この子の名を しんと静まっていた部屋に、赤子の泣き声がする。さっきまで眠っていたはずだが起きたのだろう。
バルゴートは立ち上がって机の上に置かれたバスケットを見た。赤子はむずかるように小さな手を動かしている。生まれたばかりの赤子の頼りない泣き声はバルゴートを不安にさせた。夜風が粗末な小屋を揺らす。
「泣いておるぞ」
この赤子の父はバルゴートではない。窓辺に座る男が父だが、今は泣いている我が子を見ようともしなかった。
男は勇者だ。バルゴートが共に旅をした仲間で、唯一の友でもある。だが友は産まれたばかりの我が子を抱きもせず、窓際の壁に身をもたせて暗い窓の外を見ていた。
泣き続ける赤子を不憫に思ってバルゴートはバスケットから抱き上げた。この脆く壊れそうな生き物が自分の腕の中にあることに慄く気持ちが湧き起こる。守りきれなかった命のように、この小さな命さえ失ってしまうのではないかと思えた。
バルゴートと友は長く旅をしている。その途中で友は愛する人を見つけて、新たな命が生まれた。だが同時に、失ってしまった。バルゴートも手を尽くしたが救えなかった。
「この子の名は?」
バルゴートは赤子の名を知りたかったわけではない。この赤子の存在が友を繋ぎ止める唯一のものだと思ったからだ。だが友は硝子窓から暗い外を見つめ続ける。
「……まだ考えていない」
友は数時間ぶりに口を開いた。名が無ければ不憫だろうと言いそうになるのを、バルゴートは堪えた。それどころではなかったのはわかっている。バルゴートではそれほどの悲しみを共感することすらできなかった。
腕の中の赤子は泣き止む様子がない。腹を空かせたのかもしれないが、与えられる乳はない。本当ならこの赤子も暖かな腕に抱かれて、腹のふくれるまで乳を貰えただろう。
すると友が壁にもたせていた身を起こした。その手には剣がある。そのまま扉へ向かおうとするのでバルゴートは止めた。
「どこへ行く」
バルゴートはドアの前に立ち塞がった。男の暗い目はバルゴートではなく、その向こうにある何かを見ているようだった。
「今夜は満月だ。あいつらは満月の夜に暴れる」
それはこの村の周辺に出没する魔物のことだった。その魔物は知能が高く、友とバルゴートが力を合わせて挑んでも太刀打ちできなかった。そして魔物は満月の夜に一層暴れる。前回の満月の時は、村の半分が家屋を潰された。
「だったら私も行く」
友が勇者になった日からバルゴートはずっと一緒に旅をしてきた。友が行くということは、バルゴートの同行を意味している。しかし友は首を横に振った。
「お前まで来たら誰がその子を見るんだよ」
そこではじめて友は我が子を見た。友の指が赤子の額を撫でる。だが赤子はそれどころではないらしく、顔を赤くして泣き続けていた。
「だったら私が行く。お前はこの子と一緒にいろ。今夜くらいは」
バルゴートは奥の部屋に続く扉に視線を向ける。その向こうにいる存在と、最後の時間を過ごすのはバルゴートではなく友であるべきだ。だが友は手にした剣を強く握った。
「今夜は満月だ。オレが行かないと」
「だったらこの子を見てくれる人を探そう。お前一人では」
「みんな怯えて扉さえ開けてくれないさ」
苦笑する友の目に悲しみが滲む。今夜が満月でなければ、友は大事な人を失わずに済んだのかもしれない。昼間でさえ村人は戸を締め切って、いくら呼んでも出てこなかった。
魔物の恐ろしさを友は充分に知っているはずだ。力でも魔法力でも魔物は二人を大きく上回っている。
バルゴートは友を止めたかった。友が行かなければ満月に刺激された魔物が村を襲うだろう。死人が出るかもしれない。
だが、こちらが頼っても助けてくれない相手を守る必要があるのか。もし村人がバルゴートたちに手を貸してくれていたら、友は愛する人を失わずにすんだかもしれない。そんな者達を守るために、勝てる見込みのない相手に命を賭けて挑むほどの価値があるのか。
「殺されるぞ」
我が子を一人残して死ぬ気なのかと、バルゴートは友を睨め付ける。しかし友はバルゴートに笑みを向けた。
「相手の強さによって出したりひっこめたりするのは本当の勇気じゃない」
己の悲しみさえ覆い隠して、友は正しく勇者だった。
友はバルゴートの肩に手を置くと、有無を言わせないように扉の前から退かせた。止められないのだとバルゴートは理解する。
「……せめてこの子に名前を」
扉に手をかけた友が考えるように動きを止めた。だがそれは一瞬で、扉は開く。夜風が友の銀髪を揺らした。蝋のような頬に、少しの笑みが浮かぶ。
「マトリフ」
友は微笑んだまま夜の闇に消えていった。そして二度と帰らなかった。