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    aun871

    稀代のハピエン厨。

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    aun871

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    10月の侑北プチ新刊原稿進捗。
    まじでギリなので尻たたきにあげる……
    北さんが結婚して離婚してます。
    ゆるがないハピエン。

    「俺が諦め悪いの、よお知ってるでしょ」
     なにを今更、と片目を細めて笑う目の前の男──宮侑に、北は一瞬、息ができなかった。ぐうと喉を堰き止める動揺を、なんとか飲み込んで声を出す。
    「っでも、今までそんな素振り……」
    「人のもんとる趣味ないから黙っとっただけや」
     ほんまはずっと、いつかこの気持ちに殺されるんちゃうかって、吐きそうなりながらアンタと喋っとった。
     ぐ、と眉間に皺を寄せた侑は、自嘲するように笑う。
    「誰のもんでもないなら、俺のもんになってや、北さん」


      ◇


    「えっ北、離婚したん?」
     テーブルの端から飛び込んできた声に、侑の心臓がどっと跳ねる。周囲から一瞬音が消えて、手に持つグラスの結露が小指を伝って滴り落ちるのが、妙に鮮明に感じられた。ちら、と視界の端でその声の出どころを窺うと、当の本人はなんでもない風に焼き鳥の串を口に運んでいる。
     久しぶりに、普段は来られないような人も揃った飲み会だった。そのせいか酔いも相まってか、みな自然と話す声は大きくなり、離れた位置に座る北の声は、どんどん進んでいく会話の傍らで耳を澄ませたくらいでは聞き取ることはできなかった。

     北が結婚したのは、三年ほど前の話になる。相手は仕事の関係で知り合った地元の農協の人で、小さくて少し頬が丸い、優しそうな笑顔が似合う北より二つほど年下の女性だった。卒業後も折に触れ顔を合わせてはいたが、そんな相手がいるだなんて聞いたこともなかった。自分よりも関わりのあった片割れですら初耳だと驚いていたので、あまり人に言っていなかったんだろう。見せびらかすことなく大事に大事にしておくのは、どこかあの人らしいような気もした。
     当然のように招待された結婚式に、侑は最初、欠席してやろうかと思っていた。しかし招待状を受け取った際の電話で、北に「忙しいやろうし無理はしてほしくないけど、オフシーズンやと思うし、もし来れるんなら、ぜひ来てほしい。侑にも会いたいし」と静かな柔らかな声で言われてしまったら、欠席しますだなんてとてもじゃないが言えなかった。
     その日のことは、断片的だがよく覚えている。柔らかな明かりが差し込む会場で穏やかに笑う北と隣に並び立つ女性は、いかにも幸せですといった雰囲気で反吐が出そうだった。
     侑は北が好きだった。学生のときに関わっていた頃から、ずっと。臆せず気持ちを伝えていたら、今日という日はなかったのだろうか。馴れ初めを語る妙に凝ったビデオを見ながら、無駄だとわかっていてもたらればばかり考えてしまう自分に、侑は心のうちでキッショ……と悪態をついた。
    「北さん、おめでとうございます」
     式の終わり。参列者を見送る北に、侑は平然を装って声をかけた。本当は胸の内がぐちゃぐちゃで、隣に立つ女性の顔だってろくに見られなかったのに。そんな侑に、北は嬉しそうに笑いかける。
    「侑!今日は来てくれてありがとうな」
    「いえいえ、他でもない北さんの結婚式なんで、そら来ますよ」
    「うれしい」
    「……うす」
    「また試合、応援いくわ。この子もバレー好きやねん」
     ちら、と北の隣の女性を見下ろすと、彼女は頬を上気させながら頷いていた。にこり、侑は口角を上げる。余所行きの笑顔は、ここ数年ですっかり完成度を上げたと思う。だって、心はずっと耳を塞ぎたくなるような悲鳴を上げていて、こんなにもちぐはぐなのに。周囲のざわめきがぼんやりと輪郭を失って、侑の脳をガンガン揺らしていた。
     ゲロ、吐きそう。
     無理矢理北の腕を引いて、奪ってしまえればよかった。でもどれだけ考えたって、そんなこと、到底できそうにない。だって北にとって、侑はただの一後輩でしかなかったのだ。結局、いい後輩の顔をして、それなりの頻度で顔が見られる今の関係性に無理矢理納得するしかなかった。
     この日着たおろしたてのスリーピースのスーツは、帰ったその手でぐしゃぐしゃにして捨ててしまった。安いものではなかったが、あの日の匂いが染みついたそのスーツに、もう一度袖を通す気にはなれなかった。そのときに、この気持ちも一緒に捨ててしまえればよかったのに。侑は、喉の奥につっかえるこの吐瀉物のような気持ちを、吐き出すことも捨てることもできずに、ぐうと泣きながら飲み込むしかなかった。

