言えないことば(いこおき)「隠岐、どないしたん?」
「え?」
「何かあったんか」
「んー? 何もないですよ〜」
いつもどおりの調子でそう答えたら、イコさんは口の端をぐっと下げた。
「隠岐、お前」
「はい?」
他の人ならほぼごまかせていたと思うけど、イコさんは妙なところで勘が鋭い。
これは早めに退散しとこ、と踵を返しかけたおれの腕をイコさんの手がぐっと掴んだ。
「……何か、俺にゆわれへんことあるんちゃう?」
「いやいや、そんなんないですて。なんでです?」
「ほんまに?」
「えー、疑いはるんや」
「疑うてないで。何かあるんは判っとるねん。それが何か判らんだけで」
椅子に腰掛けた状態でおれの腕を捕えたイコさんは、立ち上がっているおれをじっと見つめる。
翡翠みたいな緑がかった目は、揺るぎなく強くて雄弁だ。
黙ったまま、にこりと笑みを返すと、眉間に力が入ったイコさんがひとつ溜め息を零した。
「……俺は、隠岐のこと全部知りたいから教えて欲しいねん、なんてゆうたらアカン顔やからな」
どんな顔やねんな、と軽く突っ込もうとして、ふと目を伏せたイコさんがひどくさみしげに見えて口を噤んだ。
ひとつ息を呑み、おれの腕を掴んだままのイコさんの手のひらをそっと包んだ。
熱をシャツ越しに伝えてくる手が、ぴくりと跳ねる。
「ほな、おれの秘密。聞いてもらえます?」
「教えてくれるん? 聞く聞く!」
向き直ったおれを見上げて姿勢を正し、かしこまるイコさんがかわいくて、そして少しだけ胸が痛い。
「実はですね」
「ん」
声を落として囁くと、イコさんは神妙な顔で頷いた。
イコさんに言えないようなことなんてないけど、言わないと決めていることは沢山ある。
イコさんはとても優しくて、情が深いひとだから。
おれがイコさんを、イコさんが思っているよりずっとずっと好きなことや、イコさんに会いたくてたまらなくなって、ひとりの部屋が寒くてさみしくて眠れない夜があるなんて言ったら、真夜中であってもおれの部屋まで夜道を駆けてきてくれるだろう。
そんなことになったら嬉しいし満たされるけれど、でも。
イコさんの優しさに甘えることが当たり前になってしまったら、いざ離れなければならなくなった時に、おれはひとりで立っていられないかもしれない。
そうなるのが怖くて、おれは、イコさんになら言えるけれどもイコさんには言わない秘密を、毎日少しずつ増やしている。
「昨日、ちょっとだけ寝るん遅くて、気ぃ抜いたらあくび出そうなんです」
「そうなんや。何しとったん?」
「猫の動画観たり、ぼんやりしとっただけなんやけど」
「ふーん……。そんだけか?」
「そんだけですよ」
「今日は早よ寝れそうか?」
「風呂あがったら布団に直行しますわ」
「ほな、布団で待っといたらええか?」
「……へ?」
壁越し旋空みたいな不意打ちをくらって、おれは目をぱちぱちと瞬かせた。
「隠岐が夜ふかしせんように、寝るまで見といたらなアカンやろ」
「や、あの」
「膝枕がええ? 子守唄も付いとんで」
無意識に半歩引いたおれの腕を引いたイコさんは、空いていたほうの手もしっかりと捕まえてしまった。
「なぁ隠岐。気ぃ遣いやさんなんは知っとるけど、俺にはもっと甘えてくれ」
イコさんの強い腕が、おれの腰に回る。
ゆっくり引き寄せられて、イコさんのワックスの匂いにふわりと包まれた。
「……そんなん、あかん」
「何でや。甘えたらええねん」
「おれ……、おれイコさんが思てはるよりもっと、めっちゃ甘えたやし重たいし」
「どんとこいやで」
「いやいや、あかんて。ほんま、そんなん……」
(イコさんなしでは、いられんくなってまう)
「なってみたらええやん」
言わなかったはずの言葉は、イコさんの腕の中に閉じ込められたおれの身体から直接聞こえてしまったみたいだ。