甘く優しい飴 全てが終わった。
いや、正確には何も終わっていない。むしろ始まりとも言えるのだが、ブラッドにとってはかけがえのない親友たちを救い出すことが出来たことで、肩の荷が一つ、おりたような安堵を覚えていた。
これが正しいのかは分からない。だが、最善は尽くしたはずだ。
それでも結果に至るまでの徒労はブラッドを心身共に疲弊させ、罪悪感が腹の中で消化しきれずにいる。二人からもらった感謝の言葉が唯一の救いだろう。
感情を殺してまで選択した道は、決して楽なものではないと分かってはいたが、貫き通すにはまだ未熟だったようだ。
つまり、一言で表すならば、疲れた。
今夜ぐらいは書類から視線を逸らし、深い眠りについても許されるだろう。部屋に戻ったブラッドは、共有スペースに誰もいないことを確認すると、大きなため息を一つこぼした。それと同時に、シャワールームの方から扉の開く音が聞こえる。
「おー、おかえり。全部終わったのか?」
振り返れば、赤い髪を濡らしたアキラがタオルを片手に立っている。ブラッドはどこか気まずさを感じながらも口を開いた。
「まだやるべきことは残っているが……今日は店仕舞いでいいだろう」
彼には日中、自分の胸の内を見透かされたような言葉を投げかけられた。それに救われながらも、十歳も歳の離れた彼の言葉に心を撫でられたことはどこか気恥ずかしくもある。
アキラは特に興味がなかったのか、相槌を打ってブラッドの横を通り過ぎると、ソファーに座りテレビを付けた。すぐに表示されたメニュー画面に、なるほど、ゲームの途中だったのかと納得する。
「先に髪を乾かした方がいい。風邪をひく」
「うっせぇな。テメェまでウィルみたいなこと言うんじゃ……」
ブラッドの忠告に、いつもの反抗的な言葉が返ってくるものの、途中で何かに気付いたのか、ピタリと止まる。
そして、唇を突き出すと、ぶっきらぼうに言い直した。
「後で、ちゃんと乾かす」
どんな心境の変化か、気まぐれか。彼の真意は分からないが、少なくともブラッドに気を遣ったことは伝わってくる。
やはり本質は優しい男だ、とブラッドはその横顔を見つめ、自室に入ろうと足を動かした時だった。
「今までお疲れさん。よく頑張ったよな。……悔しいけど、お前のそういうとこ、すげーって思う」
小さいが、はっきりと聞こえた言葉。それがブラッドの心に触れ、優しく撫でる。
ブラッドは疲れていた。
安堵と喜びを抱きながらも、それまで傷つかなかったわけではない。孤独の中で自分の選択を迷ったこともある。それでも、例え相手に誤解されたとしても、最善の結果を求めて歩いたその道は間違ってないと思いたかった。結果を感謝されこそすれ、過程を認めてくれる者はいなかった。
それをまだ未熟な十八のルーキーが、あっさりと受け入れたのだ。
ブラッドは立ち止まると、恥ずかしいのかこちらを見ようとしないアキラに向かって口を開いた。
「貴様は、人の弱味を軽率に話す男ではないと思っている」
「……は? なんだよ、急に」
「口の軽い男ではないと認識していたが、違うのか」
「いや、マジで意味分かんねぇ」
ソファーに近付いてきたブラッドに、アキラは顔を引きつらせて端に逃げる。そのおかげで空いたスペースにどかりと座り込むと、ブラッドはテレビ画面を見つめて言った。
「俺は聞いている。答えろ」
「えぇ……知られたくないことを話すほどデリカシーがねぇわけじゃないと、思ってる、けど」
尻すぼみになるあたりがアキラらしい。口車に乗せられても貫き通せる自信がないと分かっているのだ。
ブラッドはその返事を聞いて頷くと、コントローラーを両手に固まっているアキラの体に頭を潜り込ませた。
「おわっ、ちょ、なんだよ……!」
当然驚いた彼は立ち上がろうとする。ブラッドは膝を掴むことで阻止し、その上に頭を乗せると、ゆっくりと体重を預けた。
サブスタンスの影響か本来の体質か、高い体温は優しい温もりを与えてくる。突然ブラッドの膝枕を強要されたアキラは、困惑した目を自身の膝に転がっている頭に向けた。
「え、マジでなんだよ。怖えよ、やめろよ。ブラッド? おーい、ブラッド? ブラッドさーん?」
声をかけるも返事がない。本気を出せば蹴り落とすことは可能だが、相手があのブラッドという非現実的な状況に、アキラはどうしたものかと頭を抱えた。
「なぁ、せめて何とか言えよ。こんな姿オスカーやウィルに見られたらーー」
困り果てたアキラは仕方なくコントローラーを横に置く。そして、ブラッドの顔を覗き込もうとした時、掠れた声が鼓膜を揺らした。
「……疲れた」
聞こえるか聞こえないかほどの小さな一言は、大きなため息のあと、もう一度繰り返される。
「安心したら、少し、疲れた」
安堵と喜び。最後に占めたものはそれだったが、決して消えない疲労と傷。張り詰めていたものが一つ緩んだだけで、どうしようもなく体が重い。
だから、今日は休みたかった。今日ぐらいは休んでもいいだろうと、自分を甘やかした。
