運命② それから、会う回数を重ねていく度に、ルシフェルとジータの距離は縮まっていった。
水曜日のカフェテリアでの夕食と勉強のみが接点だったが、お互いのおススメの飲食店の話題から、おススメのお店に行ってみようとなった。それをきっかけに、外で一緒に食事をするようにもなった。
「あー、ここのお肉料理、美味しいですね」
「肉が柔らかいし、ソースもしつこくなくて好きなんだ」
「わかります……美味しいです」
美味しいご飯に楽しい会話。ジータのワクワクする時間だった。社員の中でも、ここまで気を許した人はそう多くなかった。ジータの見た限りではあるが、ルシフェルもジータとの時間を楽しそうに過ごしてくれているように見えた。
「あー、美味しかった。お店の雰囲気も良かったですね。食器も全部可愛くて、たくさん写真に残しちゃいました」
帰り道お店の感想を話しながら、帰り道を歩いている。
ジータは女性としては身長が低い方ではないが、ルシフェルは身長が高い。頭一つ分、いやそれ以上違う。だから並んで歩くと、少しだけ見上げるようになってしまう。
「喜んでもらえてよかった。私も好きな店なんだ。気に入ってもらえて嬉しい」
「やっぱり、ルシフェルさんとすごく趣味合うな、ってよく思うんですよ。ルシフェルさんの勧めるもので、いいなと思わなかったものが今まで無いんじゃないか、ってくらい」
ジータはそれをよく思う。とにかく、ルシフェルとは趣味が合う。片方が好きなものは、もう片方も好きなことがとても多い。
「私もそう思うよ。こんなにも、心惹かれた女性は君が初めてだ」
「……」
ルシフェルのとある言葉がひっかかり、思わず体が強張る。
「……ジータ?」
「い、いえ、何でもないです! そ、そういえば、この前写真で見せてくれた喫茶店、あのお店ですか?」
ジータは若干強引に話題を変えた。
「……あぁ、そうだよ、あのお店だ」
「やっぱり、看板が可愛かったので、すぐ分かりました」
「お店の雰囲気も良いし、珈琲も美味しいよ」
ジータの様子がおかしかったことはそのまま流れ、喫茶店の話題に移り、ジータは胸をなでおろした。
(……やっぱり、駄目なのかな)
そんなことを心のどこかで思い、ルシフェルが話題を流してくれたことに安堵した。
ある日、ジータは仲の良い先輩に食事に誘われた。たまに、先輩はこうして食事に誘ってくれて、いろいろな話を聞いてくれる。仕事のことはもちろん、プライベートも、何でも聞いてくれる。
「ねぇ、ジータって、副研究室長と付き合ってるの?」
きっとアルコールが入っていたからだろう。単刀直入に急にそう聞かれ、思わず頬を赤らめる。
「な、なんでそうなるんですか!!」
ジータは必死にそう反論する。ちなみに先輩はジータとルシフェルのことが気になっているのか、ちょこちょこと状況を聞いてくる。
「だって、今は二人でご飯も食べに行くような仲なんでしょ? 副研究室長だったら、可愛い後輩を渡してもまぁ、許せるかな、とか思ったり思わなかったり」
「ルシフェルさんもそんなつもりないと思いますけれど……ただ、気が合う、って程度だと思いますよ」
「気が合う程度の子には、勉強熱心に教えたりご飯に誘ったりしないと思うけどなぁ……。正直、あっちは気があると思うよ」
先輩の言葉が突き刺さる。
きっと。先輩の言うことは真実だ。本当はジータも気が付いているのだ。
「君といられて本当に楽しいよ」
ルシフェルはそれ以上のことは言わない。望まない。
でも、たまに。ほんとうにごくたまに。少しだけ彼は男を見せてくる。アルコールが入ると、ほんの少し視線を絡ませてくる。自分を女として意識しているようなセリフを混ぜてくる。
ジータは気が付かない振りをしていた。そういう雰囲気になったら、強引に会話を変えるようにしている。
「……あの、先輩」
「ん?」
「相談、乗ってもらってもいいですか?」
本当は、どうすればいいかわからないのだ。ルシフェルのことは人間として好きだ。でも、異性としてはよくわからない。その板挟みにあっている。もしかしたら、先輩であれば何かアドバイスをくれるかもしれない。ジータは思い切ってそう切り出した。
