「っあ、!」
考え事をしていた所為で気が散漫していたのだ。はたと気付いた時には降りていた階段から大きく足を踏み外していた。手の届く範囲に手摺りも無く、瞼をキツく閉じた瞬間。腰回りに何かが触れ、身体が強く後ろに引っ張られた。身体には痛みどころか衝撃すら襲ってこず、恐る恐る瞼を開き己の腹に視線を落とせばドコか見覚えのある腕が腹に巻き付いていた。
「ッ!?」
一体何が起こったのかはこの腕を見れば明らかだろう。階段から足を踏み外し転倒しかけた自分の身体を、"彼"が後ろから強く引いて助けてくれたらしい。どくどくと騒がしい心臓と未だ混乱している頭を落ち着ける為に深呼吸をしてから後ろを振り返ろうとしたのだが、自身に巻き付いたままの腕が一向に離れる様子が無く、それに加えて背中が相手の身体とぴったりくっついていて振り向こうにも身を回せず、兎に角顔だけでもと思い後ろを見やれば、仮面をつけた従者がそこにいた。
「っ……あ、あの…! 助けてくれてありがとうございました。もし身体を支えてもらっていなければ今頃階下まで転げ落ちてるところでした……本当に、助かりました」
顔を向けた先、思いの外至近距離に従者の顔があって驚きのあまり一瞬声が詰まりかけたもののしっかりと相手の顔を見つめながらお礼を告げれば、そこで漸く従者の腕が離れていった。正直、背中に感じた体温がとても懐かしいものに思えて別の意味でも心臓が騒がしかったのだが、腕から解放され男の体温が離れていったので小さく安堵の息をついた。
すると、向かい合った従者から痛いほどの視線が顔へとつき刺さる。視線といっても仮面越しなのだが。無言の眼差しから謎の圧を感じとり思わず視線を泳がせた。見つめられること数秒経ったのち、相変わらず何も発することのない従者は只視線だけを浴びせてからその場を去っていった。
遠ざかるその背を見つめ、ボクはそっと"男"の名前を口にする。囁くように紡がれたそれは、誰の耳に届くこともなくふわりと漂い消えていく。先程触れた時に感じたぬくもりが、離れてもなお背に残っている感覚に胸がざわついて仕方なかった。今思えば、アレはまるで後ろから抱き込まれた様な体勢だったのだ。恐らく彼は偶然居合わせたから助けてくれたのであり他意などないのだろう。それでも、しっかりと抱き込まれた逞しい腕の感触やぬくもりがいつかの記憶を思い出させ、ボクの胸をじりじりと焦がすのだ。
今の彼はバンジークス卿の従者であって"アイツ"ではない。だが記憶がなくともボクの事を無意識にも認識している様に感じた。
ふと記憶の中で親友がボクの名を呼びながら微笑む姿が浮かんだ。
(……亜双義。はやく、記憶を取り戻したお前に会いたいよ…)
視界から従者の姿が完全に見えなくなるまで立ち尽くしていたボクは、今度はきちんと足元に注意を向けながら足を踏み出しゆっくりと階段を降りていくのだった。