「……。ふ、く……」
「白銀?」
肩を震わせる白銀に、劉黒が首を傾げる。
「あ、ははっ! 本当、なんなんだよお前」
腹を抱えて、口を大きく開けて快活に笑う白銀。
劉黒の的のずれた発言が、いつもなら琴線に触れてしまうが今回はツボにハマったらしい。
白い頬が赤く上気して、笑いすぎて涙が滲むほど笑って、ただ劉黒は原因が自分にあるとは思っていないようで困惑していたが。
「ふは、はー、腹いてえ……」
「えっ、大丈夫か?」
「ちょ、待て、今来るな、あはは、お前のせいだっての!」
もはや劉黒を見るだけで笑いが止まらない白銀は、心配して触れようとする劉黒の手からするりと逃げて白い髪をなびかせる。
白銀が本気で笑い疲れるまで、この追いかけっこは続いた。
目を開けると、王宮の自分の部屋にいた。
かつては、劉黒のものだった部屋だ。
調度品は多少私物を増やしたが、元々置いてあったものはそのままにしてある。
起き上がって伸びをする。
だだっ広い部屋には俺一人だ。洸兄や祀翠はそれぞれ好きに過ごしていることだろう。
「……あんな風に、笑えるんだ」
今まで見ていた夢は、劉黒が持っていた記憶の一部だ。
彼の記憶を、夢として時折見ることがあった。
何のために過去を見せられているのか分からなかったし、白銀も勝手に覗かれるのは嫌だろうと思っていたが、記憶を夢に見ないようにするやり方なんてわからず、結局時折見るこの記憶を俺はただ眺めて持て余していた。
劉黒の記憶にはいつも白銀がいて、大抵眉間にしわを寄せては劉黒の言動に憤っていた。
今とほとんど変わらない、気難しいと称される影の王そのものだった。
だから、あんな風に笑う白銀がいたことを、にわかには信じられなかった。
光側にいたときに常に浮かべていた笑顔は偽物だ。あれは白銀が自分を守るために身につけた仮面で、そうやって周りと壁を作って自分を保っていたものだ。
その仮面が剥げた今、白銀は笑わない。無表情でも、感情を失っているわけでもない。挑発気味に不敵な笑みを見せることだってある。
だけどあんな、ただの好青年みたいな笑顔を少なくとも俺は知らない。
胡散臭い微笑みじゃなくて、何の裏も憂いもなくただ楽しくてこぼれる笑顔を俺も、多分他の皆も知らない。
それが劉黒と俺の違いであり、白銀が俺たちを許していないという証だ。
許してほしいなんて思っていないし、あいつばかりが被害者じみて可哀想だとも思わない。
けれどあの笑顔が失われたというのはほんの少し、惜しい気がした。
きっと、運命が狂わずに何の問題もなく過ごせていたら、白銀は今でもあんな風に笑うこともあったのだろう。
あれがきっと白銀の本質で、俺たちが見落としていたものだ。
ベッドから下りてチェス盤みたいな床をぺたぺたと歩く。ひんやりとした感触が足元からのぼり眠気を和らげる。
あらかた目が覚めたところで、影へ通じる門を開く。
ここを通るときの、水中にもぐるような感覚にもいい加減慣れた。
あれからどれだけの時を過ごしたのか、もうあやふやだ。
影側は、少し空気が重くて息がしづらい。けれどそれは、光側に来るシンたちも同じだ。
「何かあったか」
俺の来訪に気づいた焔緋が顔を出す。長い髪はかつての記憶の頃のように切り落としていた。こんなことで示しはつかないがけじめだと、髪を切った日にそう言ったのを覚えている。
「や、問題はねえよ。白銀は」
「さて、どこにいるやら。自室にいなければ、庭園か書物庫ではないか」
「分かった」
「あれは風だからな。気まぐれに何処にでも現れよう」
焔緋は肩をすくめて顔をひっこめた。白銀と焔緋の間に生まれた確執は二度と元には戻らない。白銀に恨まれ続けることを焔緋は選んだ。いつ白銀が再び怨嗟の焔に呑まれ刃を向けるか分からない、気の休まらない日々を生きることを選んだのだから、俺が口を出す資格はない。
焔緋と別れ、変わり映えのしない廊下を歩く。
影の世界は昼でも少し薄暗い。これが俺にはなんとも居心地が悪く感じるのだが、白銀はその微睡みのような闇の中に揺蕩うことを好んでいた。
果たして、白銀は庭園にいた。
庭園の中央にそびえる大木は確か桜だったはずだ。今はもう冬に差し掛かっている頃だから葉も落ちて枝は裸だった。
その木の根元で、幹に寄り掛かるようにして白銀は目を伏せていた。よく見えないが何かを読んでいるらしい。
流れるに任せている白い髪が闇の中で浮かび上がり、流星のようだ。
庭園に足を踏み入れる。さく、と小気味いい芝生のこすれる音がする。
まだそれなりに距離はあるが、パーソナルスペースが異様に広い白銀はそれだけで瞼を上げ、こちらを睨んだ。
構わず近づき、少し離れたところ、横顔がかろうじて見えるくらいの場所に座る。
「何か用か」
ぶっきらぼうだが、別に不機嫌なわけじゃない。
基本的に白銀は常にテンションが低いだけだ。ますます、あの記憶は劉黒の都合のいい妄想だったんじゃないかと疑わしくなる。
「別に……。どこで何するのも個人の勝手、なんだろ」
「用もないなら来るな」
そのまま白銀は手にしていた書物に視線を落とした。
用件も聞かずに帰れとか言わなくなっただけ、丸くなってはいるのだろうが。
白銀なりに影側に居づらい俺たちを気遣っての発言だと気づけたのは、ほんの少し前だ。
気難しいことに違いはないが、思慮深い王でもあるのだと思う。
「何読んでんの」
「知らん。洸がどこかから拾ってきた」
「なんだそれ」
覗き込むと、象形文字みたいなものがずらりと並んでいて、さすがに読めなかった。
白銀は静かに文字を追っては繊細な手つきでページをめくる。
「読めてんの?」
「あらかた」
「ふぅん。なんて書いてあるんだ」
「少し前に滅んだ王国の文明」
白銀の言う『少し前』は軽く数世紀前のことだったりする。文字の感じから見てもアステカとかその辺りの時代の本だろう。いやどんだけ昔だ。
そんなものを、洸兄はどこで見つけて何故白銀に渡したのかは気になるが。
「その時代って本形態のものあったのか」
「粘土板が主流で歴史に埋もれていただけだ。紙を精製する技術は発展途上といったところだったか」
「覚えてるのか」