◆一◆ 久遠「しょうがない、伏黒が迎えに来るまではここで寝てなよ」
そう言って家入は空いているベッドを指差した。申し訳なさに仕事は、と問えば、
「仕事納めはまだ先だから、私のことは気にしなくてもいいよ」
積み上がった書類の奥で目元を細めて頷かれた。閉じたカーテンの向こう側にあるベッドに寝転ぶと、冷えたシーツが火照った肌に心地よく、横たわれば楽になった体に、疲れていたのだと実感した。
クリスマス明け、最後の任務に出掛けたところでやけに暑いと感じたら、伏黒に思いっきりどやされた。どうやら珍しく風邪を引いたらしい。ただ、風邪なのか、呪霊に中てられたのか、イマイチ判断がつきかねるからと、怒鳴った伏黒に連れられてやってきた医務室で様子見と相成った。まあ、伏黒が俺の代わりにまとめて報告書を作成して、提出してくるまでの間、寝て待っていろ。と言うのが正しいのだろう。年末だから年内に提出しとけって言うなら、こんな年の瀬に駆り出さなくてもと思わなくもないけれど、年の瀬だからこそ、刈り取れる危険は摘んでおけと言う理屈も当然理解はできる。猶予があるからとクリスマスに予定を入れられなかっただけで、御の字なのだろう。
ほやほやする頭は考えが纏まらず、つらつらとそんなことを思いながら、脇や頭に張って貰った冷えピタが心地よい。そもそも家入さんならすぐに直せるんじゃない、あ、でも、ただの風邪じゃダメなのかな、なんて詮無きことを思いつつ、やがて周囲の音が遠くなった。
「そう、よかった。まあ、悠仁のことだからね、大丈夫だと思ったけど」
「こんな年の瀬に学生まで駆り出すなよ」
「僕だって慌ただしいよ」
「師走だろ、教師が走ってなんぼだ、諦めろ」
途切れた意識が聞き慣れた声で浮上する。あ、先生。来てくれたのか、忙しいのに悪かったな。安堵を含んだ声色に、普段はおちゃらけて本心をはぐらかせるような物言いをするのに、陰では気を遣ってくれる優しさを実感する。
「ちょっと休憩させてよ」
「さっさと行けよ。虎杖が寝てる」
「少しぐらいいでしょ」
俺たちと話す時より落ち着いているけれど、テンポの良い会話と気を許した気配が、加湿された室内を一層柔らかくする。
「ちょっとこれ見てよ」
誇らしげ、いや、自慢げ、かな、の弾んだ声に返事は聞こえない。代わりに眉をひそめた家入さんの顔が浮かんだ。
「言われなくてもそれだけ堂々としていたら目に入る」
「ふふ。かっこいいでしょ」
「自慢しにきたのか」
「だって。七海のとこ行ったら五分で追い返されてさ。ひどくない」
「どうせ惚気てウザ絡みしたんだろ」
木枯らしが吹く校庭の外気より冷たそうな声の奥に、ろうそくの灯ほどのぬくもりを見出しながら、家入の言葉が引っ掛かった。何が何だか、会話だけでは把握できないが、どこに惚気があったのか。
「まだ何にも言ってないのに」
「腕時計は夏油からのクリスマスプレゼントってとこだろ。私でも知っている値の張る時計。自分じゃ買わなそうだし」
ああ、それで、なのか。内緒にしているマシュマロのような場所そっと労わるように、軽くひと撫でするような、そんな答え合わせだった。
「いいでしょ」
「別に興味はないけど、良かったな」
素っ気ないほどの共感は、五条が欲しかった応えだったのだろう。返事はなく、さざ波のように幸福が寄せて流れていった。俺もよかたっな、なんて思う。先生たち、仲いいもんな。
「夏油らしいって言えばらしいな。貴方の時間をください。だったか」
んっ。何の話。
「かっこいいでしょ、僕の傑」
「言ってろ」
「プレゼント開けたら、傑に私につけさせてって真っ直ぐな声で告げられてさ。勿論って返事したら、こうやって時計をつける左手、取るの」
「私にするなよ」
「ごめん、ごめん。それでさ、胸の高さまで恭しく持ち上げられて、手首の内側にそっとキスしてくれて」
えっ、どういうこと。急に煌めきだしたイルミネーションに遭遇したようだ。
「さっさと帰れ。だから七海のトコ、追い出されたんだろ。私のところも一緒だ」
「いいじゃん、同期の惚気ぐらい聞いてよ」
よく聞くワザと不貞腐れた声は、かわいいところもあるし、あざといところもある。けれど、それは家入さんには微塵も通用しないらしく、一刀両断だ。
「その後の爛れた夜まで続くだろう、それ」
「そこまで赤裸々には話さないって」
あまり想像しない方がいい展開になってきたよな、これ。俺は寝ているってコトにしておいた方がいいんだろうけど、聞いちゃったしな。
「当り前だ」
呆れているけれど、突き放しているわけではない、そのニュアンスに聞き覚えがあると記憶をひっくり返せば、野薔薇の物言いで、そうか、先生たちも三人の同級生に紅一点で学生時代を過ごしてきたと思い至る。
静かになった室内にぱさりぱさりと書類を捲る音がくっきりと浮き彫りになり耳に届く。五条は部屋を後にしていない筈なのに、気配がなくなった。うとうととし始めた頃に、眠りのドアを開けるように医務室の扉が開いた。
「硝子、ごめん、悟きて、あ」
耳ざわりのいい低音の声は聞き慣れた件の先生、そう夢現で気が付けば、クラッカーが弾けるような華やかさで名が呼ばれた。
「ヤッホー、傑」
「さっさと連れ帰ってくれ」
南国と北国ぐらいの温度差がある迎えの返事に、やってきた夏油は大よその察しは着いたのだろう。
「ごめん、悟が何かしでかしたかい」
「何かしたのは夏油だろ、時計」
「ああ、時計の話をしにきてたのかい」
神妙な気配は何処へ行ったのか、一気に先ほどの五条同様、夏油も常より弾んだ声から、嬉しそうなのが見て取れるようだ。
「違うって。悠仁の様子見に」
「嘘つくな」
「硝子ヒドイ。そんなことないって」
「相変わらず、タラシだな、夏油」
「人聞き悪いこと言わないでよ」
「まあ、突き返されなくてよかったな」
「ふふ。ありがとう。悟に似合ってるでしょ」
「シンプルでいいな」
「悟が綺麗で派手だから、着けるものはシンプルな方が、悟自身を引き立てるでしょ」
「夏油、何しにきたんだよ。これ以上惚気を聞く気はないからな」
憮然とした家入に、ああ、そうだ、と元々ここに来た理由を思い出したらしい。
「悟、夜蛾先生が探してる。また約束すっぽかしてるだろう」
「さっさと話が済んで終了時間が同じなら少しぐらい良くない」
「良くないよ。行くよ、悟。硝子、また吞みに行こう」
「驕りなら多少の惚気も聞いてやるよ」
「ありがとう。よい年を」
「よい年を」
「硝子、よい年を」
「時計を見せるな。よい年を」
賑やかに先生たちが去っていくと、静寂が訪れる。
そうだな、今年ももうすぐ終わりだ。こうして毎年先生たちは年を重ねて、これからも続けていくのだろう。
着かず離れず、それでもすぐに手が届く近い場所で、お互いに唯一の存在として。
☆手首 愛情的な好意