて片手で足りる程しかしていない。
互いにそれを求めたことも無かったし、世間一般の恋人らしいことを何もしないまま、ただ付き合いの長さに甘えて過ごして来た気がする。
ブラッドは一人でドライブするのが好きなのだと思っていた。
だから「息抜きなら一人で走った方がいいんじゃないか」と聞くと、「お前を乗せて走るのも悪くない」と返された。
言われてしまえば、そうか、と飲み込む他になく、幸い車内は暗かったので、僅かに熱の上がった顔を見られなくて済んだ。
ラジオからはお誂え向きなラブソングが流れて来た。
ひと昔前に大流行したそれは、酒場でもショッピングモールでも一時期ずっと流れていたから耳馴染みがあった。
聞き覚えのあるそのメロディーに、膝に置いた指でリズムを取る。シンガーの甘い歌声につられてフレーズを口ずさむ。
「この曲、知っているのか?」
ブラッドが不意に口を開いた。
「ちょっと前に流行ったろ。知らねぇ?」
「聞き覚えはあるが、きちんと聞いたことは無いな」
ピアノの切ない音色は心地良く胸を打つ。
別れた恋人を忘れられず、切なく想いながら思い出に浸る恋の歌。煙草の香りのする最後のキスを大切に胸にしまう、そんな歌詞を情感たっぷりに歌い上げる。
「……悲しい曲だな」
ぽつりとブラッドが呟いた。
曲はすでに終わりかけていて、報われなかった恋の終わりを甘い歌声で締めくくった。
ブラッドがこの曲を悲しいと評したのが意外で、キースはその横顔をまじまじと見詰めた。
流行歌に共感するタイプだとは思わなかった。
「なんだ?」
「いや~、お前もこういうの人並に共感すんだなって」
「どういう意味だ?」
「ラブソングなんか興味ないだろ? つーか、失恋とか経験無いだろ?」
傍から見ていてモテてる所しか覚えがない。それとも流石の暴君様にも、苦い失恋や甘酸っぱい初恋はあったのだろうか。
聞いてみたいような、触れたくないような、キースが胸の内で少しそわそわしていると、ブラッドがふ、と笑みを漏らした。
「お前に振られたら、今の曲を聞いて泣くのだろうな」
告げられた台詞に一瞬反応が遅れる。
聞き間違いかと横を見ると、自嘲気味な、苦笑したような、あまり見たことのない表情を浮かべるブラッドがいた。
「……は? 泣く? お前が?」
想像が付かない。
ブラッドが失恋して、ラブソングを聞いて泣く? ブラッドが?
「冗談だろ……?」
笑えない冗談だ。誰が誰に振られるというのか。というか、そんなことで泣くようなクチか?
ブラッドが失恋して泣くなんて、何かおかしなサブスタンスに影響されでもしない限り、有り得ないことのように思われた。
曲がまた切り替わる。少しアップテンポなジャズナンバーが困惑するキースを余所に軽やかに流れ出す。
「そうだな、冗談だ」
顔色一つ変えずに冗談だとのたまう。真顔で言われても信憑性が無いのだが。
こいつのこういうところは何年経っても上手く飲み込めない。
疑わしいという目で見ていた所為か、ブラッドは僅かに口の端を上げて一瞬だけこちらに視線を向けた。
すぐに視線を戻して、どこか遠くを見るような目つきで口を開く。
「ただ、今日一緒に走ったことは思い出になって、さっきの曲を聞けば、お前のことを考えてしまうだろう。これは本心だ。……その時、お前が隣に居なければ、もしかしたら泣くかもしれないな」
とても冗談を言っているトーンではなかった。しみじみと語る言葉には重みがあって、決して嘘ではないことを告げていた。
へぇ、と、動揺したまま相槌を打つ。
ブラッドはこんな事を言う奴だったろうか。甘い言葉の一つどころか、愛情表現も酷く分かりづらいブラッドが、オレが隣にいないと泣くと言う。
熱でもあるのか、と言い掛けて、その横顔の涼しさに口籠る。我らが暴君様は時折こんなセンチメンタルなことを仰る。
例え実際そうなったとしても、効率だの何だの、普段あれだけ言っているくせに、いつまでも失恋を引きずるような奴じゃないだろうが。
「さっきの、気に入ったんなら探しといてやろうか? フェイスならレコード持ってるかも。ほら、備えあればって良く言うだろ」
「必要ない。聞きたくなったら自分で入手する」
「……ソウデスカ」
軽口も空振り。突然の爆弾発言に動揺しっぱなしで、変な汗は出てくるし、じわじわと顔が熱くなってくる。
