砂糖と、スパイスと アルカナ研修機関へと収容された頃の私は非常に、動物的だったとしか言い表せないだろう。その門戸を潜るその時、私は縄で縛られ、猿ぐつわを噛まされていた。何人かの捕縛隊員を返り討ちにしたからだろう。
《塔》の区域から出たくなかった。ずっと父と叔父と共に過ごした小さな家で、静かに暮らしたかった。その資格はあるのか、わからないけども。
じわりと感じる温かな魔力は、父が自刃し、その息が小さくなった時に宿った。この不思議な感覚の正体が原初のアルカナであるということは、父の教育で知っていた。
────ゲオルグの代わりにお前が──ば────
最期の言葉は不明瞭だった。不出来な私を呪ったものと思われる。長らく随分と甘えたこどもであったことは自認している。父は、狂乱によりその本心が溢れてしまったのではないか。そう思うと自分も、自分という存在を生み出したこの世界も憎かった。
研修員のこどもたちに馴染める気もしなかった。彼らの出身はそれぞれで、穏やかに過ごしてきただろう者も多くいた。家族のために、人々のためにと美辞麗句を唱える者も、少なからずいる。飢えて追い詰められ、自分たちは捨て駒にしか過ぎないと嘆く大人を見たことがある私にとっては、気持ちの悪い理想家に見えた。
こんなところにいて、何が学べるというのか。在籍する意義を感じられなかった私は、脱走を試みるようになった。
初めての脱走の時。これが一番うまくいった。私は軽やかな足取りでレイクランドを縦断し、さてもう少しで《塔》の区域…と思ったところで、「門」を使った憲兵たちに捕縛された。噛みついても蹴飛ばしても、鍛え抜かれた大人はびくともしない。頼りの武器は目立たないように持っていなかった。あえなく戻され、反省房へ入れられ、懲罰を受けることとなった。
二回目の脱走は、誤って罠を踏んでしまったため、足を痛めてしまい、思ったより遠くへは行けなかった。叔父といつか一緒に行くと約束したセントラル・ロンドンの街並みを、手近な屋根に登りぼうっと眺めた。内陸部で脅威が少ないこの都市は、ふっくらした健康的な住人が散見される。こどもたちが大きな声で夜に泣き喚くこともできる。
静かになった夜の街並みと星を眺めていると、ふと肩が叩かれた。慌てて飛び退いて距離を取り、相手の姿を確認する。
美しい少女だった。金色の長い髪を風に揺らし、ポラリスにも負けないほど煌めく艶やかな白い肌。しかし、こどもなりに体捌きや索敵におぼえがある自分に対して密かに先手を取れる人間だ。油断は禁物だった。
「誰!? 近寄ったら、ただじゃおかない!」
体術は得意な方だ。屋根で変則的な動きとはいえ、足を取られるようなノロマじゃない。うかつに近寄ってくれば、胴を蹴り抜く自信があった。
しかし、その少女は動じる様子もなく、微笑して手招きをする。
「もう、食事の時間を過ぎている。せっかくそこまで育ててくれた親のために、健康に過ごすべきではないか?」
親の話はされたくなかった。自分の虚しい境遇を思い出すから。温かな記憶が自分のやり場のない苦しみを抉るから。
痛めつけてやろう。それに、自分を逃せばきっと彼女は懲罰を受ける。私が持つ惨めさの欠片でも思い知ればいいのだ。
…と、そう考えた時、身震いがした。
叔父はいつも朗らかな笑みを崩さない人だった。男性ではあるけども、母のような人だった。どんな時でも困った人を見捨てない。苦しむ人を救おうと苦心する。優しい優しい人だった。
こんな考えを持ったら、きっと泣いて咎めることだろう。人を呪ってはいけない。幸福は手の取り合いの先にあるのだと言っただろう。汚らしい感情を見知らぬこの人にぶつけようとした自分を、みっともなく感じた。
──だからって、背後から近付く警ら隊の気配を見落としたことも恥なのだが。
敢えなく御用となった私は、またもや施設に逆戻り。悪態もつけなかった。
それからは、もっとそう、ため息も吐けなくなった。
「いる」。私は声なき叫びをあげる。どうしてここに? 逃走経路としてはマイナーなはずだ。
「ふむ。いい天気だな? マリオン。」
「な、な、な、」
「な? 流れ星、というにはまだ昼だな。」
「何で、ここにいるのぉっ!?」
「ふふ。調子はどうだ?」
この美しい少女はルナベルというらしい。周りの者が持て囃す話を溢れ聞いていたが、なるほど、この年若さですでに女傑の風格を持つ。
思わず大きな声で追及してしまった私は、下手を打ったことに気付いて舌打ちをする。もう半刻ほど管理者たちに姿を見せていなかったはずだ。私は監視されているため、もはや捜索手配されている頃合いだった。それを肯定するように、四方から管理員たちと捕縛指示を出された研修員たちが一気に迫ってきた。お縄、というやつだ。
この日だけではない。どんなに頑張っても、逃走を試みるたび、行く先々に彼女が現れる。その割に、攻める言葉もなく、楚々として口角を上げながら私に訊く。「調子はどうだ?」と。私はその調子に脱力し、捕まるまでがオチというお約束になってしまった。
