如月12月1日
外を歩くにはまだ上着がいる。暖かくなんてまだ全然なくて、襟巻と手袋も必要で吐く息だって白い。だけどこのところ、僕は確かに過ごしやすくなっていることに気が付いた。春が来るのだ。まだ遠く、景色にも匂いにも感じられないけれど、季節は変わりつつある。
だとすればやらなければならないことがあった。
「白菜、ネギ、豆腐、椎茸、しらたき、その他諸々。いや別に俺は構わねぇけどよ、もうちょっとこう、量だとか段取りを考えてだな……こりゃ当分鍋続きだぞ」
僕が買ってきた具材たちを見て六は困っているようだった。
「大丈夫だって。飽きたらカレー鍋にしてさ、気分を変えればいくらでも食べられるよ。ちゃんとチーズも用意してあるから、〆をリゾットにだって出来るよ」
「こないだ先に飽きたって言ったのはお前だからな?」
「それはそれ、これはこれだよ」
鍋を食べるなら寒いうちがいいじゃない。とっておきに温まって、幸せになるんだ。
2月2日
そのつもりがないのに早く目が覚めた。朝はまだ寒い。寒いというか冷たい。布団から出たくないのに、また眠る気にもなれない。
家の中に起きている気配があるのは当然六だ。まだ朝餉の香りはない。そこから大体の時間が分かって、眠らないけど目を閉じる。庭を歩く音がする。彼の日課の朝の鍛錬だ。
生きている、人の音がする。
寒いことを覚悟して一気に布団を剥いだ。あっという間に冬の空気が身を包む。布団のぬくもりの恩恵が消えないうちに急いで半纏を羽織って、これもまた寒さを承知で障子を開ける。
そこには当たり前に六がいた。
僕が来たって少しも集中は乱れない。足が、冷えるなぁ。そう思いながらぼんやりと背筋の伸びた姿を見た。
今日は朝の支度を手伝ってあげよう。
2月3日
「あれ? 今年はお寿司は無いんだ? えっと、えほーまき?」
「あーあれな。混んでたから諦めた」
「うわ、いい加減」
六はそれなりに縁起を担ぐし、こういう年中行事も律儀にやるのに時々こんな風だ。
「いいんだよ、あれは最近の習慣だから」
「そういうもんかい」
「あと今年は落花生にした」
「落花生? なんで?」
「北の方じゃ煎り豆よりこっちなんだとさ。それに掃除が楽だろ」
色々あるんだなぁと僕は感心する。この国は長細くって場所によって気候も違うからこういった古い物事の類は所によってやり方や使うものまで違うというのを最近知った。
六も僕と暮らすまでは自分のところの方法ひとつだと思っていたみたいだ。僕が色々聞いてあれこれと言うから彼の方も他の地域のやり方を知ったんだとか。
「こういうのは気持ちが大事なんだよ」
「そうだねぇ。それじゃあ気持ちを込めまして」
鬼はー外、福はー内。
投擲した豆のばらばらと落ちる音。盛大に散る様子に六は少しだけ呆れ顔。
「ガキかよ」
鬼はぁ、外。福はぁ、内。
あまり気持ちの入っていなさそうな声で足元と玄関先にぱらぱら豆が撒かれる。
掃除は楽そうだ。
「よし、それじゃあ年の数だけ……」
「お前はやめとけ。腹壊すぞ」
「うん、君が食べるのを見ているよ」
早速手元のひとつを剥いて、六の口に押し付けた。
2月4日
庭先で六が人の名前を呼んでいるようだったので顔を出した。
「チヨ、随分と久しぶりだな。元気にしてたか」
そんなことだろうと思ったけれど、そこに人の姿はなく、六の視線の先には小さなお客、白黒ブチの猫がいた。
「おや、マカロンじゃないか」
僕にとっても知り合いのそいつの名前を呼ぶとしっかりこっちを見てにゃあと鳴いた。餌をもらえる相手にきちんと媚びを売る、賢い猫だ。
そして六も僕を見た。
「なんだって?」
「ほら、この額のところにマカロンがあるように見えるだろう?」
野良猫が通い先ごとの名前を持っているのは自然なことだ。僕はこれにマカロンと名付けていた。
「君にとってはチヨちゃん? 随分とかわいらしい名前だ」
「最初は藤千代ってつけてたんだが、呼ぶのが面倒になってな」
「へぇなかなか古風だ」
彼は背中の模様を藤に見立てたのだとか。
藤千代、と試しに呼ぶとブチ猫は何の反応も返さなかった。
「忘れられてら」
「薄情だな」
餌がもらえないと踏んだのか、もう僕らに興味がないようだ。自由にさせてやろう。
「スマイル。……スマ」
「ん?」
「いや、やっぱりスマイルだな」
六は何か納得したようだった。
好きなように呼べばいい。猫みたいに略して呼んだってちゃんと返事をしてあげる。
2月5日
まだそんなところに、と廊下に見かけた落花生を拾い上げた。節分の豆まきの後、特に翌日明るくなってからしっかり確認したはずなのにまだ豆が出てくる。
しかも不思議なことにそこは見たはずだというところから現れるのだ。神隠しにでもあっていたのだろうか。
今年は落花生にしたおかげでこんな風に見つけても衛生的に食べられる。食べ物が粗末にならないというのは良いことだ。
殻を割って中身を口の中に放り込む。年の数には全然足りないけれど、僕もそれなりに食べたんじゃないかしら。
そうだ、この前、余り物のお勤め品としてそのまま投げられるサイズの小袋が売っているのを見かけたから、来年はそれを提案してみよう。
もしかしたらその時には忘れているかもしれないから、今のうちに六にも言っておこう。
手の中に殻を握り込んで、居間へ向かった。