そんな中で投げかけられた労いは、ブラッドにとって自分を認めてくれた、甘く優しい飴である。舌で転がして思い出す度に疲れを癒してくれる、拠り所。
自分の選択に間違いがないとは言わない。けれど、ブラッドを味方する者は皆「ブラッドだったら間違いはない」と言う。そして自身も、口では「己の選択に間違いはない」と言わざるを得ない。
自信はある。だが、不安もある。その選択の末の結末に自分の感情を後悔させてしまったら。もし、取り返しのつかない間違いだったら。
そんな不安すらも全て殺して歩くしかなかった道の先。手繰り寄せた、不安定でも確かな正解の糸。必死で掴んで、ホッとした途端に歩けなった体に差し出された飴は、その甘味で彼の疲れを癒す。
今日ぐらいは自分を甘やかしてやりたいと思った。だから、プライドも羞恥も捨てて、ブラッドは今自分を労ってくれた相手に甘えているだけなのだ。
吐き出した言葉に沈黙が返ってくる。嫌だと、気色悪いと押し退けられたら黙って自室に向かおう。そう考えていたブラッドの後頭部に、温もりが落ちてくる。
「お前って、なんつーか……ま、いいや。色々大変だったもんな。明日もメンターリーダー様は変わらず忙しいんだし、今日ぐらいはゆっくり休んじまえよ」
そう言って、アキラはブラッドの頭を撫で続ける。幼い頃にされ慣れていないのか、不器用な動きに子供のような体温は、まるで本当に幼子があやしているかのようだ。
「それで膝枕っつーのも、どうかと思うけど。お前、彼女とかいねぇの?」
「もしいても、構ってやれず今頃捨てられているだろうな」
頭を撫でられながら雑談を振ってくるアキラに、ブラッドは心地良さを感じながら目蓋を下ろした。
女性のように甘い匂いも、柔らかさも、安心感もない。けれど、とても居心地がいい。
「女に捨てられるブラッドとか超ウケんだけど」
珍しい状況に戸惑っていたアキラだったが、慣れてきたのか調子を取り戻す。
「仕方ねぇな。だったらこの鳳アキラ様が、お前の疲れを存分に取ってやるぜ」
「そうだな。お前なら気兼ねしなくていい。これからも頼らせてもらおう」
げっ、と声が聞こえてくる。姿は見えなくとも、今頃己の失言に顔を引きつらせているのだろう。ブラッドは小さく笑った。
きっとこの先、自分の味方をしなくとも寄り添ってくれるのは、この男なのだろう。熱血で猪突猛進に見えて、一度ブレーキをかけるとどこまでも冷静になる。赤の下で曇りなき色が調和している。打算も疑いもない中立の目が、真っ直ぐこちらに向けられる度、心が和らいでいくのを感じる。
とはいえ、すぐ鼻を天狗にさせる彼が調子づいても後が面倒だ。
ブラッドは振り返ると、頭上で既に鼻高々なアキラの顔を掴み、引き寄せる。そして唇が触れるか触れないかの距離で、優しく言った。
「アキラ、これからもお前に甘えていいだろうか」
ピタリ、と。
まるで石になったかの如く固まった分かりやすい反応に、ブラッドは思わずくつくつと喉を鳴らす。手を離してやれば、顔を上げたアキラが全身を赤く染めてこちらを睨みつけてきた。
「て、テメェ……っ」
「悪いがお前に構っている暇はない。……なぜなら、鳳アキラ様が俺の疲れを取ってくれるらしいからな」
今にも蹴り落としそうな勢いのアキラにそう言えば、崩れた膝が慌てて閉じられ体勢を整える。しかも、また頭を撫で始めてくるのだから、素直で優しい男だ。
「くそ、くそ……さっさと女作って甘えに行けよ」
まだ赤い顔で悔しそうにぼやく姿を横目に、ブラッドは徐々に訪れた睡魔にうつらうつらと瞬きを繰り返す。
「いや……お前が、いい」
春の太陽のように温かく、夏の太陽のように鬱陶しくも、秋の太陽のように心地良く、冬の太陽のように恵みとなる。まだ未熟な光も、いつかは皆を照らし続ける恒星となるのだろう。
そうなれと願いながらも、どこかで自分だけのものであって欲しいと燻る想いを抱えて、ブラッドは目蓋を下ろし、規則的な呼吸を繰り返した。
少しして、それが目を閉じただけではなく、寝入ったことに気付いたアキラは「ウソだ……」と赤い顔を途端に青くさせる。
「マジかよ、本当に寝たのか? 意味わかんねぇこと言って逃げるなんて卑怯だぞ、おい、ブラッド。……なぁ、寝るならせめて自分の部屋に行けよ。オスカーとウィルがトレーニングから帰ってくるんだって。オレが言わなくても見られたら意味ねえだろうが。おいってば。おーいーブラッドー。頼む、起きてくれ。……マジで起きねぇ。最悪だ。あー……どうすりゃいいんだよこれ。結局髪も乾かしてねぇんだぞ」
どれだけ呼びかけても反応はない。アキラは降参した。ここに至るまでの状況で、穏やかに眠るブラッドを強引に起こすことなど出来るはずがない。
二人に見られたとしても、オレは悪くないからな。
そう胸中でぼやきながら、アキラは背凭れに上半身を預けて顔を両手で覆ったまま、オスカーとウィルが帰ってくるまでずっと小さく唸り続けていたのだった。