静かなる配慮 扉が開く静かな音。蝶番が小さな軋みを奏でる。店の主として、それすらも聞き逃してはならない。私はすぐに振り返った。
そして、馴染みのある顔に、思わず頬を緩める。
「いらっしゃいませ……ブラッド・ビームスさま」
ニューミリオンのメジャーヒーローである彼は、当店「ビスポーク・テーラー」のお得意様である。
失礼する、と片手をあげた彼は、店内へと進むことなく、背後を一瞥した。
私も釣られて視線を動かすと、ビームスさまの影から覗く赤い髪。彼のことも知っている。私は微笑みかけた。
「鳳アキラさまも……またお越しいただき、ありがとうございます」
「お、おう……」
ビームスさまに仕立ててもらったスーツ。まだ慣れないのか、十八歳の少年は、緊張した様子で背筋を伸ばしている。
「何をしている。立っているだけでは始まらないぞ」
「わ、分かってるよ」
ビームスさまの言葉に反発しながらも、共に店内へと進む鳳さま。
二回目ともあってか、周りを見回すことはしないが、居心地は悪そうだ。この空気に慣れないのだろう。この店を立ち上げた父に、初めて連れてこられた時を思い出し、私は胸中で小さく笑った。
裁断機のオイル、アイロンプレスの匂い、チャコの粉。生地に囲まれて出来る香りのハーモニーは、まるで別世界に来たような錯覚を起こす。
この場を「息抜きになる」と言えてしまうビームスさまが特別なのだ。
――しかし、我々にとって、これほど嬉しい賛辞もない。
私は二人に近付いた。
「本日は、どのようなご用件でしょうか?」
「彼のために、コートをあつらえて欲しい」
「かしこまりました」
メジャーを取り出していると、ビームスさまに肘を突かれた鳳さまが、渋々と前に出る。
私は早速採寸を始めながら、くすぐったさに身を捩らせる彼に尋ねた。
「デザインや色味、生地のご希望はございますか?」
「へっ? あ、あー……う、うぅ、ブラッド……」
「……今回はチェスターコートをベースに。暑がりなので、カシミヤは避けたい。色は黒かネイビー。高級感を損なわせずとも、軽やかなものを頼みたい」
「ではウェザークロスはどうでしょうか」
「ギャバジンではなく?」
「チェスターコートをベースにするなら、ウールが定番ですが、どうしても見た目や生地の重みが出てしまいます。以前来店した際にお聞きした希望から考えるに、ウェザークロスの方が彼には合うと思います」
「そうか。ならそれで」
「代わりに、襟のデザインや裏地で高級感を出しましょう。それなら軽やかかつ、シックに仕上げることも可能かと」
今回も話についていけないのか、鳳さまは私とビームスさまを交互に見る。
こればかりは知識と慣れなので、仕方ない。
「それでいいか?」
「えー、ああ……ん」
鳳さまは頷くも、どこか不満げな様子だ。差し出がましいとは思いつつも、私は口を開いた。
「……良ければ、サンプルの試着をしながら、生地を見てみませんか? 特徴などは私の方で説明させていただきますし、鳳さまがお気に召すものがあるかもしれません」
打診すれば、自分に話が振られるとは思わなかったのだろう。狼狽えながらビームスさまを見る。
「えっ、あ……」
「折角の機会だ、勉強してこい。……時間を取らせてすまない」
「いえ、それでは鳳さま、こちらへ」
私は様子を見ていたスタッフに視線を送り、鳳さまを試着室へ案内する。
「こちらがチェスターコートです。コートとしては王道かつ定番ですが、多彩なアレンジも可能です。……今、鳳さまが着ていらっしゃるのはピーコートでしょうか。ビジネスにもカジュアルにも着こなせる、良いコートだと思います」
「あー、うん。持ってるやつで、一番スーツに合いそうなもの……つか、これでもいいんだけどよ、ブラッドがうるせーから」
そう言ってコートを脱ぎ、サンプルに袖を通す鳳さま。口調は不満げだが、以前来店した時よりも表情は穏やかだ。
緊張をほぐすために雑談を交わしていると、スタッフが生地のサンプルを持ってきた。その種類と色の豊富さに、鳳さまは感嘆を漏らす。
「すげ……こんなにあったら選べねーよ」
「目に留まったもの、直感でいいのですよ」
そう言われて気が楽になったのか、鳳さまは気になる色や素材に触れていく。けれど、何点か選んだあと、私をおずおずと見上げてきた。
「な、なぁ、がばじん? って、どんなやつだ?」
「? ……あぁ、ギャバジンですか。トレンチコートに定番の素材です。こちらもとても良い素材ですよ。チェスターコートなら、コットンよりもウールをオススメしております」
ビームス様の言葉が気になっていたのだろう。
サンプルを渡すと、難しい表情で考え込む。
「……もしご要望があれば、鳳さまの意見をお聞かせください」
鳳さまは私を一瞥すると、ゆっくりと首を横に振った。
「やっぱ分かんねーから、今はいい。とりあえずブラッドが言ってた通りに頼むわ。自分で決めるのは、もうちょっと勉強してからにする」
その目に、諦めや無関心は見られない。知ろうとしているのだろう。ビームスさまのオーダーから、学ぶ気なのだ。
私は思わず頬が緩みそうになり、慌てて引き締める。手軽に量産が可能となったこの時代で、未だビスポークに拘る者は少ない。そんな中、若き少年が興味を抱いてくれたというだけで、喜びが溢れてくる。
私は鳳さまの試着をチェックしながら、彼の背中に回った。
「襟周りはどうでしょうか?」
「あー、なんか、後ろのところが変な感じ…」
そう言って、鳳さまが後ろ髪をかきあげる。決して長くはない襟足。その隙間から現れた――。
「…………」
「……なんか変なこと言ったか?」
「……いえ、鳳さまは、首回りがしっかりしていらっしゃいますので。採寸しながら調整しましょう」
私は努めて平常心を保ちながら、細かな採寸を始める。鳳さまはすっかり緊張が解けたのか、世間話を始めた。
「そうそう、こういう高そうな店って言うと、ブラッドに連れていかれるフレンチがあって、昨日も食ったんだけど、フォアグラ? って言うのか? あれさ、何が美味いのかまだ分かんねーんだよな」
元々話すことが好きなのだろう。昨夜宿泊したホテルの部屋について身振り手振りで子供のように話す鳳さま。けれど「それ」を見てしまった私は、彼が肝心な部分をぼかしたとしても、全て理解してしまう。
ビームスさまがこの店に彼を連れてきた意味。百万以上するフルオーダー品をプレゼントする意味。コートを仕立てにきた意味。
鳳さまは、その意味に秘めた、彼の愛情の深さを分かっているのだろうか。
例え肉体で繋いでも、真の意味ではこれからがビームスさまにとっての本番なのだ。そう気付いて、私は胸中で彼にエールを送った。
――ついでに、生え際近くにつけられた複数の鬱血痕が分からぬよう、こっそり襟足を整えておいた。