「何?」
「……私、そういうのよくわからなくて。異性を好きになったことが無いというか……」
「そうなの?」
「トラウマがあって。重い話なんですけれど、よければ聞いて下さい」
先輩はうんうんと頷いた。それを見てジータは少しトーンを落として話し出した。
「私、高校に入ってから、オメガの女の子と友達になったんです。とってもいい子で優しくて気が合って。だから、毎日一緒に下校していました。ある日、学園祭が近くてその子と少し遅くまで残って作業したんですけれど、帰り道はもう真っ暗で。なるべく街灯の多い明るい道を通って帰ったんですけれど……」
ジータはそこで少し言葉を詰まらせる。
「帰り道の途中、その子がヒートを起こしてしまったんです。私、オメガの子がヒートを起こした状況って初めてで、どうしていいかわからなくてただ慌てることしかできなくて。それだけでもショックだったんですけれど、そのときたまたま、アルファの人が通りかかってしまって……」
「それじゃあ、そのアルファの人……」
「はい、その人ラットになってしまったんです。幸い近くを通りかかった人が助けてくれたらしくて、友達はほぼ被害はなかったですし、ヒートで記憶が朦朧としていてあまり覚えてもいなかったみたいで、それは良かったんですけれど」
「そんな経験をしていたんだね……」
「私は逆に、よく覚えていたからそれがトラウマになってしまったんです。そのアルファの人、大人の男の人で、友達を力づくで無理矢理暗い路地に引っ張ろうとしたんです。ラットということもありますけれど、性的に興奮していてすごく怖く感じました。でも私、そのときすごく怖かったけれど、友達を守るために必死に抵抗したんです」
「抵抗?」
「はい、友達から離れて、って友達とその人の間に入りました。でも、大人の男の人の力ってすごく強くて、全然歯が立たなくて、突き飛ばされて地面に頭を打って気絶してしまったんです」
そのときのことを今でも思い出す。人間らしい理性なんてなかった。まるで動物のようだと思ってしまった。友達を狙った肉食獣のようだ。
「目が覚めたら病院のベッドでした。それ以来、男の人が苦手なんです。友達や仕事の仲間であれば大丈夫なんですけれど、性的な目で見られるのがすごく駄目で……」
「だから、自然と仲良くなった副研究室長をそういう目で見ないようにしている、ってわけか」
ジータはこくりと頷く
「ここの会社に入ったのも、この事件がきっかけなんです。アルファとかオメガで悩んでいる人の力になりたいと思って。友達から聞いたんですけれど、そのアルファの人、ラットから覚めたら何てことをしたんだ、って悩んでノイローゼになってしまったらしくて……。きっとその人も抗えないことだったんじゃないか、って被害に遭った友達もそう悲しそうに言っていました。オメガもアルファもそう生まれてきただけなのに、悲しいと思って。だから、もっと良い抑制剤が広まってほしいな、って思いました」
「あー、ジータはやっぱり真面目で立派で優しいね」
先輩はそう言い、にこっと笑ってくれた。
「副研究室長に悪いな、って思うんでしょ? でも、無理なら無理しなくてもいいと思うよ。見ない振りをし続けてもいいんじゃないかな。だって、無理なものは無理でしょ」
「そうなんですけれど」
「何となくだけれど、ジータは態度に出やすいから、副研究室長も、薄々感付いてはいそうな気はするなぁ」
確かに、ジータは感情が表に出やすい。どきりとする。
「気が付いていて、待っていてくれてるんだと思う。変に近寄ろうとして、関係を壊さないように、ゆっくり待ってくれているんじゃないかな」
「……」
確かに、ルシフェルは頭がいい。ジータの些細なことによく気が付いてくれる。でも、無理に話題を変えるようにしたとき、特に気にすることなく次の会話を続けてくれている。