     それから年月が経って、北の隣に立つ女性を、北楓(きたかえで)という一人の人間としてようやっと認識できるようになったのは、時折二人連れ立って試合を観に会場まで足を運んでくれていたからだ。ここ最近は試合会場で見かけることはとんとなかったけれど、忙しいだけで仲良くやっているものと思っていたのに。
     なんで、離婚したんやろ。
     気になって、仕方なかった。北の性格上相手に不義理を働くとは到底思えないし、だとしたら彼女のほうがなにかやらかしたのだろうか。何度か顔を合わせた印象としては、北に選ばれそして北を選んだ女性として、彼女もそういう不義理を働く人間には思えなかった。それとも、単純に性格の不一致で?金銭感覚の違いというのも原因としては多いと聞くが、いくら考えたって、無関係の侑にはわかるはずもない。ただ不幸中の幸いか、まだ二人の間に子どもはいなかったはずだから、それに関してはよかったと言うべきか────
     いや、なに目線やねん。
     はっと我に返って、ふるりと首を振る。もう一度北のほうに視線をやったが、もうすっかり別の話題に移ってしまったようで、なにがどうなったか赤木が飼っているトカゲがいかに可愛いかという話になっていた。トカゲは可愛くないやろ、さすがに。
     結局、本当に北が離婚したのか、それとも大声を出したアランの勘違いだったのか、侑の幻聴だったのか、それすらも曖昧で、胸の内がもやもやする。しかし、ただの一後輩が改まって聞くのもなんだかおかしな話だ。そう言い聞かせる侑の脳内に、普段あまり口にしないアルコールが語りかけてくる。

    “ただの一後輩から、抜け出すチャンスかもしれへんぞ”



    「……侑」
    「ン……」
    「侑、起き。送ったるから」
    「うぇっ!?」
     ぼんやりと開けた視界いっぱいに北の顔が広がっていて、侑はぎょっと身を引いた。心臓がドクドク脈打つ音が、耳の奥に響いている。まだ覚醒しきらない頭で周囲を見渡すと、あれだけ散らかっていた机の上はもうすっかり片付けられていた。侑と北の他に、人もいない。
    「あ、れ……みんなは……」
    「もう帰ったで。治も飲み過ぎた言うて、さっき上いったとこ」
    「あ、そうなんですか」
     ん、と北から差し出されたミネラルウォーターのペットボトルをありがたく受け取り、一気に半分ほど飲み干す。冷えた水が喉をするりと滑り落ちて、幾分か頭がすっきりするようだった。指についた結露を気だるげに振り払う侑を、北は荷物を整理しながら見遣る。
    「侑はどうするん。治は泊まらしてもええ言うてたけど、明日あるから今日は帰らなあかんて言うてたやろ」
    「まあ……はい」
    「俺車やし、送ってったるよ」
     立ち上がった北に促され、侑ものろのろと動き出した。どうやら慣れない酒を飲んで、少しの間眠ってしまっていたらしい。忘れ物はないかとしつこく言う北にウンウン頷きながら、侑は荷物を持って外に出た。振り返って、おにぎり宮の引き戸に鍵をかける北の背中をぼんやりと見つめる。鍵はどうやら、治から預かったらしかった。その鍵を慣れた様子でポストに落とし、北は侑を振り返る。
    「軽トラやし、あんま乗り心地よおないと思うけど」
     北の言葉に、軽く首を振る。ぼんやりとしていた頭が徐々にはっきりとしてきて、そうしてあのびゅんっと侑の耳に飛び込んできたアランの声だけが、しきりに脳内で再生されていた。

    “えっ北、離婚したん?”

