◆三◆ スカイブルー「それじゃ、僕と一緒に恵たちとケーキ作ろうぜ」
故あって保護者の真似事のようなことをしている姉妹が私にはいて、毎年クリスマスには彼女たちと一緒にケーキを作ってささやかなクリスマス会をし、サンタクロースの真似事をしていた。それが今年は、
「私たちだけで作ったケーキを夏油様に食べて貰いたいから準備ができるまで他所のお家で遊んできて」
と言われてしまった。成長が喜ばしくもあり、寂しくもあり、ならば非常勤として働いている高専で事務仕事を片付けようと思っていた所に、悟に声を掛けられた。
彼にも保護者と言うより後見人として面倒を見ている姉弟がいる。こちらはクリスマスに一緒にいても鋭い目つきで邪険にされるそうだが、それは表面上だけで、それなりに楽しんでくれているみたいだから、と毎年ケーキやらプレゼントやらを携えていそいそと出掛けていく。紆余曲折があった上でクリスマスは一緒に過ごしたい間柄になったにも関わらず、優先すべき相手がいることに互いに不満を言うことはない。私はそんな悟だからこそ大切だし、悟だって私のことは承知している。それでも世の浮かれたカップルを見れば羨ましくなるのは当然で、イブじゃなくてクリスマスに一緒に過ごすようになった。
だから、自分がイブに時間ができても悟と一緒に過ごそうと思わなかった。その蒼い瞳を星の輝きのように瞬かせ、嬉しそうに誘ってくれた時は、少し驚いたのだ。そこは悟のテリトリーであって、私が踏み込んでいい場所ではないと考えていたから。
「え、いいのかい」
私が行っても。その戸惑いを払拭するように大きく頷いて右手を差し出した。
「もちろん。傑の予定はないんだろ」
「今年は友だちも一緒だよ」
そう言ってへらりと笑って訪れた五条の隣には、僅かに困ったような気配を漂わせて微笑む男が立っていた。姉貴は津美紀です。と礼儀正しく挨拶をして名を名乗り、隣にいた俺の頭を軽く押してお辞儀をさせた。「夏油傑です」と名乗った彼を若干胡散臭そうな目つきで見てしまったのは致し方ないだろう。友人の存在なんて仄めかしたこともなく、まして目の前で並んだふたりは、どう見てもあやしさを拭いきれない。
それでも例年、良かれと思って訪れる思いを無下にするほど子どもでもなく、追い返すことなく姉貴と台所に並ぶ。今年はケーキを作るよと浮かれた様子で仕切られ、言われるがまま段取りよく材料を計って粉を合わせていく。手伝いとして呼ばれたらしい夏油も、大人しく材料を切って計ってを繰り返すだけだ。
「夏油さん、五条さんに何か弱みでも握られているんですか」
「こら、恵」
慌てて窘めた姉貴と俺の質問に吹き出しそうになったのを堪えたらしく、夏油は口元を隠した。目元を緩めると優しそうな雰囲気となり、初めの印象とは異なり悪い人には見えず、俺の疑問は問いとして返事がきた。
「なんでそう思ったんだい」
「いや、あの人に友だちがいるとか、思えなかったんで」
ぽつぽつと言葉を探しながら答えた俺の返事に耐え切れなかったらしく、声を上げて笑われた。
「恵、いくら何でもひどくない、ソレ」
意外に手際よく準備を進めている五条さんが振り返り、唇を尖らせて不貞腐れたように口を挟んだ。何故だかいつもより幼い感じがするのは、気のせいだろうか。
「まあ、我儘だし、偉そうだよね、悟」
「傑まで」
駄々っ子のような甘えた声に呆れつつ、隣の夏油さんの艶やかな視線を辿れば尖らした唇の先で、何となく見なかったことにして視線を彷徨わせた。
「……。 名前で五条さんを呼ぶ人がいるとは、思いませんでした」
「ふふ。そうだね。それでも私には大切な友人だよ」
小麦粉を振るっていた手が止まり、傍らで果物を切っていた姉貴を見上げた。視線を感じたのか、同じように手を止めて視線が合わさるとふわりとやわらかく目元が緩んだ。
