水底の日 雨樋からひっきりなしに流れ落ちる水が、排水溝に飲み込まれていく。
あまりにも量が多すぎて溢れそうになっているのか、空気を含んだ水が排水管の上で波を立て、とぷとぷという音がしている。まるでプールに潜っている時に聞くような音に、ルークが唇を尖らせた。
「午後だけど、全然止まないね……」
カーテンを開けて確かめるまでもない土砂降りの音に、ルークは八つ当たりのようにソファのクッションに背中から重さを預ける。雷こそ鳴っていないが、春の空は昼前ごろからずっと厚い雨雲に覆われていて暗い。それがまた、憂鬱に拍車をかける。
「久々の父さんの休みだったのに」
「まあな。だが、外に行けなかったのは残念だが、こんな風に家でのんびり過ごすのもいいもんだぞ」
「それは、わかってるけど」
リビングテーブルの角を隔てた一人がけのソファで、食後に淹れたコーヒーを片手に、新聞を広げてくつろいでいたエドワードがルークを宥めた。日曜が休めそうだと伝えた昨日のうちから久々の1ON1の約束を取り付けられていたので、この不機嫌さがあてが外れて落ち込んでいるせいなのはエドワードもよく判っている。
「そういや、宿題は終わったのか?」
「昨日のうちにとっくに終わらせてるよ。予習もやってある」
「おっ、さすがだな。じゃあ、一緒にゲームでもやるか? この間買ったソフトでも、ボードゲームでもさ」
「うーん……ちょっと、気分じゃないなあ」
「なんだ。そうしたら……そうだな、映画でも観ようか。飲み物と、軽くつまめる甘いもんでも用意して」
「映画かあ」
エドワードの提案に、ルークが唸る。悪くないのだが、昼食をたっぷり食べたばかりのせいか、おやつにそこまで魅力を感じない。もう一声、何か欲しいような気がした。ルークはテーブルにあったリモコンを手に取り、電源を入れて入力を切り替える。
おすすめの番組や映像がいくつも表示されたVODの選択画面で、ふと思いついた。
「ねえ、父さんが小さい頃に見てたヒーローって何?」
「ん?」
「最近、昔のヒーローものが配信されるようになったんだよ。ワイルドパンサーも、豆大福ナイトも久々に見たけど、面白かった」
エドワードは顎の無精髭を撫でながら、ルークのアカウントの閲覧履歴を見た。なるほど、履歴には数年前のヒーロー作品がいくつも並んでいる。
「俺の子供の頃のなあ。『ミラージュマン』とかだったかな。でも、これだけ映像技術も進歩してるんだ。三十年くらい昔のを見たって、そんな面白くないだろ」
「見てみたいんだからいいの」
教えてもらった作品のタイトルを復唱しながら、ルークは慣れた手つきでリモコンのボタンで文字を打ち、検索する。少しの間ののち、サムネイルの画像が現れた。
「あ、これかな? ……キラキラしてるけど、なんか、のっぺりしたデザインだね……」
「今見るとそうだよなあ。でも昔は、これがかっこよかったんだよ。とはいえ俺は、実はあんまり見てこなかったんだが」
「え、なんで?」
ルークが驚いて聞き返す。当たり前のようにヒーローものを見て育ったのだと思い込んでいる様子に、エドワードは苦笑いする。
「親父が厳しかったんだ。アニメやヒーローものなんて、ほとんど見たことなかったな」
「そうなの」
「そうだぞ。俺はな、すーっごく厳しく育てられたんだ」
「ええ……」
茶化して大げさに言ったせいで、ルークが逆に不信感を抱いたらしい。逆にもしかしたら、施設にいて厳しくされていた時のことを思い出してしまったのかも知れない。ルークは眉を寄せ、エドワードの話をどう受け止めるか考えあぐねているようだった。
安心させるように、エドワードは殊更に明るく言った。
「もちろん、全然ってわけでもない。だが見る機会があっても、たまたま手に入った映画のビデオテープとか……そういう時代だったしな。そもそも、見たいものはあんまり選べなかったな」
「……ビデオテープ……って?」
「今どきの子供には、そこからだよな。今はVODに何でもあるしな、いい時代だ」
エドワードが苦笑する。テーブルに置いたままだったコーヒーを一口含み、長い話に備えるように唇を湿らせる。
「同年代の子と遊ぶ機会がなかったわけじゃないが、あんまり話も合わなくてさ。だからさっきのも、知っているには知っているが……ってやつで、お前のワイルドパンサーみたいに、懐かしく思えるほど思い入れがあるかっていうと、何とも言えないんだ。ごめんな」
「父さんの父さんは、厳しい人だったの?」
「ああ。強くて、厳しくて、おっかない人だったよ」
遠くを思うような声音に、ルークが何かを察したのかも知れない。ぎくりと表情を固くするルークに、エドワードは目を伏せた。
「仲違いして別れて、それきりだ。おふくろも早くに亡くしてたし、親父も今は、遠くにいる」
「……初めて聞いた。父さんの、父さん……」
「気になるか?」
「そりゃあ、もちろんなるよ。怖い人かあ……」
ルークが口元に手を当てて考え込んでいる。そう聞いてしまうと恐ろしくはあるが、気にはなるというところだろう。
「会わなくなっちゃってから、ずいぶん経つんだよね」
「ああ。もう、十年以上だな」
「父さんが今、エリントンで警察官になって、街を守るヒーローになってるって知ったら、おじいさんは喜んだかな」
「……どうだろうなあ。俺が今こうしていることを知ったら、もしかしたら喜ぶかも知れないな。今から思えば、なんだかんだ言いながらも、俺のことは認めてくれていたんじゃないかって思うよ。──でも今は、こうやって息子のお前がそばにいてくれるから、俺は幸せだ。俺は、それでいい」
エドワードは読む手を止めたままだった新聞を四つに畳み、テーブルにそっと置く。ルークに穏やかな眼差しを傾けると、ルークは、その手には乗らないぞ、とむくれた顔をした。
「……またそうやって、話を逸らす」
「はは。お前が気になるなら、話し続けてもいいぞ。今だから話せる、おっかないエピソードばっかりだけどな」
「いや、いいよ。もう」
軽口のように言ってみたら、案の定ルークは首を横に振った。そんなふうに話させることが、エドワードの負担になるのではと感じたのだろう。
「気にしてくれて、ありがとうな。ルーク」
エドワードは背中をソファの背もたれに預け、腹の上で指を組んで目を閉じた。物憂げな表情を浮かべ、過ぎ去った時間をゆっくりと噛み締めるように追憶する。
「お前を引き取って、父さんって呼んでもらえるようになってから、もう六年か。親父の気持ちが、少し判った気がするよ。いつかもし、遠い未来で親父にまた会う日があるんだとしたら……感謝している、という気持ちになるのかも知れないな」
雨樋から大きな雫が落ち、弾けた音がした。まるで去った父親を偲ぶようなエドワードの様子に、父を亡くすという気持ちを想像してしまったのか、ルークも沈んだ顔をしている。雨はまだ弱まる気配がなく、窓を閉め切ったふたりきりの家は、冷たい水の中に閉じ込められた箱のようだった。
VODの画面は、しばらく操作がないせいでいつのまにか風景写真のスクリーンセーバーに変わっている。黙ってしまったルークの気分を変えてやるため、エドワードがリモコンを手にした。テレビ画面を額にした夕焼けの海が消えるまで重なり続けた水音は、まるでたゆたう波の音のようだった。