     乗り込んだ北の愛車の狭い助手席で、身を縮める。どるん、とエンジンをかけた北は、ちらりと侑の様子を窺った。
    「もし気分悪なったら早めに言えよ。吐くときは前にビニール入ってるから」
    「あ、はい。でも、吐く感じじゃないんで、多分大丈夫す」
    「ほんならええけど」
     吐き出せてしまえれば、どれだけよかったか。あの日からずっとこの気持ちを飲み込み続けているというのに、北はそのことをちっとも知りもしないのだ。侑は小さく息を吐いて、窓枠に肘をかける。北が知らないのは当然か。だって侑は一度も、この気持ちを北に伝えていないのだから。
     緩やかに発進した車内に、会話はなかった。日付はとうに変わっていて、すれ違う車の数も少ない。流れる街灯をぼんやりと見送りながら、侑は小さく息を吸った。
    「……きたさんて」
    「うん?」
    「……離婚、したんですか」
     一瞬、車内の空気がぴんと張りつめたような気がしたが、北は前から視線を逸らさず、うんといつもの調子で頷いた。
    「ああ、聞こえてたんか」
    「……アランくん、声でかいから」
    「はは、確かにな。楽しい席やし、改まって言うことでもないかと思ったんやけど」
     ちら、と横目で北の様子を窺うが、特に侑の質問に気を悪くした様子もない。ハンドルを握る北の左手に、指輪がないことが今になって目についた。本当に、離婚したのだ。試合会場で仲良さそうに話していた二人の姿が脳裏を過ぎる。
    「……仲良さそうやったんで、意外でした」
    「まあ……不倫したとか、仲悪なったとか、そういうわけとちゃうからなあ」
    「……ほんなら、なんで」
    「……お互い話し合って、そういう結論になってん」
     悪いな、侑には式も来てもらったのに。ふ、と息を吐いて笑う北に、侑は曖昧に首を振った。なんで、と聞いた侑に、北はあからさまに線を引いた。これ以上は聞いてくれるなと。胸が詰まって、息がしづらい。酔いに任せてなにもかも自分勝手にぶちまけてしまいたかったが、そうできるほど酔っていないことにも、素面で一歩踏み出せないことにも辟易した。無言で窓を開けた侑に、北はちらりと視線を寄越したが、結局なにも言わなかった。

    「ほら、着いたで」
    「あざす……」
     きゅ、と停まった車に侑は軽く礼を言うと、縮こまっていた身体を少し起こしてシートベルトを外した。開けていた窓を閉めると、途端に車内の静けさが耳にシンと響く。なんとなく、気まずい。侑が一人で勝手に気まずさを感じているだけかもしれなかったが、早く帰ろう、そう思って扉に手をかけた瞬間、北の柔らかな声が車内の空気を震わせた。
    「またシーズン始まったら、試合観に行くわ」
     応援しとるから、と北は笑う。その声に、表情に、学生時代の記憶が呼び起こされる。

    “ずっと応援しとるから”

     あの日も、胸に「祝 卒業」という花をつけた北は、言葉に詰まった侑に同じように笑っていた。お互い大人になって変わったものばかりだと思っていたのに。変わらない北の柔らかな声音に、侑は堪らず北の手を握っていた。
    「……侑?」
     左手の薬指。変わらないもの、変わったもの。絶望と諦観と共に見つめていたその輪は、もうそこにはない。ただ少しの日焼け跡が、その残り香を感じさせるだけだ。もうこの人は、誰のものでもない。なら、なぜ自分はいつまでも手をこまねいているだけで、なにもしないのか。後悔なら、北が結婚したときに飽きるほどしたんじゃないのか。侑は、その残り香を消し去るように、指先で北の左薬指に残る日焼け跡をなぞった。その指先の動きに、北が小さく息を吸う。その音が、狭い車内にいやに響いた。
    「北さん」
    「……侑」
    「高校の卒業式んとき、俺……」
    「侑!」
     北の悲愴な声に侑はぎょっとする。それは紛れもなく、拒否の叫びだった。侑は呆然と北を見上げたが、北のつむじと目が合うばかりで、一体どんな顔をしているのかはわからなかった。
    「……まだ、なんも言うてへんやないですか」
    「じゃあ、なに、言うつもりやねん」
    「……わかってるから、今、拒否ったんでしょ」
     北の指先を離す。名残惜しかったが、これ以上触れていたら離せなくなると思った。だって、もうずっと、触れたくて堪らなかったのに。
    「……試合観に来るとき、また連絡ください。いつでもチケット用意しますし」
    「……チケットは、自分で取るから」
    「観に来てくださいよ、約束」
    「……ん、約束な」
     ようやく、北と目が合った。いつもはまっすぐな目が珍しく揺れているように思えたのは、侑の願望だろうか。
     お互いなんでもないようにおやすみを言い合って、侑は車を降りた。窓越しに軽く手を上げた北に、小さく頷く。今になって、気持ちを吐き出させてもくれない北に、イライラした。
     キスの一つくらいしたったらよかった。
     夜道の向こう側に消えていく、北の車のわずかな明かりが見えなくなるまで見送りながら、侑はぼんやりとそう思った。自分勝手でも、もう、吐き出してしまいたかった。でも、北はそれを許さなかった。北らしくない、聞いてもくれないなんて卑怯だ、と思う。
     しかし、今日のやりとりで一つわかったことがある。侑にとってそうであるように、北にとってもあの日のことは思い出になんかなっていないということだ。北の卒業式。暖かな日差しと冷たい風の相反した空気の中、触れた指先のかすかな温もり。まだ、生々しいくらいの新鮮さで、ここに。絶望と諦観の暗闇のはざまで、かすかな、吹けば消えてしまいそうな儚さで、希望の明かりが揺れていた。


