外勤任務のその後で————静寂が漂うラプラス内の研究室。
午前中の書類提出を済ませるため、ウルリッヒは足早にアドラーの前を通り過ぎようとしていた。
「アドラー、キミに頼みたいことがあるんだ。」
ウルリッヒの静かな声に呼び止められ、アドラーは顔を上げた。
「……なんだよ。」
コンソールを叩く手を止め、振り向いたアドラーの視線の先に、ウルリッヒが立っていた。
「後でボクが使うから、これ、ちょっと持っててくれないか。」
そう言って、ウルリッヒは手にしていた茶色いロングコートをアドラーに差し出した。
それは、ウルリッヒが外勤時に必ず着用するお気に入りのコートだった。
「……あぁ。」
無造作に応じながらも、アドラーの目はコートの柔らかな布地に吸い寄せられていた。
手に取った瞬間、微かな “香り” が鼻をかすめた。
——コーヒーの匂い。
深煎りの豆の苦みと、微かに甘みを含んだ香り。
ウルリッヒがいつも飲んでいる、あのブラックコーヒーの残り香だった。
「……っ」
アドラーの指が、コートの内側の生地を無意識に撫でる。
香りが染み付いている。外勤のたびに袖を通し、何度もその身を包んできたせいだろう。
「今から書類を提出しに行くんだ。すぐ戻るよ。」
ウルリッヒは軽く肩をすくめながら、相変わらず淡々とした声で言った。
「まぁ、そんなに時間はかからないだろう。待っててくれるね?」
「……あぁ」
アドラーはぼそっと返事をする。
視線はコートに釘付けのままだった。
「頼んだよ、アドラー。」
軽く手を挙げて去っていくウルリッヒの姿を見送りながら、アドラーはようやく自分の胸の内で何かがざわめいているのに気づいた。
——コートから漂う温かくて、どこか落ち着く香り。
ウルリッヒの香り。
「……なんだ、これ……。」
無意識にコートを胸元に抱き寄せる。
コーヒーの香りが、ふわりと鼻先をくすぐった。
「くそ……。」
理屈じゃ説明できない。
ただ——
——胸が、妙にざわつく。
喉の奥が乾くような感覚とともに、心臓が小さく跳ねた。
「……バカバカしい。」
アドラーは自嘲気味に呟いたが、手の中のコートを離すことができなかった。
「たかが……コーヒーの匂いだろ。」
そう言い聞かせながらも、鼻先から離れないその香りが、どうしようもなく彼の意識を支配していた。
——ウルリッヒの気配が、すぐそこにあるような錯覚。
「……っ、なんで俺が……」
アドラーは目を閉じ、無理やり平静を装おうとした。
しかし、香りは消えない。
むしろ、時間が経つほどに、ますます心の奥深くまで染み込んでいくようだった。
「……チクショウ……。」
コートを抱えたまま、アドラーは椅子に深く沈み込んだ。
呼吸を整えようとするたびに、コーヒーの香りがまた鼻腔をくすぐる。
「なんで、こんな……。」
胸の内に広がるのは “安堵” に似た感情——
だが、それは安堵ではなく、むしろもっと厄介なものだった。
アドラーはコートを抱きしめる腕に、無意識に力を込めていた。
「……早く戻ってこいよ、ウルリッヒ。」
抑えきれない苛立ちと、拭えない期待が、彼の心を静かに締めつけていた。
§
——塩の匂いだった。
それは、ほんの微かな残り香。
最初に感じたのはコーヒーの香りだった。だが、コートを胸元に抱えてじっくりと嗅ぎ分けると、どこか “潮風” のような匂いが混ざっているのに気づいた。
「……ん?」
アドラーは眉をひそめる。
潮風——塩っぽくて、湿った風の香り。
無意識のうちに、アドラーの脳裏にはある記憶がよみがえっていた。
「……フリーブリーズ号、か。」
ぽつりと、呟く。
あの豪華客船の名前。
確かウルリッヒが 「外勤で必要だ」 と言って乗り込んだ時のことだった。
アドラーは同行しなかったが、あの船に乗った後のウルリッヒが 微かに潮の香りをまとっていた ことを覚えている。
「……ってことは、この匂いもその時の……。」
アドラーはコートの襟元をつまんだまま、しばしぼんやりと考え込んだ。
——そして、思い出す。
「あの時のレグルス……」
『おい!カーバンクルヘアー、ちょっと聞いてくれよ!?』
任務後、ラプラスのカフェテリアで、レグルスが大きなマグカップを両手で抱えながら、声を荒げてアドラーの前に座り込んだのだ。
『マジで最悪!あの水槽頭、あたしをどれだけ振り回せば気が済むのだ!』
レグルス——ロックンロールをこよなく愛する海賊娘。
いつもはラプラス内の放送局をジャックして勝手にロックを流す “問題児” だったが、その時ばかりは “魂が抜けたような顔” をしていた。
『アイツ、最初は静かにしてたから油断したのよ。でも途中から急にあれこれ指示してきて、あたしが全部やるハメになったの!』
レグルスの顔は “ぷんすか” どころではなく、心底 “呆れ果てている” という表情だった。
『こっちはカッコよく決めたかったのに、最後はただの雑用係だぜ!?』
ロックな彼女にとって “自分が目立てない” というのは、何よりの屈辱だったのだろう。
アドラーはあの時、軽く肩をすくめて
「ウルリッヒのペースに乗せられたんだな。」
とだけ言ったが——
『ペース?そんな可愛いもんじゃねぇよ!』
レグルスは “テーブルをバンッと叩いて”マグカップの中身を少しこぼしていた。
『あたしなんかさ、最後にはもうヘトヘトで、立ってるのがやっとだったんだぞ!』
その時の “恨みがましい顔” が、アドラーの脳裏に鮮明に残っている。
