タイを噛む(おかしい)
クローゼットの中。何度探しても見当たらない。今日は実家の呼び出しで、個人的な会食がある。ネクタイ一つで、既に着用したコーディネートを変更するのも気に食わない。
ブラッドはしばらく考えた後、部屋を出た。リビングに人の姿はないが、湯の香りがする。シャワーから上がったところかと、同居人の部屋をノックした。返事を待たず、扉を開ける。
「貴様、ネクタイを持っていったな。バイオレットカラーのストライプ柄だ」
開口一番に告げると、ベッドで髪を乾かしていた男がきょとん、とこちらを見る。しかし、すぐに思い当たったのか、立ち上がると、クローゼットからネクタイを取り出した。バイオレットカラーの、ストライプ柄。やはり犯人はこの男だったかとため息をつく。
濡れた赤い髪を額に貼り付けて、男――アキラが笑う。
「悪りィ、勝手に借りてた。でも後で返そうと思ってたんだぜ」
そう言って肩を竦め、ベッドに腰を下ろしたアキラに、悪びれた様子はない。差し出されたそれを受け取りながら、ブラッドは嘆息をこぼした。
「返すつもりがないから、貴様の部屋にあるのだろう」
彼がブラッドの部屋から物を持ち出したまま返さないのは、日常茶飯事だ。何度か注意したが「お前だってオレが作り置きしてた飯、勝手に食うじゃねーか」と言われてしまい、口煩くするのはやめた。アキラの悪癖と違い、自分の場合は返しようがないものだし、見当たらない時は大抵彼の部屋にあるので困るほどのものではない。
要するにどっちもどっちなので、不毛な争いは効率的でないと判断したのだ。
受け取ったネクタイを見る。大雑把な彼が借りた割には皺ひとつない。正しい管理がされていたようだ。過去に言い聞かせた教えが守られているのは成果として褒めるべきかどうか。ブラッドは胸中で唸る。
散らかった部屋から分かるように、元来のだらしなさは十年経ってもあまり改善されていない。しかし、ブラッドの言いつけにだけは忠実なのだ。おかげで叱るに叱れないし、褒めるに褒めることも出来ない。一体この要領の良さと強かさはどこで覚えてきたのやら。おそらく研修期間後に配属された先で、どこぞのものぐさなメジャーヒーローを真似るようになったのだろう。
ネクタイを首へと回しながら、可愛げのなくなった元部下について考えこんでいると、手を引っ張られた。ブラッドはベッドへと膝をつき、大人びた顔を見せるアキラを見る。
「なぁ、ネクタイ。結んでやろうか?」
意地悪く笑みを浮かべる男。付き合いが長くなると、こうして人の思考を読めるようにもなってくる。すぐに調子に乗るところは変わらない。ブラッドは片眉を吊り上げ、冷めた視線を向けた。
「出来るのか?」
「散々練習したことあるだろ」
「十年も前の話だ」
ネクタイを引っ張られ、顔が近付く。長い月日の中で深みを増したイングリッシュアイビーが、挑発的に細められる。
「天才のこのオレが、忘れるとでも?」
わざとらしく小首を傾げる。シャワー上がりで下着一枚の肉体から、誘惑が滲み出る。ブラッドのスーツ姿を見て狼狽えていた少年が、今から出かける恋人相手に駆け引きを始めるようになるとは。随分成長したものだと、素直に感心した。
このまま誘いに乗ってセックスに雪崩れ込んでも困るのはブラッドのみ。今日の外出がそれほど重要でないことを理解しているからこそ、強気に誘ってくる。こんなふしだらな男に育てた覚えはないと思いつつ、彼は忠実な犬のようであり、気まぐれな猫のような男だ。おそらく深い考えもないのだろう。例え、ここで誘惑を振り払ったとしても、問題はない。鳳アキラという男は、考えはするが、思考で動く人間ではないのだ。
ブラッドはベッドに座り直すと、誘惑から背中を向け、小さく振り返る。
「なら、やってみろ」
乗ってくるとでも思ったのか。驚いたように目を瞬かせていたアキラだったが、相手にその気がないことを知ると、肩をすくめてブラッドの後ろに膝立ちする。
「噛み跡でも付けて遅刻させりゃ、面白いと思ったのにな」
「悪趣味だ」
流石に聞き流せない。ブラッドは眉を顰めた。既に引退しサブスタンスが失われた肉体は、現役時代と違い、歯形も鬱血痕も残る。アキラはそれが楽しいのか、引退後は痕を残すことに積極的だ。
首の後ろから腕が伸び、ネクタイを掴む。入所時代より逞しくなった、男らしい腕。それが細い布をつまみ、器用に結んでいく。迷いのない所作に、思わず感嘆の声が漏れた。
「制服は堅苦しいから今も締めてねーけど、市長に会う時とか、たまにスーツ着る時とか、一応は自分でやってんだぜ」
一瞬にして完成された形。首元を美しく飾るネクタイが、シックなスーツに彩を与える。ブラッドは感慨深さを覚えながら、指先でストライプをなぞった。
「上出来だ」
「だろ?」
素直に褒めれば、すぐ横で顔を出したアキラが歯を見せながら笑う。しかし、幼さの残る表情は、すぐに背後へと戻っていく。代わりに覚えた耳に薄い、皮膚の感触。
「っ、おい」
「耳の裏だったら、バレねーだろ」
ウワキボーシだ、と思ってもいないことを言うメジャーヒーロー。ブラッドは未だ肩から伸びていた手を掴むと、仕返しとばかりに左手の薬指に口付けた。
(……早く)
お前にも、痕を残してやりたい。自分の体に残る彼の無邪気な痕跡を見る度に、まだかまだかと想いが募る。十年の差は大きい。ブラッドは悔しさを誤魔化すように、唯一、アキラに残る自分の痕に歯を立てた。
ガチリ、と硬い石が、音を鳴らした。