      ◇


     北の卒業式の日のことを、侑は今でもときどき夢に見る。春らしい暖かな陽気のわりに風が冷たくて、指先が冷えるのが嫌だった。卒業式の後、写真を撮り合うバレー部の集団の中で、ぽつんとそこだけ切り取られたように北と二人肩を並べたことは、今思えば運命だったんだろうと思う。運命、だなんて侑の柄じゃあないけど。
    「……卒業おめでとうございます」
     最初の頃よりは随分マシになったと思うが、いまだに抜けない北への苦手意識みたいなものの中で、侑は恐らく今この瞬間一番無難な言葉を選んだ。この人のことをもっと知りたいと思うのになぜか畏縮してしまうのは、この二年で染みついてしまった習性のようなものだった。そんな侑の言葉に北は一瞬目を丸くしたかと思うと、次の瞬間にはゆるりとその相好を崩した。
    「おん、ありがとう」
     礼を言った北がおかしそうに笑うのを、侑はきょとんとして見つめ返す。
    「なんで笑うんですか」
    「いや、問題児やった侑が、こんな殊勝に祝ってくれるやなんてな」
    「……茶化さんといてくださいよ」
    「ふは、悪い悪い」
     拗ねるように唇を尖らせた侑に、北はちっとも悪いだなんて思っていない顔で柔らかく目を細める。部活を引退して、北はよく笑うようになったと思う。多分、今までも笑っていたんだろうけど、主将としての立場を強く意識していたのがなくなっていい意味で力が抜けたのかもしれない。そんな北の笑顔は、侑にはまだ少しまぶしい。
    「大学て、忙しいんですか」
    「さあ、どやろな。オーキャン行ったときは、忙しいって言う人と暇やって言う人と半々やったけど」
    「バレー、続けるんすか」
    「……時間あったらな」
     少しだけ気遣ったような返答に、侑の喉の奥がぐうと締まった。片割れである治と、ちょうど同じ話題で人生をかけた盛大な喧嘩をしたばかりだったから。侑はこの先、バレーを辞める人間の背中を、一体どれだけ見送らなければいけないんだろう。仕方のないことだ、辞めたい人間は辞めちまえ、と思っていることは確かだったが、寂しいと思うこの気持ちもまた、確かに侑の内にあるものだった。
    「……北さんが後ろにおると、安心してはしゃげました」
     侑の言葉に驚いた北の、息を呑む音が聞こえる。
    「北さんは練習でしてへんこと、いきなりやんなってずっと言うてたけど、でも北さんは絶対ついてきてくれるから」
     ちら、と見下ろした北と目が合う。瞳の奥に春の日差しが反射してキラキラしていた。どっと心臓が跳ねる。
    「……お前にそんな風に言われるやなんて、光栄やな」
     ん、と北に手を出され、戸惑う。あ、え、と声を漏らすと、北は「握手」とだけ言って、侑を見上げた。その視線に乗った温もりが、侑の心にすとんと染み込んでくる。言葉にされたわけではない。だが、北のその目は、言葉を紡ぐよりも雄弁だった。だって、他の誰にも、こんなに熱烈でいてけれどやさしさを湛えた目を北が向けているのを、侑は見たことがない。それは侑の自惚れなんかではないと、確信があった。その視線は、侑の心の中をゆるりと小さく揺さぶる。そして侑はこのとき初めて、心の内に抱いていた、北への小さな恋心を自覚したのだった。
     マジで?
     差し出された北の手を、侑はおずおずと握った。ぎゅう、と力強く握り返され、その温もりに息を呑む。離れていこうとする北の手を咄嗟に握り返した侑に、北の瞳の奥が揺らいだ。多分、気付かれたことに、気付いたのだ。
    「ッ北さん、俺……」
    「侑」
     遮るような意志を持った強い声だった。はっとして、目の前の北を見つめる。触れた指先から北の温もりが伝わってきて、打ち震える。
    「ずっと、応援しとるから」
     柔らかな北の優しい声が、侑の小さな恋心を包み込むのと同時に有無を言わさずぎゅうと閉じ込めてしまう。北のえも言われぬ圧に侑はなにも言えなくなって、小さく「アザス」と礼を言ってその手を離したのだった。
     それだけ。たったそれだけで、侑は今も北への思いを燻ぶらせている。

