202203201.
外を歩けば霧雨が体にまとわりつく冷たい夜、ベネットの酒場は盛況であった。
酒場の主であるシャイロック・ベネット氏は、ハイテーブルまわりの人だかりに気を引かれた。給仕を口実に、カウンターの客との話を切り上げてそこへ向かい、大話の種を尋ねると、気取った声が、
「猿の手だよ」
と応えた。果たして、声の持ち主は気取り屋のムル・ハート氏であった。
「あの北のミスラから直々に譲り受けた品なんですって」
ハート氏と同じテーブルについていた魔女が、秘密を打ち明ける囁きで付け加えた。魔女の視線の先、長年繰り返し蜜蝋が塗りこまれた艶やかな天板の上に、からからに乾燥しミイラと化した動物の前足が置かれていた。それは毛艶も毛並みも悪い前足であった。ベネット氏は、自分の美意識を隅々まで行き渡らせた空間に、ひとときであっても存在してほしくない、という目つきでそれを一瞥した。
「ミスラからだなんて、本当ですか?」
「いかにも。死の湖に用があってね。うっかり殺されてはかなわないから、双子に取次ぎを頼んだんけど」
魔法を使う者たちの間で単に双子と言えば、それは北の国に住まうスノウとホワイトという名の双子のことである。
「しかしね、ほら、彼らも適当な人たちだから、それだけでは不安が残ったもので、ミスラには手土産を持参したんだ。なに、長年の同僚だからね、彼の好みはそれなりに心得ている。そうしたら、存外にお気に召したようでね。お返しとしてこれを渡されたんだ。元の持ち主は、猿の手、と呼んでいたそうだよ」
貴石を扱うに似つかわしい、白い手袋をはめた手の四指をそろえて、ハート氏は猿の手を指し示した。
「はあ。それで、これは何なんです?」
礼儀として問いを返すと、ハート氏を挟んで先の魔女とは反対側に立っていた魔法使いが、「それはぜひ僕に語らせてくれよ」と口を差し挟んだ。彼はハート氏のいらえを待たずに口を開き、
「さあ、お耳を拝借」
と、握りこぶしでこんこんとテーブルを叩いた。
「あのミスラが所望したこの逸品、なんと、魔法使いでも魔女でもなく、人間の懐にあったとか」
周囲の客たちが、既に一度聞いた話であろうに、図ったように一斉に男を囃し立てた。
「なんでも、この手は、所有者となった者の願いを、どんなものでも三つ叶える力を持つという。どんな願いでもだぞ! ただし、先着三名まで!」
豊かの街のオークショニアというよりは、泡の街の路傍の叩き売りに似つかわしい、少々過剰な煽りであった。ここで男は急に声を潜めて、おどろおどろしい雰囲気を演出した。
「しかし、良い話ばかりでもない。気味の悪い話もある。この手の前の所有者――ひどくやつれた、老いた男だ――は、ミスラを目前にして、こう言った。『私奴から無理に奪う必要はございませぬ。自然に貴方様のものになります。ああ、結局のところ、この猿の手によって得たものは、運命を捻じ曲げようとしたこの身がいかに愚かであったかという教訓のみでありました』。老人の最後の願いは、自らの死だったのだ。そして、老人は本当に死んだ」
客たちは、今度は一斉にしん、と黙り込んだが、恐怖からのことではなく、男の一人舞台を演出するためであった。当然にそれを察知したベネット氏も、舞台の進行のために質問した。
「確かに不気味ですけれど、ミスラがそんなことを気にするとは思えませんね。なぜミスラは願いをかなえる手を手放したのでしょう。そのご老人が三人目で、願いを叶える力が失われてしまったからでは?」
「ミスラもそう考えたみたいだ」
舞台袖でに捌けていたハート氏が戻っていて答えた。
「この猿の手とやらからは欠片も魔力が感じられないし、実のところ、ミスラには叶えてもらいたい望みもなかったようだね。『ヴァナラ・アームだと思ったのに』と、がっかりしていたよ」
ハート氏は、それならば試しにヴァナラ・アームを望んでみればよいのに、と思ったが黙っていたこと、は黙っていた。
「そんなわけで、なかなか面白い来歴の手であるし、面白いものを愛する諸君のために、こうして持参したというわけさ」
「願いごとはしてみないの?」