「マイペースでいいと思うよ。……でも、まぁ、アレを逃したら大きい気はするけれど」
「先輩、急に現実的な話を……」
「あのルックスで能力、たぶんアルファでしょ? しかも、優しくて誠実なんでしょ? うちは部署遠いからよくわからないけれど、周りの女の子が黙ってない気がするけれどなぁ……」
自分が好かれていることは抜きにして、確かにとジータは思った。
「だから、今のうちに捕まえておいた方がいいと思うなぁ」
本気なのか、先輩なりの冗談なのかはわからない。でも、その先輩の発言で少しだけ明るくなった気がした。
先輩と話したことで、少し肩の荷が下りた気がした。その日も一緒にルシフェルとご飯を食べに来た。
「そうなんですよ。結局いつものお店に戻ってしまって、優柔不断なのかなぁ、って思います」
「……」
ジータはいつも通り、何気なく話していたつもりなのだが、ルシフェルが何か言いたげな雰囲気で見つめてきた。
「どうしました?」
「君の雰囲気が少し変わった気がした」
確かに、少し気持ちが軽くなったことはある。もしかしたら、その影響なのだろうか。
「……正直に言おう。君は男性が苦手なのではないか、私はそう思っていたんだ。だから、もう傍にはいられないのかなと、少しだけいつも苦しかった。でも、最近はあまりそのような素振りが見えなくなった気がした」
やはり彼は気づいていたのだ。……ずっと、彼を苦しめていたのか。
「ごめんなさい。距離が近くなるにつれて、少し怖くなってしまって。でも、ルシフェルさんは大丈夫、って最近は思えるようになったんです。……わがままですよね、私。ごめんなさい」
言っている途中で気が付いた。自分の都合のよいことしか言っていない。思わず苦笑いを浮かべる。
「いや、苦手なものは誰にでもある、気にしないで欲しい」
彼は素直に気持ちを言ってくれた。そして、ジータを受け入れてくれた。それならば、自分も自分のことを伝えるべきだと思った。
「ルシフェルさんの言う通り、距離の近い男性が少し怖かったんです。昔、ヒートになったオメガの友達が、ラットになったアルファの男性に襲われそうになったところを見てしまって、少しだけ……怖いなって」
さすがに、全ては話しにくかった。だから、要点のみを話す。
「辛い経験だな……」
「はい。でも、だからルシフェルさんのお仕事ってすごいな、ってより思えるようにもなったと思います。もっといい抑制剤ができれば、ヒートもラットも怖くない世界になるのかな、って」
ルシフェルのような天才が居てくれれば、もっとアルファもオメガも過ごしやすい世界になるとジータは思っている。
「それならば、君は特に喜んでくれるだろうな」
「何をですか?」
ルシフェルは突然、そんなことを言った。
「実は、研究が最終段階に入ったから、研究内容をオープンにできることになったんだ。まだ、詳細は言えないが、概要だけなら」
「新しい研究ですよね? もしかして、すごくすごくよく効く抑制剤ですか?」
「フフ、ちょっと違う。オメガをベータにする薬だよ」
「オメガをベータに?」
つい、驚いてそのまま聞き返してしまう。まるで、夢のような薬だと思った。オメガのヒートで苦しむ人が、ベータのように生活できるようになるということだ。
「正確に言えば体質だけだが。体のつくりまで変えるには、メスを入れる必要があるから、体質だけだ」
「それでも、すごいことじゃないですか……!」
ジータは思わず、興奮してしまった。
「君に喜んでもらえて嬉しいよ」
「嬉しいに決まっています。友達みたいな悲しい目に遭う人が減るんです。あ、それならば同じように、アルファをベータの体質にする薬も開発するんですか? ラットに苦しむことが無いように」
ジータは加害者の男性のことを思い出し、そう尋ねたのだが。
「アルファをベータに? ……いや、それは考えたことはなかったな。特に困っていないから」
困っていない、という言い方に違和感を覚える。
(ルシフェルさんは、何か困ったことがあって、オメガをベータにしようと思ったの……?)