     北が大学生になって、そして侑がVリーグ入りするまでの一年間は、時折北が他の上級生たちと共に部活の様子を見に来てくれて、その帰りにファーストフードに寄るくらいの、片手で数えられるほどの機会しかなかった。テーブルの端と端で、向かい合わせで、時には隣り合って座るうち、二人きりで出かけられたらいいのにと思うようになった。
     初めて二人きりで出かけられたのは、侑が社会に飛び出して初めての夏。世話になった先輩に礼がしたいので贈るものを一緒に選んでほしいと言えば、北は自分で参考になるかはわからないがと言いながら付き合ってくれた。その日選んだのは、カジュアルだがそこそこ上等な革のキーケース。深い藍色のそれを、北がいまだに使い続けてくれていることを侑は知っている。侑が贈ったキーケースに、自分ではない誰かと一緒に住む家の鍵が付いているのかと思うと、一時は胸がかきむしられる思いだったが、今はただ、北が侑からの贈り物を大事に大事に使ってくれていることがうれしい。
     決して先輩と後輩の域は出なかったが、それからも侑は北と二人きりで何度か食事に出かけた。他のどの後輩も(仕事で共にする片割れは除く!)、北と二人きりで出かけたなんて話は聞かなかったから、やはり北にとって侑はどこか特別な存在なんだと自惚れた。帰り際、侑が「じゃあ、また」と手を差し出すと、北はいつも笑いながらその手を握り返してくれた。
    「おん、またな」
     触れた指先の温もりが、いつまでもそこにあるのだと侑は安心していたのかもしれない。結婚の知らせを、北から直接電話で聞かされたとき、侑は一周回って感情が無になった。その電話の最中なにを話したかちっとも覚えていないが、軽い調子で祝いの言葉を口にしたような気はする。その後北に訝しがられることもなかったから、多分上手く喋っていたんだろう。そしてその電話を切った瞬間、後から後から後悔だとか絶望だとか執着だとか諦念だとかが代わる代わる襲ってきて、侑は気が触れるかと思った。自分がバレー以外にこんな激情を抱くとは思ってもみなかった。北の隣に自分じゃない誰かがいるのを見る度、胸が苦しくなった。あの日差し出された手を離さないでいればと。そうして会う度会う度傷付いて傷付くことにすっかり慣れてしまった侑は、その傷を舐めるように自分も他の人間とそういった関係を持った。でも、結局どれも長続きしなかった。そのうちそれも面倒になって、中途半端に関係を持つのはやめた。イメージじゃないと言われるが、独り身も案外長い。
     北が結婚してからは以前のように二人きりで出かけることもなくなって、顔を合わせる機会といえば、おにぎり宮で偶然一緒になるか、北が奥さんと一緒に試合会場に顔を出すときくらいだった。会う機会が減れば、必然と北に対する気持ちも少しは落ち着くだろうと思っていたが、結婚式に出席しても終ぞ捨てられなかったその気持ちは、結局今も侑の中でゆらゆらと燻ぶり続けている。


      ◇


    「北さん!」
     身を乗り出して助手席の扉を開けた侑に、北は車内を覗き込みながら片手を上げた。
    「おはよう、侑」
    「おはようございます~」
     きょろ、と車内を見渡しながら乗り込んできた北がシートベルトを着けるのを見届けて、侑は緩やかにアクセルを踏んだ。

    “今度世話になった会社の先輩が退職することになったんですけど、礼がしたいんで買い物付き合うてくれません?”