百回を超えた頃、頭を抱えて入念に計画を練った。密偵のように、業者の荷物に飛び乗り、素早く身を隠すものだ。さすがに対応が難しいだろう。私は静かに、そして速やかに芋を卸した空き箱に乗り込んだ。
「…楽しそうだな?」
その蓋を閉めようとした時に、ああ、聞こえてしまった。あの鳥が歌うような声を。
見つかったからには仕方ない。敬意を表して、投降するしかないだろう。
「ヒィン…。」
どうしたことか、声が出ない。かひゅ、かひゅ、と擦り切れるような呼吸だ。…戸惑っているらしい、この大人とて手玉に取れると、戦士として自信がある私が。
いつもは生意気な態度を返すばかりのはずの、しかしなんだか様子がおかしい私に、きっと驚いたのだろう。手勢共がどうしようかと考えあぐねているその中、ルナベルが自ら近寄ってきた。
一歩一歩、「その歩みで花が咲く。」「魔物もハラを見せる。」と謳う者もいる優雅で軽やかな足取り。しかし、私にとってこれは宣戦布告…にもならない。降伏勧告にすら感じてしまう。
感じるのだ。
彼女は淑女だ。砂糖と、スパイスとで出来た格別なお菓子のような、香り高い貴重な存在。
しかしながら、それと他に何か…何か特別なものでできている。それは「風格」。その目だけで、唇だけで他者を圧倒する者。それに一度膝をついてしまえば、逃れられない。
──《女帝》。
《塔》は使われるもの。識られているもの。王の支配を受けるもの。受け入れるもの。故に、この圧倒的な存在に抗えるはずもない。
いやいや、違う。単純に、だ。
上手なお姉様というものは、逆らいがたいのだ。ましてやこの美貌である。私は、野生児のような子どもだけど、それでもやはり少女でもある。いい匂いがする。髪の艶めき、肌のきめ細やかさ! それでいて、背筋がきりりと伸びた、自信に溢れる姿。理想の体現のような存在に、反抗期であってもその憧憬は抉られる。反骨の精神で耐え続けていたが、とっておきの計略を暴かれた今、限界だった。
へなへなと崩れ落ちるマリオンに、ルナベルは不思議そうに首を傾げる。
「いいのか? 捕まえてしまうが…。」
ふわりと置かれた手は、斧を振り回して木こりの真似事をしていた私のものとは違う。なめらかで、スイセンの花のように凛とした手指と、それを飾る上品な丸い爪。温かなそれは、確実に生きた人間であることを証明していた。
とうとう負けてしまった。憧れてしまった。夢なんて見てはいけない身分を弁えなきゃいけなかったのに。こんな、まるで…普通の人間みたいに!
それでも、一度でも武力以外の力に屈してしまった私は、それからはもう脱走することはなくなった。深い仲の人間関係を築くことはどうしてもできなかったけど、素敵なものを素敵なのだと抗わずに素直に受け止めることは、周りが驚くほどに穏やかになれた。
とはいえ、元は自由な気質である私だから、好き勝手やって何が悪い!という態度も継続していた。だが、後輩として笑顔が眩しい子、思慮深い子、色んな子がやってきたことでも、心境がまた変化した。
少しお姉さんの立場になった私は、私の喜びよりも、幼い彼らがどうか幸せであるようにと思えるようになった。他者の幸福を願えるようになって、自分が綺麗な人間になれた気がした。……一番幸せだった時期を思い出せるようになった。
そうすると、自分の夢を持てるようにもなった。作付けが悪い土地でももっと作物が取れるようにならないか。昔は品種改良ということもしていたようだった。みんなが、飢えも死の恐怖もない豊かな世界にしたかった。
時期がきて、アルカナとして昇進し、新たな仲間が出来た。同じ立場として改めてよろしくと、ルナベルが声を掛けてくれた。彼女の《女帝》と私の《塔》はレイクランド北部で隣り合う。憧れの女性(ひと)が差し出してくれた手は、変わらず温かで、勝手な理想を裏切ることなく滑らかだった。
《塔》の隊員たち。アルカナたち。残酷な現実はいつでも突然悲劇をもたらすから、喪失の痛みに怯えて自分から手は伸ばせなかったけど、言葉をかわす度に一人じゃないと思えた。
養父たちが望んだような淑女にはなれず、当然お姫様になることもきっとないだろうが、大切なものはたくさん増えた。仲間と領地だ。己の役割は「守ること」。命が尽きるその時まで、歩みを止めないと心に誓った。
甘え、負の感情と、ささやかな、怠惰な展望。そういったものは胸の奥にしまい込む。掲げるのは持って生まれた才能を余さない献身に、断固とした決意と、少しの憧憬。愚かで未熟だった私も、厳格だった養父に少しでも近付けただろうか? そうであれば嬉しい。
大切な人たちに送る、ビスケット。
砂糖とスパイスと、届かなくていいから、と込められたささやかな想いと祈り。
マリオン・ハイタワーの執務机には、次の感謝の日に仲間たちにお菓子を送るために取り出してきた、叔父のレシピ帳が開かれている。
*****
女の子は何でできてるの?
砂糖とスパイスと、素敵な何もかも。
そんなものでできてるよ。