ブラッドのこんな不意に見せる恋心が、甘ったるいラブソングなんかより、よっぽどむず痒い心地にさせる。
こういうのはいつまで経っても慣れない。愛だの恋だのを歌う歌に心動かされることなんて今まで全く無かったし、オレはどんな愛の歌も右から入って左に抜けるようなボンクラで、こんな感情はずっと無縁だと、他人事だと思っていたのに。
ブラッドがラブソングを聞いて、今日を思い出して泣くかもしれないと言った。
こんな思い付きでハイウェイを流すだけのドライブで、ただ、オレが助手席にいるというだけのこの夜を、思い出にすると。
随分と健気なことだ。こんなありふれた日常より、もっと思い出らしいことにしたらいいのに。
ブラッドの肩に手を置いて、身を乗り出す。
顔を近付けて掠め取るように唇を奪うと、至近距離で目が合った。
「……これも思い出に加えとけよ。振られたら思い出して泣くんだろ?」
「……振る予定があるのか?」
「……ねぇけど」
やってから後悔した。らしくないことはするもんじゃない。ましてやこんな逃げ場のない場所で、誤魔化しも効かないようなことを。
顔を背けて窓外の景色を見るふりをした。隣で笑う気配がして、余計居た堪れなくなる。
あぁ、くそ、顔が熱い。愛だの恋だの、オレには無関係なはずだったのに。
二人の間にラブソングが流れ続けている。夜のドライブに似合いの軽やかなポップス。
車道は空いていて、ドライブを邪魔するものはない。閉ざされた空間に二人きりなのを実感して、柄にもなく落ち着かない気分になる。
また別の曲が始まった。柔らかなギターのしっとりとした曲調は、灯りの少ない空間にぴったりで、ざわつく心を静めるように、スローテンポのメロディーがすっと耳に入って来る。
低く微睡むような声が歌い出す。
静かな夜、誰もいない世界への逃避行。まるで僕らはこの世に二人だけの異星人――。
“泣かないでダーリン”、と優しく宥める歌声が車内に満ちる。甘いバラードはするりと頬を撫で、胸の奥をくすぐっていく。
信号待ちで止まった拍子に、ブラッドの手が伸びてきて耳に触れた。
少し躊躇ってから振り向くと、暗がりでマゼンタの瞳は柔らかく細められた。
求められるまま、顔を近付けてキスを交わした。さっきよりも長く、熱く。
「……ラブソングにあてられるなんて、お前も可愛いとこあるじゃねーか」
「お互い様だ」
仏頂面して生きているわりに、この男も大概ロマンチストだと思う。
カーラジオからは未だ心地良い音楽が絶えず流れ、会話がなくとも不思議と良い雰囲気が続いている。
もう一度触れて唇を離した後、ブラッドが名残惜し気に溜息を漏らした。
「……まいったな」
「ん?」
「帰るのが少し惜しい」
静かに笑みを浮かべながらブラッドがそう呟いた。
いつもなら揶揄ったり、羞恥から憎まれ口を叩いたりしたのだろうが、今日はもう易々と雰囲気に飲まれてやろうといった気分で、きっと互いにそれに気付いている。
「オレは今すぐ帰りたいけどな」
一瞬の沈黙。意図を探るような、続きを促すような。
別にそういう意味じゃない。今夜はもう今更、駆け引きは必要ないだろ?
「……ベッドのあるとこじゃねーと、駄目なんだろ」
それはいつかブラッドに言われた言葉。
どんなに良い雰囲気になっても手を出したがらない、堅物の信条。
「あぁ、そうだな」
感情が隠しきれない声音に流石に羞恥が勝って、舌打ちしそうになる。
ブラッドがカーナビに何か入力した。表示されたのはここから近くの観光ホテルの名前だった。
「ディノに連絡をしておけ。明日の昼までには帰ると」
車がぐんとスピードを上げる。ただの気晴らしが、これじゃ本当にデートのよう。
流れる景色が徐々に変わって、遠くの夜景が近付いてくる。
この景色も、音楽も、胸を突く心地も全て思い出に変わって、きっと思い出して泣く時が来るとしたら、そのとき隣にこいつは居ないのだろう。
それが出来るだけ遅くにやって来るようにと願い、街に入る直前の信号で、青に変わるのを待ちながら、ムードに甘えてブラッドにもう一度キスを強請った。
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