     馬鹿の一つ覚えみたいにこの言い訳しか使えないのかと思いつつ、他に理由も思いつかなかったのでそのまま北に送信した。嘘はついていない。世話になった先輩が退職するのは本当で、まあなにか軽く礼ができればとは思っていたから、ここぞとばかりに理由として使わせていただいただけだ。ただ理由はなんであれ、前回のことがあったからすげなく断られてしまうだろうかと思っていたが、侑の予想に反して北からはいつぞやと同じく「俺で参考になるかはわからんけど」と返事があった。
    「今日どこ行くん」
    「阪急かなあ。日本酒フェアやってるんですよ、今」
    「へえ」
    「その今度会社辞める先輩が酒好きで。だから一旦阪急に車停めて、梅田らへんでなんか探そかなって」
     侑が立てた計画に、北は特に突っ込むこともなく頷いた。どうやら今日は一日中付き合ってくれるつもりらしい。
    「車、ありがとうな」
    「ああ、いえ。俺もこないだ送ってもらったし……」
     口に出してから、余計なことを言ったと侑は一瞬口角を引きつらせた。ちら、と横目で北の様子を窺うと、北は思いのほかご機嫌な様子で、「軽トラとこの車じゃ釣り合わんやろ」と笑っていて、その真意は見えなかった。意識はされたい。でも警戒はされたくない。塩梅が難しいな、と侑は鼻先をかいた。
     結婚、という圧倒的な絆で他の人と結ばれてしまった北への気持ちを、侑は諦めなければ捨てなければと思い続けてきた。人のものをとる趣味はなかったし、北の幸せを犯してまで叶えようとは思えなかったからだ。だから、ぐいぐいと表に出ようと反発してくるそいつをなんとか「もうあの人は結婚してるんやから」と大人の振りをしてなだめすかし、抑え込んできたのに。

    “お互い話し合って、そういう結論になってん”

     仲違いをしたわけではないと言う。なら、なぜ?気持ちを抑え込んできたただ一つの理由を突然失って、自由になったはずなのに途方に暮れた。いっそのこと浮気されて別れたと言われたほうが、慰めを理由にすり寄ることができたのに、北はいつだってまっすぐ強く立っていて、でもこの人のこういうところが好きなんだと再認識させられる。

    「日本酒は好みがあるからなあ。その先輩はどんなんが好きなん」
    「えっ、えー……前は新潟のフェスみたいなんも行ってましたけど……」
     地方からも取り寄せているのだという日本酒フェアは、そこそこの人で賑わっていた。試飲もどんどん勧められて、侑は車なんでと断っているが北はぱかぱかと小さなカップを煽っている。度数も強いだろうに、北は平気な顔でどこかからもらってきた塩を舐めていた。
    「酒フェスかな。ほんなら相当酒好きやな。好みもはっきりしてるんちゃう?」
    「日本酒好きってことしかわからんすね……店でいっつもなに飲んでたんかなあ、あの人」
     侑自身、飲む機会がほとんどないから酒にはあまり詳しくない。だから酒に詳しそうな北を誘ったのだが、それはそれで選択肢を増やしてしまったようだった。
    「うーん、ほんなら、下手に酒そのものを贈るより、家で飲めるような切子のお猪口なんかでもええと思うけど。あとはちょっとええおつまみとか……」
    「なるほどォ……」
    「せやったら、他のとこも見てそういう食器とかつまみ探すか」
     北のアドバイス通り、その日は他の百貨店なども見て回り、侑は無事に先輩へのプレゼントを買うことができた。
    「いや、まじで助かりました」
     夕方、車に乗り込みながらそう言った侑に、北はふっと口角を上げた。
    「俺で力になれたんやったらよかったわ」
     そう言って笑う北に、お礼に飯でも、と誘えば、今度も北は迷うことなく頷いてくれる。試飲で酒が入って酔っているにしたって、前回北への気持ちを匂わせた侑に対しての警戒心が全くない。喜んでいいのか落ち込めばいいのか複雑だった。
     結局その日は北のリクエストでおにぎり宮に行くことになり、北と侑が二人で出かけることになった成り行きを聞いて「ふうん」と意味深な顔をした片割れをじとりと睨み付けることになった。北はここでも酒を飲み、とにかく終始ご機嫌な様子だった。侑と治のやりとりを聞いて、思わず吹き出す北を見て、侑は悪くは思われていないらしいとほっとする。北の自宅まで送り届けた際に侑が握手を求めたときも、北はほんの少しだけ目を丸くしただけだった。
    「握手?」
    「そお。握手しましょ」
    「ん」
    「うん」
     そっと差し出された北の右手を、ぎゅ、ぎゅ、と二回握りしめる。仕事柄だろうか、その肌は少しだけ乾燥していた。次になにか贈るなら、ハンドクリームもいいかもしれないなと思いながら、侑はその手を離す。
    「じゃあ、また」
    「おん、またな。気ぃつけて、おやすみ」
    「お、やすみなさい……」
     手を上げた北に軽く会釈をして、侑はアクセルを踏んだ。最初の角を曲がるまで、バックミラーには小さくなっていく北の姿が映っていた。
     それからしばらく、北とはつかず離れずの関係が続いた。食事や買い物に誘えば北は基本的には断らなかったし、いつかの約束通り試合会場にも何度か足を運んでくれた。試合会場で一人でいる北は、少しだけ新鮮だった。ここ数年は奥さんが隣にいることが当たり前になっていたから、一人でいる北を見かける度に、ああ本当に離婚したんだなと失礼なことを思う。北が離婚したと聞いてから、もうすぐ一年が経とうとしていた。


