真夏のGATE「あー、渡れなかったね」
小走りに急いだものの間に合わなかった、信号が変わるまで長くかかる横断歩道。
「仕方ないよ」
と、呟き隣に立った人影に顔を向ける。
よく見慣れた顔なのに、どこかに感じる違和感。
さっき変わったばかりの赤信号を見つめる新緑の眼も、それを包むかのようなまっすぐな睫毛も。筋の通った鼻先まで何もおかしなところはない。
噴き出して止まらない汗が、その肌を滑り続けているのはこの猛暑だからお互い様だ。
と、視線を少しずらしたところでハッとする。
赤いその前髪を横に流してまとめているヘアピン。いつも几帳面に二つ並んでいるそれのうち一本が、斜めにずれて落ちそうになっていた。
こういうの、知らないうちはいいんだけど一回気付いちゃうともう気になってしょうがないんだよな。
すっと手をのばして、航海くんの前髪に触れようとしたら。
「えっ、なに」
びくん、と肩を大きく揺らして俺からじわりと距離を取られる。
仕方がない、急に触られそうになって驚くなんて当たり前のことだ。
だけど俺は少し傷ついたよ。もうそれなりに距離、近い気でいたんだけどな。
一年以上一緒に暮らしている。毎日毎日おはよう、おやすみ、いただきますにごちそうさま。なんてことの無い日常を一緒に過ごしている相手ってのに、不意に伸ばした手をそんなに驚かれるような、そういう対象なのかとがっかりしちゃった。
思わず怖気づいてわずかに退いてしまう指先。
航海くんの視線がその指と俺の顔を交互に彷徨い、激しく瞬いている。
言わなくちゃ。ヘアピンがずれ落ちそうになってるんだって。だから、それを直してあげようと思ったんだと。
唇を開いたものの、夏の強い日差しに熱せられた空気がむぁっと舌から喉にまで絡みつくように侵入してきてまともに声が出せない。
「っ、あ」
それでもなんとか喉を動かして呻くような声を上げれば、航海くんの顔色が変わって。
「万浬くん、熱中症 大丈夫?」
「ふぇっ」
さっき俺が触ろうとしたら避けた彼が、今は慌てた様子で俺の汗だくの額にその手をぴたりと当てると、すごく心配そうな顔で覗き込んできた。
「熱い……」
この口から零れ出たのは、伝えたかったピンの事でも突然の行為を非難する言葉でもなく、ただ額に触れるその手のひらへの感想だった。
「暑い」
「あ、違う。いや、暑いは暑いけど。それは大丈夫。熱中症じゃないよ、安心して」
航海くんの手にさっき退いてしまったこの手を重ねて掴み、そっと俺の額から離させる。
ちょうど大きなトラックが通過して風が起こり、熱から解かれた額を優しく撫でていった。
「本当?」
「ほんとだって。それより航海くん、ヘアピン落ちそうになってるよ」
掴まえた手をそのまま彼の髪へと向けさせる。その指先にずり下がるヘアピンが触れると、航海くんは「あっ」と呟いて顔を赤くした。
俺は手を離して、航海くんがピンを整える様子をあえて見届けずに信号機に視線を変えた。
もうすぐ、青になる。
赤は、止まれ。青は、渡れ。ちびのころに習った歌を思い出し、声には出さずに舌の上で音を転がす。
「ありがとう」
照れたような航海くんの声にそっと視線だけ流して彼がいつもの彼であることを確かめる。
うん、いいね。
どう『いい』のかなんて自分でもよくわからないけど、その時俺は直感的にそう思ったんだ。
いいなぁ、って。
同時に、視界の端で信号が青に変わる。
ほぼ一緒のタイミングで足を踏み出した航海くんが。
「帰ったら、アイス食べようよ。あのかき氷のやつ、たしか二本残ってるはずだ」
と目を細めて提案しているその額から頬へと汗がまた一筋流れて、顎からポタリと滴り落ちた。
「うん、そうだね。あれ美味しいよね」
そう答える俺も、肩を背中を汗が幾筋も伝っているのがわかる。
正直、暑くて体力を奪われている。
こんな状況なのに、なぜか俺の心はちっとも疲れてやしない。
なんでかな、どうしてだろうね。
さっき、航海くんに触ろうとして避けられちゃったことはまだちょっと胸がずきっとしてるけど、その直後に感じたその手の熱さが。
嬉しかった、のは本当に、なんでなんだろうね。
終