罅白銀が倒れたと影側から連絡を受け、赴いたのが二時間前。
寝室で眠る白銀は、かすかな息づかいがなければ人形かと思うほどに生気がなかった。
その顔色に見覚えがある。光側の下界にいたとき、そこにいるだけで体力を著しく消耗するのだという説明と、冷や汗を浮かべながらうなされていた白銀。
あの時と、顔色が似ている。元々顔色は雪みたいに白いからあまり大差はないが、土気色に近い気がする。
何故だ。ここは影の王宮、白銀の自室だ。白銀の体を脅かす光のエネルギーはほぼないし、あっても支障はない程度。
なのに何故、あの時みたいに憔悴している?
祀翠も原因が分からないから手を出せないと困ったように言っていた。
分かりやすい外傷もない、光と影の均衡は保てている。なら、どうして。
「……、ぅ……」
「白銀?」
少し身じろいだ白銀に、思わず身を乗り出す。
閉じた瞼に、涙が滲んで頬を滑り落ちていった。
「……りゅ……こ……」
「……」
ああ、やっぱり。お前はまだ、俺を頼ってはくれないんだな。
こぼれる涙をすくおうとしてためらい、伸ばした手は絹糸みたいな白い髪に持っていった。
くせのないストレートの白い髪。反対である俺はくせの強い猫っ毛の黒。そんな風に、あらゆるものが正反対でできているこの世界で。
「……白銀。お前が、俺のことを許せないのは知ってる。それでもいい。許さなくていいけど、お前の対はもう俺だ」
意味のない言葉だ、今は。
共に過ごすようになって十年程度しか経っていない。劉黒と白銀が共にいた時間は、十年など瞬きに等しい年月だ。
劉黒を取り戻したい。たったそれだけのある意味一途な願いのために、何年も生きづらい世界で俺を捜し、何もかもを覆い隠す仮面を笑顔で被り、劉黒のために全てを賭けていた白銀。
それを全力で否定したのは俺だ。
簡単に乗り越えろとは言えない。夢に見ること、懐古に浸ることすら取り上げることはできない。
けれど時々、どうしようもない虚無感が訪れる。
それは、未だに俺の中に劉黒の面影を求めてぼんやりと見つめてくるときだったり、今のように、白銀がひとりで泣いていたりするときに。
俺ではまだ、白銀にあいた穴を埋めることはできないのだと痛感する。
忘れるなとは言わない。忘れてはいけないことだ。
せめて、思い出として暖かくしまいこみ時折懐かしむ。それぐらいがきっと、残された側ができることなんだ。
それを、歩きだしたばかりの白銀に強いるのは、きっと酷なことだ。
「ん……」
長い睫が震えて、 蒼い目が覗く。
晴れ渡る空の色。澄んだ海の色。涼やかな宝石の色。
涙に濡れたその目は綺麗で、それがまだ俺に向けられないことに、ほんの少し苛立った。
とんだ独占欲だ。昔は散々、近寄るなくっつくなと文句を垂れていたくせに。
俺に座を譲ったくせに白銀を離さない、あいつにすら嫉妬を覚えてしまいそうだ。
「白銀、大丈夫か」
さ迷う瞳がゆらゆら揺れて、やがて俺を捉えて瞬きをする。
開口一番は、きっと何しに来たと睨んでくるのだと思った。そうやって剥き出しにしてくる敵意を受け止めることが、今俺ができること。
「……昶くん?」
「……は?」
だったのに。
もぞもぞとベッドの上で起き上がった白銀は、きょとんとした顔で俺を見る。
そして暫く俺を凝視したあと、ああ、と頷いた。
「……そういうことですか」
「は……? おい、白銀、お前……」
「昶くん。大丈夫、何も問題ありませんよ」
ベッドの上で正座して笑う白銀は、かつての『白銀さん』だった。
*****
夢を見た。本来のワタシが、ワタシと分かれてそこに立っていて。
大事そうに抱えているのはきっと、あのひとへの想いだ。
彼がしようとしていることを悟る。ワタシは彼の対ではないけれど、彼が生み出したモノ。彼が、自分を守るため、周りを拒絶するために演じているうちに生み出した、物腰柔らかでいつも笑顔、そうやって壁を作っていたワタシ。
だから、彼の考えていることは分かる。
「……本当にいいんですか?」
「ああ。そのほうが、あいつらだって無駄に警戒しなくていいだろ」
「……貴方は?」
「……。気が狂いそうになるんだ。だから、間違えないうちに。お前なら上手くやれるだろ。お前にいらないモノは、全部俺が持っていく」
「強情な方ですねェ……でも、はい。分かりました。どうか、安らかに。白銀」
「ああ、あとは任せた。白銀」
白銀は穏やかに微笑んで、劉黒との柔らかな記憶を、人間を許せないという怨嗟の炎を、その身にかき抱いたまま闇の中へと消えていった。
ああ、ずるいヒト。ワタシだって、劉黒というひとに会ってみたかったのに。
貴方がワタシを生み出すほどに焦がれたひと。貴方が深い悲しみを抱き、愛と優しさを向けるひと。
世界の均衡を元に戻すまで耐えたのは、貴方の王としての最後の意地なのでしょう。
「ならば、ええ。敬意を表しましょう、哀しいワタシ、我が王よ。昶くんとの未来は、ワタシが造ります」
目覚めたとき、覗き込んでいた黒髪と赤い目に、ほんの一瞬、心が揺さぶられた。
けれど、それだけ。
あのひとを想い身を焦がすほどの炎も、彼らを許したくないと嘆く涙も、彼が持っていってしまったから。
ワタシが貴方の名を呼ぶのは久しぶり。ちゃんと声が出るでしょうか。
「……昶くん?」
「……は?」
少し上ずってしまったけれど、出た、よかった。起き上がると、体が軽い気がした。さらさらと落ちてくる髪をかき分けて、呆けた顔をしている彼を見つめて、改めて全てを理解した。
彼が使命を放棄して消え、ワタシがここに残された理由。
「……そういうことですか」
「は……? おい、白銀、お前……」
「昶くん。大丈夫、何も問題ありませんよ」
白銀は、この目に見つめられることに耐えられなかったのだ。