【卯月】 磨き上げられた窓の外には、見頃を僅かに過ぎた桜が、はらはらと風もないのに舞い散っている。控えめに灯された照明の光りを受けて、白く浮かび上がっては闇にとけていく。値段も敷居も高いこの店で、指折り数えるぐらい花見をしている。五条の驕りで。でなけりゃ、暖簾をくぐりもしないけれど。
「任務が重ならなくてよかったよ」
陶器なんて知らないけれど、唇に当たる感触も、手に馴染む感覚も、いいものなんだろうと想像がつく。喉元をとろりと豊潤な味を醸した日本酒が、するりと通り過ぎていく。同じように日本酒を傾けている夏油は、さらりとした淡麗の銘柄だ。
「任務なんて入れさせないし」
「決定権は悟にないよ」
「元々休日なんだから、休みぐらいくれっつーのっ」
「それはそうなんだけどね」
幾分酔いが回った私たちは兎も角、同じように酒が入っているようにうっすらと頬を染めた五条は、さっきも一口飲みたいと駄々を捏ねて、夏油にグラスを取り上げられていた。かわりにデザートの追加をしている辺り、保護者のようだ。なんて、眺めていたけれど。
「散るは桜っていうぐらいだし、やっぱり散り際の桜は風情があっていいものだね」
床まである広い間口の窓から望む桜花に視線を向けて、感嘆のため息をほろりと零した夏油に頷いた。
「そうだな。去年は五分咲きってところだったし。なかなかタイミングが難しいな。まあ、それ以前に、よく予約が取れるよ」
六畳間とは言え、床の間には桜が設えられた個室からの眺めは逸品だ。
「五条家の御用達だからね。毎年予約してるし、ひと部屋取りおいてあるんじゃない。まあ来店時に、来年の予約してるしさ。」
半身を夏油に寄り掛からせた五条は、肩に顔を寄せて得意そうに微笑むと、褒めてと言わんばかりに、夏油と上目遣いで視線を合わせた。
「そうだね、悟、ありがとう」
満更でもない表情のまま喜色が滲む声で返事をした夏油は、くしゃりと柔らかな髪を撫でて、額に優しいキスを落として微笑んでいる。
「春っていったら桜だし。傑と硝子と出逢った時にも咲いていたから、一緒に眺めたいじゃん」
「ふふっ。そうだね」
「だからたまには一緒もいいだろ」
話をこちら振るなと、顔の前で手の甲を向けてしっしっとばかりに翻した。
イヤそうな表情になるのは、いつものことだ。
来年も一緒に桜を見よう。
ただそれは、言葉通りではなく、それを願って取りつける約束、いや、縛りのようなものだ。もう、どこにもいくなと。約束と言えば聞こえはいいが、そんな生やさしい感情ではないのだろう。
それでも五条が意図することがわかっているから、たまには一緒に乗ってやろうと思う。まあ、美味しいものも飲み食いできるし。
それをわかって何も言わず、誘われるがまま花見として受け入れるだけ、夏油も折り合いがついたのだろう。
「おまえらはいつも一緒だろう」
「まーぁね」
ねーっといい歳をした男二人が寄り添うように小首を傾げるものだから、途端、やってられない気分になる。
煙草に火を点け、ぷかりと紫煙を吐き出した。桜の前に雲が掛かったように煙が棚引いて、それもすぐに霧散していった。
「私も一本」
「珍しいな」
「硝子がうまそうに吸うから、つられるよ」
せめてとメンソールの軽い煙草にしても、量を吸っていればあまり意味はないけれど、それでも細身のそれを、箱を叩いて頭を飛び出させ、夏油に差し出した。
「傑はダメだろ」
「たまにだしさ」
尖らした口を指先で突いて黙らせると、長い指が一本引き抜いていく。口に咥えた後、思い出したらしい。
「ごめん、硝子、火がなかった」
身を乗り出して、対面に座る夏油に近付くと、同じように身を乗り出して、煙草と煙草の先を着けると、じわりと紅が滲んだ。
あっ
横で見ていた五条の瞳が一瞬きつくなり、浮かび上がったのは、黒い感情。いまだに私にも嫉妬とか、どれだけだよ、まったく。
肩を竦めて苦笑すれば、ふっと仄暗さは消えて、ガキかよとわかりやすい不貞腐れた表情を浮かべた。
「オマエらばっかり、ズルいだろ。傑は、キス、まずくなるし」
そんなコト、ふたりだけの時にやってくれ。
「そうかい。傑の味がするって言ってたじゃない」
「それ、煙草違ったら、イミなくない。体に悪いだろ。ヤだ」
珍しく正論だなと思えば、硝子もな、とお鉢が回ってきた。
「それじゃ、健康に留意して、来年の花見に備えるようにするよ」
ぷかりとドーナツ状の煙を作って煙草を消した。その煙を無邪気に喜ぶ五条と、行儀が悪いよと笑いながら窘める夏油が頷いた。
「来年も、揃って花見しようか」