カウンターにいたはずの常連客がいつの間にかテーブルへやって来ていて、ベネット氏の肩越しにハート氏に話しかけた。ハート氏は、「いやあ、どうかな」と首を傾げた。ベネット氏も、
「自死を望んだというご老人の最期の言葉などいかにも不吉ですし、軽率な真似はしないほうがよいのではないですか」
とハート氏に釘を刺した。ところが、願いごとを促した常連客は、二人の反応などちっとも意に介さず、好奇心を抑えきれない様子で畳みかけた。
「でも、本当にあらゆる願いを叶えてくれるものなんて存在するとは思えないし、ミスラでも魔力は感じ取れなかったわけでしょう? 逸話にあやかって願掛けをするようなものじゃない。万が一叶ったとしたら、それはそれで儲けものだし」
これには多くの者が頷いて、口々に自分なら何を願うかを述べた。これには、火付け役となった常連客が、有象無象ではなくハート氏の願いを聞きたいのだと不平を漏らしたが、「ムルの願いなど分かり切っているではないか」と一蹴された。
「<大いなる厄災>に決まっている」
「それはそうでしょうけどね。でも、ムル本人の口から聞きたかったのに」
恨めしさと期待を滲ませた視線を受けて、ハート氏はおもむろに立ち上がり、
「いかにも、私の望みは<大いなる厄災>に近づくこと。……これでご満足いただけたかな?」
その場で優雅に一礼した。
「いいえ、ちっとも。ああ、シャイロック、この連中に台無しにされた私の心を満たすために、ぜひあなたの願いを聞かせて」
先ほどまで、猿の手に対する警戒を緩めずにいたベネット氏も、酒場の客たちが次々に望みを開陳しても何事も起きないのを見て取って、気が緩んだようであった。
「そこの高慢ちきな学者先生が、痛い目のひとつやふたつ見て、ご自身を省みてくださったらよいのですが」
「これは手厳しいな、聞いたかみんな!」
おきまりのやりとりにみなが沸いた。「いやはや、こうやって、君たち二人に心を揺らされていたいものだね」。
ベネット氏とハート氏は、西の国の気質を体現している男たちで、ひょっとせずとも王族よりも人々の胸の内に根付いた存在なのだった。
いっそう賑やかさを増したテーブルの周囲で、突然、幾人かが同時に悲鳴を上げた。
「おい、いま、手が動いたぞ」
話に夢中になって目を離していた者は、すぐに猿の手を見たが、そこには先ほどと何も変わらず、みすぼらしい前足が、死骸らしく生気なく横たわっているだけである。
「確かに動いたんだ」
「そうだ、蛇のようにうねって……」
怯える者たちをよそに、ひとりが猿の手を無造作に持ち上げて、木の棒きれのようにぶんぶんと振り回し、「いや、よく見なさいよ。このミイラはこの通り、かちこちに固まっているし、魔力の欠片も感じられない」と宥めた。
「きっと気のせいだ。本当に動いたんなら、そりゃあ恐ろしく面白いが、何も起きていないじゃないか。今のところ、誰の願いも叶っちゃいないし」
目撃者たちは納得していなかったが、客の大半が自分たちの証言をまともに取り合わないので、口を噤んだ。
ベネット氏は、手が動いたと語る客たちのことをよく知っていたので、彼らが恐怖に駆られて幻を見たり、場を盛り上げようと嘘をついたりしたのだとは思わなかったが、店主としてこの騒ぎを収める責任のほうを強く感じて、
「さあさあ、このあたりでお開きにいたしましょう。この不気味な猿の手は、持ち込んだ方に持ち帰っていただきますから。ねえ、ムル」
と、にっこりと有無を言わさぬ笑顔を向けて、素知らぬ顔で傍観していたハート氏のほうへ、魔法で猿の手を押しやった。
ハート氏のほうも、ベネット氏の意図を汲み取って、少々わざとらしい口調ながらも、「もちろんだ、シャイロック」と答えた。
ハート氏は懐からハンカチーフを取り出すと、猿の手に被せて、その上から猿の手を掴んだ。そのまま席を立って帽子を被り、
「それでは諸君、この猿の手は俺が引き取ってゆくので、楽しい夜を過ごしてくれたまえ」
と言い残して、酒場を去っていった。
店内は、ハート氏と猿の手のあっという間の退場にざわめいたが、すぐに常の喧騒を取り戻した。
しかし、ベネット氏の心中は穏やかでなかった。あの猿の手に願いを叶える不思議の力が残っていたとして、いったい誰の願いを聞き届けたのだろうか?