「……レグルスが、あそこまで怒ってたんだ。」
ウルリッヒのことだから、合理的かつ完璧に物事を進めたのだろう。
だが、そこに “他人の感情” への配慮はなかったに違いない。
「……ホント、相変わらずだな、アイツは。」
アドラーは小さくため息をついた。
「で、タイムキーパーは何か言ってたか……?」
思い出すのは、もう一人の仲間——
タイムキーパー。
“冷静沈着な16歳の天才少女”
レグルスのように大げさに騒ぐことはなかったが、あの時、彼女もウルリッヒには手を焼いていた。
『……私はそこまで大変じゃなかったけど。』
タイムキーパーはそう言いつつ、目の下には “薄っすらとクマ” ができていた。
『でも、ミスター・ウルリッヒはやっぱり少し……強引だったかな。』
そう言いながらも、その目にはどこか “好奇心と疲れ” が交錯していた。
「……結局、あの2人も振り回されてたんだよな。」
アドラーは苦笑する。
「ウルリッヒのやることだ、まあ、想像はつくさ。」
しかし——
ウルリッヒに振り回されていたのは、あの2人だけではなかった。
「……俺だって、同じだよ。」
アドラーは、再びコートの襟元をつまむ。
潮風の香り、コーヒーの残り香——
そして、ウルリッヒの無自覚な気配。
それだけで、胸の奥が “ざわつく” のだから、厄介だった。
「……ホントに、どうしようもない。」
呟いた声は、どこか “切なさ” を帯びていた。
ウルリッヒの残り香が、アドラーの理性を少しずつ溶かしていくように——
「……ホントに、どうしようもない。」
そう呟いた声は、コートの襟元に吸い込まれるように消えた。
アドラーはまだコートを胸元に抱えたまま、ぼんやりと立ち尽くしていた。
——塩風の香り、そしてコーヒーの残り香。
それが染み付いたウルリッヒのコートは、まるで “ウルリッヒそのもの” だった。
「なんで……こんなに落ち着くんだろうな。」
冷たくて、合理的で、いつも “ボク” としか自分を呼ばない義体の“彼”。
——なのに、残り香ひとつでこんなに自分が揺さぶられるなんて。
アドラーは自嘲するように口元を歪めた。
その時——
「アドラー?」
「……ッ!!」
突然の声に、アドラーの心臓が跳ね上がった。
気づけば、すぐ後ろに “ウルリッヒ” が立っていた。
「……ボクがいない間に、何か考えごとか?」
いつの間に戻ってきたのか。
全く気配を感じなかった。
「な、なんだ……もう戻ってきたのか?」
アドラーは慌ててコートを胸元から引き離したが、動きがぎこちない。
ウルリッヒはそんな彼の様子に特に疑問を抱くこともなく、淡々と答える。
「書類の提出だけだったからな。時間はかからない。」
そう言って、ウルリッヒの視線がコートに注がれる。
その瞳が、微かに瞬いた。
「……臭いか?」
「え?」
アドラーが戸惑う間もなく、ウルリッヒは “スッ” と手を伸ばし、アドラーが抱えていた自分のコートを取った。
「ちょっと貸したまえ。」
そのまま、アドラーの目の前で——
“クンクン”
ウルリッヒは自分のコートにバブルヘッドを寄せて、嗅覚機を少し上げた。
コートの襟元を掴んで、念入りに匂いを確かめるように。
「……ふむ。」
そして、再び “クンクン”。
「潮の香りが残っているな……」
その声は、どこか満足げだった。
「コーヒーの香りも……ああ、朝飲んだやつか。」
「——ッ!」
アドラーの顔が、一気に熱を持った。
ウルリッヒの顔はすぐそば。
近い——あまりにも、近い。
義体の顔だから感触はないはずなのに、まるで肌に触れているような錯覚さえ覚えた。
「おい……近い……」
アドラーの声はかすれ気味だったが、ウルリッヒは意に介さない。
むしろ、さらに顔をコートに寄せて
「……変な匂いはしないが?」
と、淡々と呟いた。
その声が “くすぐるように” アドラーの耳に届く。
ウルリッヒのバブルヘッドがコートに埋もれ、鼻先がわずかにアドラーの手に触れた気がした。
「ッ……!!」
アドラーは思わず手を引っ込めそうになったが、動けなかった。
「なんだ?顔が赤いぞ。」
ウルリッヒがコートから顔を上げた時には、アドラーの頬はすっかり染まっていた。
「……き、気のせいだ。」
慌てて視線を逸らすが、耳まで熱を持っているのは隠しようがない。
だが、ウルリッヒはその反応を見ても、いつものように “特に気にする様子もない”。
ただ淡々と、コートを肩にかけながら呟く。
「変わった匂いがするなら、クリーニングに出すが?」
「い、いらん!」
アドラーは思わず声を上げた。
その声音に、ウルリッヒはわずかに首を傾げる。
「そうか?まあ、キミがそう言うなら……」
あくまで “合理的な判断” で済ませるウルリッヒ。
だが、アドラーの心の中はそれどころではなかった。
——さっきの “クンクン”
ウルリッヒの顔がコートに埋まる時、あの “磁性流体” がすぐそばにあった。
「……バカか、俺は。」
アドラーはこっそりと自分の顔を手で覆った。
鼓動が、まだ収まらない。
ウルリッヒは何も感じていない。
“ボクは義体だから” と言わんばかりの無関心さで、淡々と自分のコートを直している。
「……無自覚にもほどがある…」
だが——
(こんなこと、何度繰り返すつもりなんだよ、俺は……。)
アドラーは、熱を持った自分の胸元を押さえながら、内心で自嘲するのだった。