「少し、安心しました。只でさえ忙しいのに私たちのために、自分の時間を割いてくれていたので、ちゃんと大切に思ってくれる友人がすぐ隣にいてくれて」
「津美紀は僕のこと、心配しすぎだから。大丈夫だって。恵は心配しなさすぎだけどねえ」
へらりと笑った笑顔は、学校で生徒たちに見せている先生のそれだろうか。ああ、この人も一応は大人の分類に入るんだったと改めて思い出す。
「あんた、俺なんかが心配しなくたって充分、強いだろ」
「まーね。僕、最強だしぃ」
いぇいっいぇいっと大袈裟な身振りをする五条に、夏油が苦笑しながらそうだねと頷けば、跳ねるようにすぐ横に並び立ち、背後から肩に顔を乗せて嘯いた。
「言っとくけど、傑もだからな」
「そんなこと」
「ないなんて、言わせないからね」
有無を言わせぬ強さに不審に思いつつその様子を見守っていると、曖昧な笑みを浮かべて頷いていた。
「あなたも大変ですね」
「大変なのは僕だから」
「はあっ」
胡乱な目つきで一瞥し、これ見よがしにワザとらしくため息を着く。すると慌てたように夏油からフォローが添えられた。
「まあ、本当に大変だったからね、悟」
事情は知らないにしても、これ以上は訊かない方がいいと察したのだろう、姉貴に脇腹をこずかれて、俺は口を噤んだ。
やがて甘い香りが漂い、スポンジケーキは予想に反して無事膨らんで焼き上がった。冷やしている内にホイップクリームを作ると言って五条が嬉々として泡立て始めたのは、味見をするためだったのだろう。何度かの味見を経て、指先で掬った生クリームをこちらに差し出した。
いやいやいや。スプーンにしろよ。
無言で食器棚から出したスプーンをひと匙掬い口に運ぶと、案の定強い甘みが口いっぱいに広がった。
「あま」
「え、そう。おいしいでしょ」
マイスプーン化している味見用の匙でもうひと掬いして、満足げにつまみ食いをして顔を綻ばせる。再びふわふわの白い泡に細く長い人差し指の先を沈めて、満足そうな笑顔のまま名を呼んだ。
「傑」
差し出された指先は五条の意図した通り、違わず大きな口に含まれ、見間違いだったのかと思う間もなく綺麗さっぱり泡は消えて、艶やかな指先だけが残っていた。その指先に、お礼のように唇を押し当て、ちゅっと音がしたのは、俺の幻想だったのかもしれないぐらいに儚かった。その光景は数秒にも満たない僅かなもので、それでもコマーシャルのワンシーンのように印象的で脳裏に焼き付いて離れない。
「悟好みで甘すぎる」
「傑好みにしたら、誰も食べなくない」
むっとした表情すら今まで見たこともないほどリラックスしていて、夏油の隣が安心できる場所なのだと証明してみせる。
「甘すぎるけど、おいしいよ」
「傑も食べるだろ」
「私はひと口だけでいいよ。みみななのケーキがあるから」
「あいつら二人で大丈夫か」
「ちゃんと先輩たちがいるから、心配しなくても平気だよ」
「心配なんか、してないし」
「悟はやさいしいね」
もう一度掬ったクリームはやっぱり夏油の口に含まれて、残ることなく舐め取られて跡形もなく綺麗に消えていく。
「ありがとう」
誘ってくれて。連れ出してくれて。
冷えていた室内の空気はあたたまり、そのぬくもりを震わせるように、ろうそくの灯りほどの揺らめきで、五条にだけ伝えたお礼が微かに聞こえた。
ああ、なんだ。五条にも大切な友人が、大切に思ってくれる友人がいるのなら、もう、いいだろう。
星の瞬きにも満たないほどの僅かな時間だったかもしれないけれど、寒空よりも真っ蒼に澄んだ瞳が星よりも綺麗に歓喜で満ち煌めいた。
「もうサンタのいるクリスマスは卒業で大丈夫なんで、五条さんは五条さんで楽しいクリスマスを過ごして下さい」
そう俺が口にするまで、クリスマスソングが一曲流れるほどの時間。
☆指先 賞賛、感謝