2.
翌日の青天は、ベネット氏の仄暗い不安を嘲笑うような明るさであった。翌日の翌日も、そのまた翌日も同様であった。幾度かの翌日を繰り返して、「あの」夜が「ある」夜に、怪談が笑い話に変わったころ、開店直後のベネットの酒場へ客がやって来た。
客はウェルフォールという名の魔法使いであった。ハート氏は引っ越し魔で、貴重な研究資料もゴミも玉石混淆に詰め込まれた部屋を、片付けもせずに残していくことで有名であった。界隈では、ハート氏が去った後のそのような部屋を、「ムルの抜け殻」と呼んでいたが、ウェルフォール氏は、この「ムルの抜け殻」の処分を生業にしている人物である。
元より陽気な性格でもなかったが、この日のウェルフォール氏はいつにもまして陰鬱な雰囲気をまとっていた。酒場が混みあう日は、店の隅のテーブルで身を縮めているのが常なのに、今夜はカウンターに陣取って動かない。ベネット氏の目には、こういう客のお目当ては明らかなことだったので、ひとまず急ぎの注文をさばききって、
「本日はどういったご用向きでしょう」
と自ら尋ねた。
ウェルフォール氏は、自分の来店目的がベネット氏であると見抜かれたことに驚いたが、これ幸いと口火を切った。
「実は、ムル・ハート様のことでご相談が」
そうでしょうとも。ベネット氏は内心そう思ったが、これは声には出さずにおいた。
「何か面倒事がありましたか。ムルが起こした問題は、ムルに解決を依頼していただきたいものですが」
「ええ、ええ、もちろんです。しかし、ハート様は……」
言葉を詰まらせた客人に、ベネット氏は眉を顰めた。
「……ムルに何かあったんですか」
その性格が災いして、ハート氏が、やっかいな呪いを受けたり、大けがをしたり、病を患ったりするのは、けして珍しいことではなかった。しかし、だからといって、数の多さがベネット氏の心労を軽減してくれるというわけでもなかった。
「残念ながら……。ですが、もう、苦しんではおられません」
思わず安堵の息をつきかけたベネット氏は、客人の断言が意味するところを察して、時間をかけて作業の手を止めた。確かな肯定か、あるいは否定を要求するように、ベネット氏はウェルフォール氏と見つめ合った。ウェルフォール氏は、目をそらさずに続けた。
「先日、珍しく、ハート様のほうから連絡がありまして。長年の悲願が叶いそうであるから、数日のうちに今の研究室を出ていく、後はいつも通り、好きにしてよいと」
「長年の悲願……<大いなる厄災>に?」
客人は深く頷いた。
「ひどく興奮して、お喜びの様子でしたので、私はそのように信じております。いえ、そうであったと信じたいのです」
ウェルフォール氏は、脇の椅子に置いていた細長い包みを、ベネット氏に見えるよう、カウンターへ上げた。そして、震える指先で紐を解き布をめくった。
「ひっ」
ベネット氏と、聞き耳を立て覗き見をしていた酒場の客たちは、悲鳴を上げ、グラスを取り落とした。
ウェルフォール氏が持ち込んだのは、いつかの猿の手と、その手に握りこまれたぴかぴかのマナ石であった。
3.
