夢か現か幻か 夜明け時。
人も吸血鬼も多くが眠りにつくしじまの時間。
広さの割に家賃の安さが自慢の2LDKのアパートの薄い壁越しにでも物音一つ聞こえない静かな世界にポツリと、外のしじまよりも静かな声でミカエラが呟いた。
「時々、もしかしたらこの幸せな日々は全部私の夢なんじゃないかと思う時があるんだ」
布団の上に座り、横で眠る透の頭を優しい手つきで撫でるミカエラの穏やかな横顔は白い花弁を思わせる静謐さに満ちていて、思わず目を奪われてしまうほど美しかった。
ポツリ、ポツリと穏やかな声音の中に恐れだとか怯えだとかそんなものを淡く微かに滲ませて、ミカエラは静かに言葉を落とし続ける。
「本当の私は兄さん達と離れ離れで、あの冷たい屋敷の中でお母様に縛られたままなんじゃないかって。全ては辛い現実から逃げ出そうと生み出した、自分に都合の良い幻のなんじゃないかって」
「ミカエラ……」
その感覚は俺にとっても身に覚えのあるものだ。
今が幸せすぎて、これが現実なのか疑いたくなる、その恐怖。
過去が辛く暗いものだったからこそ、そして今が明るく幸せであればある程強く感じるそれ。
ましてや、俺達の能力はそんな優しい夢をまるで現実のように容易く脳内に生み出す事ができるもんだから尚更だ。
堪らなくなって布団から起き出し、ミカエラの頭を抱きしめる。
今、この時は決して夢ではないのだと教えるように。
あるいはこの腕の中の熱は決して幻なんかじゃないと自分に言い聞かせるように。
———抱きしめた体の感触も、温もりすらも、やろうと思えば催眠で容易く再現できる自分達にとって、それすらも気休めにすぎない事はわかってはいるのだけれども。
やるせなさにミカエラを抱く腕に力が籠る。
布団の中でくうくうと良く眠っている透の頭を撫でる手は止めないまま、大人しく頭を俺に預けていたミカエラはそんな俺を見上げて穏やかに「でも———……」と微笑んだ。
「そんな時は兄さんを見ると安心するんだ」
「ミカエラ……」
「———だって、私に都合の良い夢だったら兄さんがこんなトンチキポンチに成り下がっているはずがないからな」
微笑みから一転、スンと真顔になって腕の中のミカエラが忌々しげに吐き捨てる。
そこには今までの穏やかさなど欠片も無かった。
「……ミカエラ?」
「まあ、同時にこれが現実な事に落胆もするんだが」
「あの、ミカエラ?」
「本当、愚兄に関してだけは夢だった良かったのに。なんでこれが現実なんだろう。でも夢だったら夢だったで私の願望がこんな野球拳バカという事になってしまうのかと思うとそれはそれで耐えられないし。ああ、最悪だ。まったくままならん」
「ミカエラァ!?」
「うるさい。透が起きるだろう」
ギロリと俺を睨みつけ「静かにしろ。今何時だと思っているんだ」とミカエラが俺を咎める。
いやいやそれよりも急に変わった空気感にお兄ちゃんついていけてないんですけども!?
なんかしっとりした空気だったじゃん!なんで急に真夏の炎天下に放置された洗濯物よりカラッカラになってんの、お前!?
慈しむ手つきで透を撫でる指先はそのままに、ミカエラはぶつぶつとまるで呪詛のように小声で俺に対する文句を言い続ける。
お前なぁ、それを言うなら俺だってお前のデフォルト装備がマイクロビキニ一丁になっているこの現実に物言いたいぞ!
透を起こさないよう小声で俺がそう抗議すると「これだから物の価値のわからない輩は」みたいな目を向けられた。
お前、俺に対してちょっと冷たすぎね?
末っ子との扱いの差に、なんだかさっきとは別の意味でやるせなくなって、抱きしめたままのミカエラにべったりと体重をかけてもたれかかる。
途端に「重い。鬱陶しい」と跳ね除けられてしまって、気分はすっかり反抗期の娘を持つ父親だ。俺の家族、弟しか居ないのに。
世の理不尽さを嘆きつつ、もう寝るかと布団に入る。
「聞いているのか!?」となおも小声で噛みついてくるミカエラの声を子守唄代わりに目を閉じた。