ふと、そんな疑問が浮かぶ。ジータと同じように、大事な人がヒートで苦しい思いをしたことがあったのだろうか。
「あぁ、私はアルファなのだが、特にラットで困ったことが無いんだ」
首を傾げて見つめているジータに気が付いたルシフェルがそう補足してくれる。やはり、彼はアルファらしい。
「やっぱり、ルシフェルさんってアルファなんですね」
「アルファに見えていたか? 私は私であることに変わりないから、そんなに気にしたことはないのだが」
「そのセリフがまさにアルファの人のセリフですね……」
「そうか」
そして、二人で笑った。そのせいか、ジータはセリフに違和感を抱いたこと自体忘れてしまっていた。
「もしもし」
その週の日曜日。ジータはある人物へ電話をかけた。
「ジータ! 久しぶり!」
「うん! 元気?」
「元気だよ」
女性の元気そうな声が聞こえる。例の高校時代からの付き合いであるオメガの友達だ。ルシフェルから、画期的な開発の話を聞き声が聞きたくなったのだ。
ちなみに今、友人は信頼できる番……彼女の言葉を借りると運命の番に出会い、大学を卒業してすぐに結婚した。今はお腹に子供もおり、幸せそのものだ。大好きな友人が幸せになってくれて本当に嬉しい。
そして、他愛のない話、自分たちや共通の知り合いの近況に花を咲かせる。
「そういえば、ジータは仕事どう? 入社してそろそろ一年か」
「仕事も大分慣れてきたよ。周りも良い人ばっかりで、楽しいよ」
「いいね。私は就職しないで家庭に入ったからなぁ。確か、抑制剤の大手だったよね」
「そうだよ! 最近、すごく頭の良い研究者の人と知り合いになったんだけれど、画期的な薬を開発しているみたい。企業秘密であまり詳しいことは言えないんだけれどね」
友人は社外の人のため、ルシフェルの研究についてはぼんやりとぼかしながらそう伝える。
「画期的な薬かぁ、待ち望んでいる人は多いと思うな。抑制剤って一言で言っても、効きって全然違うんだよね」
「そう聞くよね。良く合う人はベータと変わらない生活送れる、って聞いたことあるし」
「そうそう、高校時代の例の事件。私は抑制剤飲んでいなかったからそもそも悪いのだけれど、加害者の人は抑制剤飲んでいたのに、私のフェロモンと相性が良くてラットになっちゃったらしいんだよね。一方で、助けてくれた人もアルファだったんだけど、その人は抑制剤を飲んでいて抑制剤がきちんと効いていたから、私のフェロモンには何も感じなかったらしい」
「へぇ、助けてくれた人もアルファだったんだね。同じアルファの人で同じように抑制剤を飲んでいても全然違うってことかぁ……」
あまり触れてはいけないことかと思いジータはあまり聞いたことはなかった。しかし、同じアルファでもそのような差があるらしい。
(それなら、アルファの人がベータになる需要もありそうだけれどなぁ……)
あのときの加害者も、かなり後悔していたと言っていた。それであれば、一定の需要はありそうなのにとふと思った。
その週の水曜日は、ジータが外に行く業務がありそのまま直帰の予定だった。そのため、カフェテリアで会うのはキャンセルにしていた。しかし、思ったよりも業務が早く終わった。会社に戻っても中途半端な時間になるため、上司からは予定通りそのまま直帰してもよいと言われた。だから、ジータは寄り道をしながら帰ることにした。
その最中、あるお店が目に入る。
(あれ、あそこのケーキ屋さん、いつも行列のはずなのに、今日は全然並んでない)
たまたま先日、ルシフェルとそこのケーキ屋の話をしたばかりだった。開店して間もないためか行列がすごいらしい、空いてきたら一度食べてみたいねと話をしていた。
(こんなチャンス滅多にないよね。そうだ、差し入れてあげよう!)
今日はカフェテリアで会う約束をしていないが、水曜日は残業をしているようなことを言っていた。きっと今日も残業だろう。差し入れてあげようと思った。
自分用とルシフェル用のケーキを二個購入し会社へと戻る。会社に戻る頃には定時を過ぎて大分経っていたためか、昼間ほどの賑わいはない。
(こっちの方、来たことがなかったな)
そのまま、ルシフェルの研究室へと足を運ぶ。ジータの部署とはフロア自体違うため、このあたりには初めて来た。少し迷いながらもなんとか到着した。機密を扱う実験用と思しき部屋と、自席のある通常の部屋があるらしい。機密を扱う部屋は「関係者以外立ち入り禁止」の文字が書かれていたが、自席は特に問題なく行ってもよさそうだった。
(電気が付いてるから、ルシフェルさんいるかも)
入室可能な部屋のドアにはガラスがはめこんであり、中の様子を見ることができた。そっと中の様子を眺める。定時を過ぎているためか人はいなさそうに見えたが。
(あ、あれかな)
見覚えのある後姿が見えた。あの髪は間違いない、ルシフェルだ。PCに向かっているようだ。軽くドアをノックし、失礼しますと声をかけて入室する。
「ルシフェルさん、突然すみません」
「……」
ルシフェルが振り返った……とジータは思ったのだが、違和感に気が付いた。
(ルシフェルさんって、こんなにきつい感じだった……?)