客人の去った酒場は、時が止まったようであった。物音ひとつせず、動くものは何もなかった。隙間なく場を満たしていた重さをもった静寂は、
「猿の手のせいだ」
という魔法使いの叫び声に破られた。
「猿の手のせいだ。ムルは、あの夜、<大いなる厄災>に近づきたいと願っていた。猿の手がそれを叶えて、月に近づきすぎて、ムルは……」
「いえ」
ベネット氏が、震える声で魔法使いを遮った。
「私のせいかもしれません。あの夜、私も願いました。ムルが痛い目にあえばよいと」
仮定は言葉ばかりで、心の内では罪を確信しているらしいベネット氏を見ていられず、あの夜を知っている者たちは次々に声を上げた。
「そんなことを言ったら、僕たちだって、想像もつかないような驚くことが起きてほしいと願ったぞ」
「そうよ、私たち、あなたたち二人を眺めて心躍らせたいと、そう望んでしまったわ。こんなことになるなんて知らずに……」
当然の推論も、ベネット氏の慰めにはならなかった。実際に、誰の願いがハート氏を石にしたのかは、もはやベネット氏にとって問題ではなかった。ハート氏を石にする可能性を、他でもない自分が生み出してしまったことが、彼を痛めつけていた。
ベネット氏にかける言葉が尽きた頃、ひとりの客が呟いた。
「まだ願いごとは二つあるはずだ」
ある者はこれにぎょっとして、ある者は名案と歓喜して顔を上げた。
「そうだろう? 最初にかなった願いが、ムル以外のものなら――つまり、シャイロックか、酒場にいた誰かのものなら――、この猿の手は、あと二つ、願いごとを叶えるはずだ」
「もうやめましょうよ」
ハート氏のマナ石を見てから、涙を流し続けている魔女が窘めた。「また酷いことが起きるに決まっているわ」。
「いや、ムルを生き返らせろと望んでみるべきよ」
聞き分けのない子どもに道理を説くように、別の魔女が窘めた。「石になるより酷いことがいったいいくつあるっていうの?」
あの夜とは違い、喧々囂々の言い争いを収めようとはせず、ベネット氏は猿の手に、あるいは、猿の手が掴んだままのマナ石に手を伸ばした。そして、ベネット氏の指先がそれに触れた瞬間、かすかに、酒場の扉を叩く音がした。
みなが一斉に沈黙した。みな、扉を隔てた向こう側に、ハート氏の気配を感じ取っていた。
呼吸すらも忘れて凍り付いていると、先ほどよりも強く、扉が叩かれた。
「ムルだ!」
ある者は恐怖から、あるものは歓喜からそう叫んだ。
ふたたび、酒場は狂騒に支配された。
「扉を開けろ!」
「絶対に開けるな!」
飛び交う怒号、扉の前の押し合い圧し合い、もはや間断なく異常な強さで乱打される扉、その全てを後目に、ベネット氏は猿の手をぎゅっと握り込んだ。扉の向こうの「あれ」が入ってくる前に、最後の願いごとをしなければならなかった。
次の瞬間、猿の手に握りこまれたマナ石が、酒場の誰もが目を開けていられないほどの光を放ったかと思うと、粉々に砕け散り、次々と外へ飛び出していった。
.
「先日、珍しく、ハート様のほうから連絡がありまして。長年の悲願が叶いそうであるから、数日のうちに今の研究室を出ていくから、後はいつも通り、好きにしてよいと」
「長年の悲願……<大いなる厄災>に?」
ウェルフォール氏は、ベネット氏に深く頷いた。
「ひどく興奮して、お喜びの様子でしたので、私はそのように信じております。いえ、そうであったと信じたいのです」
ウェルフォール氏は、脇の椅子に置いていた細長い包みを、ベネット氏に見えるよう、カウンターへ上げた。そして、震える指先で紐を解き布をめくった。
ベネット氏は、包まれていたものを目にして、グラスを取り落とした。
ウェルフォール氏が持ち込んだのは、ハート氏の魂の欠片であった。