静かに彼女は目を覚ました。
カタストロフィ号最深部、ESP制御中枢を担う伊‐八号の脳が接続された機械室の暗がりを彼女自身が光源となって仄かに照らす。壁面と床を這うケーブル。最先端と旧世代の遺物が接続された機材。環境音のみが反響する空間。人生に類する長い時間を静かに守られてきたもの。
彼女は考える。
自分がここにいる理由。自分がここへ来た理由。そして、この世界に生まれて、生きている理由。それはたったひとつの願いのためだった。そのひとつは果たされた。それから――。
――私、は……。
意識がはっきりとしない。姿形もどうなっているか、否、どうあるべきかが定まらない。果てしなく大きくなってしまったようで、限りなく小さくなってしまったようで、元の形など存在せず偽りだったことだけを知っている。多くのことを知っている。ひとりでは到底叶えられない願いを、祈りを、失ったものを得るために翼を広げてありったけを掴んで持ってきた。しかし今はもっと別のことを知っている。知らされている。知ることが出来る。
ひときわ強く空間の歪みを感知した。瞬間移動によるものだ。
「目覚めたか。気分はどうだ」
銀髪、学ランの少年。パンドラの創設者。どの時間軸でも変わりない姿が彼女の心に像を結ぶ。
――私は。
ずっと前からそうだったように、彼女はとある女性の似姿をとった。未来の――破滅の女王・明石薫。フェザーと呼ばれた彼女はそれであり、同時に彼女たちであり、彼らでもあった。
「んん……頭がぐるぐるして気持ち悪い……」
形を得たことで混沌とした思考が収束していく。
床に座り込んだフェザーは記憶を辿った。黒い幽霊との対決、悠理の奪還、伊号との別れ、それによって得た白紙の未来――そして兵部とチルドレンの提案でレアメタルのイヤリングに意思を定着させて……カタストロフィ号へ行くことになった。
伊号のポッドは長い間、超能力者の意思を束ねてきたから役目を終えて存在が不安定となったフェザーの格納庫として最適である、というのが皆本と兵部が協議した結果、だったようだ。
確かにフェザー自身、以前とは違う自分であることを感じる。
うつむいて立ち上がれずにいるフェザーを見かねて、兵部は膝をついて彼女の手に触れようとした。透視するためだ。
「――!」
しかしその手は彼女をすり抜け、床に触れてしまう。
「ごめん、実体を作る余裕なくて……」
「そうか、今の君は思念体か」
フェザーは頷いた。九具津の作ったマテリアル体は再びレアメタルに思念を定着させる際に捨ててしまっていた。今の姿はESPで見せる幻影、幽霊のようなものだ。
「なんだろうこれ……頭の中に私の知らない記憶がある。……これはカタストロフィ号の記憶?」
顔を上げたフェザーの瞳が何かを探すように瞬きを繰り返しながら揺れる。思考を読み取る手段を持たない兵部には彼女が何を見ているのか推測するしかないが、視線の先は確かに船の居住エリアに向いていた。
「……伊号と接続したことで彼が束ねていた思念波の残響を受け取ったのか」
「ううん、それだけじゃないよ。この船の船体にあるみんなの想い、伊号自身の記憶も……ちょっと待って……もう少しで私の記憶になる」
姿が変わっても彼女の能力は健在か。
目を閉じて読み取りに専念するフェザーを前に兵部は改めて関心した。
レアメタルは超能力者の想いを宿すことに長けている。それを本体とする彼女は人間の透視能力者よりも思念を受け入れるキャパシティが大きいのだろう。チルドレンを主体として複数の高超度超能力者の人格を宿し、どさくさの中とはいえ虚数空間に飛んだ兵部のバックアップを一瞬で作ってのけた程だ。おそらくオーバーフローという概念がない。
彼女を中心としてゆらぎを見せる念波は穏やかな波間のように揺蕩い、やがて彼女の内に収められた。
「うん……そっか。もう大丈夫」
ゆっくりと瞼を開ける。大きな瞳から一滴の涙が零れ落ちた。
「この船は温かいね。みんなあなたを愛してる」
「――余計なことを」
幽霊のようにすり抜けたはずの手が確かな感触を持って兵部の手の上に重なっていた。念動力と催眠によるシミュレートだ。
いつまでも冷たい床に座ったままでは恰好が付かない。
兵部は彼女の手を引いてゆっくりと立ち上がった。その助けを借りて、浮力を得たようにフェザーは空中へ上がり、伊号のポッドへ腰掛ける。
濡れた目元を拭い、真っ直ぐな瞳で彼女は兵部を見た。
「今日からあたしはカタストロフィ号の意思、フェザー」
この船の過去と現在を守って、そして未来を見届ける。
「よろしくね、京介」
船の最深部、陽光の届かない中枢機械室。中心に鎮座する金属質の冷たいポッド。そこは生まれなかった未来に存在した「女王」の玉座となった。