顔はルシフェルだった。でも、雰囲気が全く違う。そう言えば、双子のお兄さんが研究室長だと聞いていた。きっとお兄さんだ。顔は瓜二つだが、お兄さんの方が若干小柄な気がした。そして、何となく冷たい雰囲気があるように感じた。
「ごめんなさい、研究室長……でしたか?」
「あぁ」
彼は興味なさそうにそれだけ返事をした。
「あの、ルシフェルさんは……」
「ルシフェルならもう帰ったぞ」
「そうなんですか?」
「ルシフェルが決めたことだ。数か月前か、仕事にメリハリを付けるために、水曜は定時退社日にすると。それ以来、俺は従う筋合いもないから残っているが、ルシフェルは水曜日にはさっさと帰っている」
確かに、彼以外誰も居ない。定時退社日のため、皆帰ったのだろう。
ふと、ジータの記憶と違うことに引っかかる。ルシフェルは、水曜日には残業をしているようなことを言っていた。数ヶ月前からということは、ちょうど出会った頃だ。つまり、出会った頃には、水曜日は定時退社日になっていて、ルシフェルは定時に終業していたことになる。
「そう……なんですね。失礼しました」
そう謝罪の言葉を口にしながらも、ざわざわとした気持ち悪さを少し覚える。矛盾だって、何かジータに影響があるわけではない些細なことだ。けれども何故か、ぼんやりと不穏な気持ちになる。
ルシフェルが居ない以上この場に長居するのもおかしいのだが、何となくその場を去れずにいた。
「もしかして、貴様か」
ふと、何かに気が付いたように、そう尋ねられる。ルシフェルのお兄さんがジータをじっと見てくる。
「な、何がですか……?」
彼は何のことを言っているのかわからなかった。もしかしたら、仲良くしている人がいるということを、ルシフェルが兄である彼に仄めかしたのだろうか。……悩んでいると、彼はジータの予想しない言葉を口にした。
「……逃げるなら今のうちだぞ。全力で逃げればまだ間に合うかもしれん」
突然だ。突然そう告げられる。逃げるという不穏な言葉と、周りに誰も居ない不気味な静寂。言葉を失ってしまう。
「に、逃げる、って、何からですか?」
「俺は忠告した。あとは知らん」
それだけ言うと、彼は興味を失ったのか、またPCに向き戻った。
「あの、研究室長……」
「……」
「あ、あの……」
言葉の意味がわからず何度も声をかけたが、それ以降は何を話しかけても無視されてしまった。彼の研究の邪魔になりそうだったこともあり、仕方なくその場は何も言わず去ることにした。
買ったケーキは翌日まで持つケーキだったため、会社の冷蔵庫に一時保管をさせてもらうことにしたのだが。
(どういうこと……なんだろう)
ケーキを冷蔵庫にしまいながら、先ほどのことを思い出す。
心をざわざわとした薄暗いものが覆い始めた瞬間だった。
翌日の昼休み。同じように研究室を訪れる。昨日のシーンとした少しだけ不気味な雰囲気は嘘のように賑わいがあった。
「ルシフェルさん」
今度こそ間違えず、ルシフェルの自席にたどり着く。
「どうかしたのか? 訪ねて来てくれて嬉しい」
驚きながらも、ルシフェルは嬉しそうに答えてくれた。
「これ、この前話した行列のできるケーキ屋さんのケーキです。たまたま昨日通りかかったら誰も並んでいなくてルシフェルさんの分まで買っちゃいました。昨日買ったものなので、早めに食べてくださいね」
「嬉しいな。ありがとう。君はもう食べたのか?」
「はい! クリームが濃厚なのに甘すぎないで、とっても美味しかったですよ! 珈琲のお供にちょうどいいかもしれないですね」
「楽しみだな」
ルシフェルは嬉しそうにニコニコとケーキを受け取ってくれた。
「そういえば、昨日も来たんですけれど、昨日は残業していなかったんですね」
彼のお兄さんが言っていたことがずっと気になっていた。だから、そう言ってみた。
「あぁ。昨日は君と会う予定が無かったし、切りがよかったから、定時で帰ったんだ」
ルシフェルに特に変わった様子はなかった。何かを隠すような素振りもなかった。
「そうだったんですね」
だから、ジータはそう返したものの。
(お兄さんが私に嘘つく理由なんてないよね……)
それに、昨日はお兄さん以外誰もいなかった。だから、この部署が水曜日に定時退社日としていることは本当だろう。それならば、嘘をついているのはルシフェルだ。しかし何故、残業しているなんて嘘をついていたのか、それがジータにはわからない。
「あぁ、今度お礼をさせて欲しい。この前言っていたお店はどうかな? 今度御馳走するよ」
そう尋ねるルシフェルの笑みは、いつものルシフェルの笑みだ。
でも少しだけ。何故かはわからない。でも少しだけ違って見えた。少しだけ、何となく怖かった。