      ◇


    「最近よお北さんと会うてるらしいな」
     閉店間際、カウンターに侑を残すのみとなったおにぎり宮の店内。夕飯を終え肘をついて携帯を見ていた侑に、治が締め作業をしながら言った。侑は一瞬手を止め、まともに取り合うつもりはないというアピールのつもりで、携帯からは顔を上げなかった。
    「……だから?」
     しかし片割れの特権か、そんな侑を気にすることもなく治はずけずけと話を続ける。
    「まだ諦めてへんかったん」
    「なにがやねん」
    「だから、北さんのこと」
     それだけ言って、治はザアザアと水を流していた蛇口を締めた。小さなテレビの音だけが、店の中に響いている。
    「どうするつもりなん」
     カウンター越しに、こちらを見つめる治と目が合った。侑はため息をついて、携帯をカウンターに伏せる。
    「……どうもこうも、なんもないし」
    「北さん離婚したんやし、法的には問題ないやろ」
     あけすけなことを言う治に、侑はぎょっと息を吸った。そんな侑に、治は片眉を上げる。
    「なに、今更」
    「……お前、奥さんとも交流あったんちゃうん」
    「ああ、まあよお店来てくれとったしな。今でもたまに顔出してくれるけど」
     カウンターの中でなにやら作業を続ける治に、侑はため息をつきながら頬杖をついた。
    「なあ、北さんってなんで離婚したん。サム知らんの」
     侑の問いに、治はゆるりと首を振る。
    「知らん。俺もなんでですかって聞いたけど、後ろめたい理由じゃないとしか言わんかったわ」
    「なんでなんやろ。仲良さげじゃなかった?」
    「……なに、それ気にして手出されへんの」
    「っ手、出すとか、出さへんとかじゃ、ない、けど……」
    「それこそ今更やろ。もう一年くらい経つんやし」
     治の言う通りだ。この一年つかず離れずの距離を保ってきて、自惚れでなければ、北はまた結婚する前のように侑に心を開いてくれているように感じる。でも、それは北が結婚した当時だってそうだったのだ。だから侑は安心しきっていた。北は変わらずそこにいてくれるのだと、侑に気持ちを向けてくれているだろうと信じて疑わなかった。でも、北は他の人とあっさり結婚してしまった。自惚れだったと言われてしまえばそれまでだが、侑にはどうしてもそうは思えなかった。
     だから、侑は今も北が怖い。会えば会うほど、侑には北がなにを考えているのかわからなくなっていく。またあの頃と同じように突然離れていってしまうのではないかと恐ろしくて、二の足を踏んだ。北に好きだと気持ちを伝えて、侑のことなんてただの後輩としか思っていない、そんなつもりじゃなかったとはっきり言われてしまうのが怖かった。北が離婚したことを知ったあの日、狭い車内で北は確かに侑の気持ちを拒絶したのだ。
     なにも恐れずに欲しいものを欲しいと言い、素直に手を伸ばしてしまいたかった。北のこととなると、途端に臆病になってしまう自分に苛立つ。
     治の言葉に曖昧に頷いて目を伏せた侑に、治はハアとため息をついた。
    「それでまた後悔すんのはツムやねんから、さっさと……」
     扉の開く音で、治の言葉が途切れる。侑も顔を上げて扉を振り返って、どっと心臓が跳ねた。
    「あれ、侑もおったんか。お疲れさん」
     噂をすればなんとやら。おにぎり宮の扉を引いたのは、北だった。
    「北さん、お疲れさんです。どないしはったんですか」
    「特に用があるわけやないんやけど、近く寄ったから……侑、隣ええか」
    「え、あ、もちろん。どうぞどうぞ」
     カウンターの椅子を引いて、北が侑の隣に腰掛ける。腕が触れそうになって、バレないようにそっと腕を引いた。
     北が食事をする間、治も交えながら会話をしていたが、侑はいつものように振舞えている自信がなかった。治とあんな話をしたからか、いつもより気持ちの箍が外れている気がする。言葉数の少ない侑に、北も気が付いていたとは思うが、侑はなんとか取り繕うように笑うので必死だった。
    「ごちそうさん。遅くにすまんな」
    「いつでも来てください」
     食事を終えて一息ついた頃、北が鞄を持って立ち上がった。会計をする二人をぼうっと席から見上げていると、治に顎でしゃくられる。
    「おい、ツムももう帰れ。店じまいするし」
    「……へいへい」
    「北さんもまた」
    「おん、次の納品明後日やな」
     治と言葉を交わしつつ、北と一緒に店の外に出る。扉が閉まる直前、治が意味深な視線を侑に寄越していた気がしたが、隣の北の動向に気を取られていてそれどころではなかった。
     今、二人きりになるのは、まずい。
     じゃあ、とその場で別れてしまえればよかったが、お互い車で来ていたせいでどうしても駐車場までは一緒に歩く必要があった。肩を並べて歩きながら、なんとか北の話に相槌を打つ。侑としてはなんとか取り繕えていると思ったが、北にはやはりバレバレのようだった。
    「……すまんな、邪魔したんちゃうか」
    「な、にがすか」
    「いや、なんか治に相談事でもしてたんちゃうかと思って」
    「あ、あー……いや……」
     言い淀んだ時点で肯定と同じだ。侑は緩く首を振る。
    「大したことやないんで、大丈夫です」
    「ならええけど……もし、俺でも相談のれることやったら、いつでも頼ってくれてええからな」
     まっすぐな北の視線に堪らなくなって、侑ははくと息を吸った。
    「なんで……」
     そこまで、という言葉は音にならなかったが、北はなんとなくニュアンスを汲み取ってくれたようだった。ふ、と北の目元が綻ぶ。
    「侑は、俺の大事な後輩やからな」
     ああ、北の気持ちが漏れ出るようなこの目元。喉の奥が詰まる。これが侑の自惚れだなんて、どうして思える。飲み込んだはずの気持ちが湧き出てきて止まらない。後悔はもう、飽きるほどした。目を伏せた侑を、北が心配するように覗き込んだ。
    「侑?」
     北と目が合って、気持ちが溢れ出す。欲求を抑えきれずに、侑は北に手を伸ばした。はっと息を吸って目を丸くした北の頬に、両手を添えてそのままぐっと引き寄せると、たたらを踏んだ北は容易く侑に身を寄せた。唇が、触れる。押し付けるようなキスに、小鼻や頬に北の肌の温もりが触れた。一瞬とも永遠ともつかないそれは、どっと北に突き飛ばされたことで終わりを告げた。驚いたように口元を片手で覆う北を、侑は凪いだ視線で見下ろす。
    「ッなんで……」
    「俺が諦め悪いの、よお知ってるでしょ」
     一度溢れてしまった気持ちは、もう止められそうもなかった。呆然としている北に、なにを今更と息を吐いて笑う。聡い北が、侑の気持ちに気が付かなかったわけがないのに。戸惑ったように視線をうろつかせた北の唇が震える。
    「っでも、今までそんな素振り……」
    「……人のもんとる趣味ないから黙っとっただけや」
     ほんまはずっと、いつかこの気持ちに殺されるんちゃうかって、吐きそうなりながらアンタと喋っとった。
     ぐ、と眉間に皺を寄せた侑は、自嘲するように笑った。
    「誰のもんでもないなら、俺のもんになってや、北さん」
     ザア、と吹き抜けた風の音に混じって、後退った北の足元で擦れた砂利の音が響く。二人の間に沈黙が落ちる中で、侑は北の言葉を待った。北は珍しく動揺したように唇を引き結んで、深く息を吸う。溢れ落ちたのは、静かな声。
    「俺は、ものやない」
     顔を上げた北と目が合う。ぐっと眉間に皺を寄せた北の瞳が揺れている。
    「俺は俺や、誰のもんにもならん」
     北はそれだけ言うと、言い返そうと口を開いた侑を無視してさっさと自らの車に乗り込んでしまった。
    「ッ北さん!」
     慌てて追いかけて窓に縋るが、北の厳しい視線に一瞥されて、侑は大人しく身を引いた。侑が安全な距離に下がったのを確認してから、北は視線を前方に戻し車を発進させる。遠ざかっていく北の車を見つめながら、侑は前髪をがしがしと掻いた。
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