シュガーステップでミルクのワルツ ただの気まぐれだった。
部屋に戻ってからも、真剣にタブレットを見つめているので、メンターリーダーは大変そうだな、と。たまには労ってやってもバチは当たらないだろうと、過去に何度か見たオスカーの行動を思い出して、キッチンに立った。
コーヒーマシンは使えないので、ドリップ用の道具を取り出す。インスタントもあったが、何故か豆から淹れてやりたくなった。
コーヒー豆をミルで挽き、ドリッパーにペーパーフィルターを被せる。
慣れないことをしている自覚はあった。沸かせた湯を注げば、コーヒーの香りが広がる。
(これじゃ、すぐバレるな)
思いながらソファーを見れば、気付いたのかピクリと揺れた背中。けれど、振り返らない。
アキラは肩をすくめると、淹れたコーヒーをカップに注ぎ、ブラッドに差し出す。
「ん」
香りの時点で予想していたのか。
驚いた様子もなく、ブラッドはタブレットを横に置くと受け取った。
「お前が淹れたのか?」
「そーだけど……オスカーが前にやってたの、見様見真似で作ったから微妙かもしんね」
徐々に不安が募ってきて、つい柄にもなく弱音が飛び出す。
しかし、ブラッドはカップに顔を近付けると、鼻をひくつかせ微笑んだ。眼鏡の奥にある柔らかなマゼンタが、波のように揺れた。喜んでいる。
集中を解いた警戒心のない空気が、アキラの肌をくすぐる。
「いや、気遣い感謝する」
そう言って一口飲めば、僅かに顰められる顔。
すぐにポーカーフェイスへと戻ったが、失敗だと一目で理解した。アキラはおずおずとブラッドの顔を覗き込む。
「あんまだったか?」
「いや……飲めなくはない」
また一口飲もうとするブラッド。
アキラは慌てて手を伸ばし制した。甲に触れた唇。心臓が煩くなる。テーブルにカップを置いたブラッドが低い声で唸った。
「危ないだろう」
「だってよ……微妙なら飲まなくていいって」
「そんなことは一言も言ってない」
「でも、そんな顔してたじゃねーか」
言い返せば、ブラッドが難しい顔で黙り込む。
お世辞でも美味しいとは言えない出来だったのだろう。気遣われた悔しさに怒りが込み上げる。
「もういい、インスタント作り直すから、それは飲むんじゃねぇ」
「マシンを使う気か?」
不安げに揺れる瞳を見て、アキラはため息を落とし首を振る。
「ちげーよ、前にウィルがココアと間違えて買ってきたインスタントコーヒーが残ってんだ。……最初からそれにすりゃ良かった」
妙な気なんて起こすんじゃなかった。
チームの中では料理が得意な方だから、コーヒーも同じ要領で上手く淹れることが出来ると思ったのだ。
豊かな香りが立った時点では、やっぱオレって天才かも。などと鼻を天狗にしていたが。落胆は拭いきれない。
コーヒーは、簡単に見えて繊細な飲み物だ。温度、分量、タイミング。一朝一夕で身につくものではない。
黒の液体に、情けない自分の姿が映る。
ブラッドへの気持ちに気付いたのは、つい最近のことだ。研修チームとして一年。同居を続け、教えを受け、共に職務を励む中で生まれた愛情。
相手を理解していくことで「悪いヤツじゃない」から「良いヤツ」へ。そして「無愛想な横暴」から「不器用な優しさ」へ。変化していく彼への評価に、ぼんやりと好きだな、と思うようになった。
それが徐々に形を成して、今では唯一無二の感情が、ブラッドを目にする度、胸の中で暴れ回っている。
かと言って、それをどうにか出来る度胸はない。
職場の上司に後先考えず愛の告白をするほど子供ではないのだ。
来年には二十歳になる。彼から教わったポーカーフェイスを拙いながらも本人に実践しながら、アキラは時間と共に不毛な情が消化されていくのを待つつもりだった。
少しだけ減った液体。時間をかけて作ったからといって、手間が味に比例するとは限らない。
カップを取り、すごすごとキッチンに戻るアキラ。しかし、そのシャツの裾を掴んで止めたのは、ブラッドだった。
「……?」
「それは返せ。俺が飲む。代わりに、砂糖とミルクを持ってこい」
そう言ってこちらを見上げる真剣な眼差しは、どこか怒っているようにも見える。アキラはその勢いに押されて、思わずカップを返してしまった。受け取ったブラッドが横目で催促する。仕方なく、砂糖とミルクを取りに行く。
(不味いなら……んなムリして飲むなっつの)
渋々言われたものを持って戻ってくると、ブラッドが手の中のものを奪った。砂糖を少量入れながら、おもむろに口を開く。
「砂糖は少なめ、ミルクは多め」
「……?」
聞き取れた言葉の意味が分からず、アキラは怪訝な目を向ける。深紫の根元、旋風から覗く白い肌。小さな動きと共に揺れて、アキラを見上げた。マゼンタが姿を現す。
「眠気覚ましと集中のためにブラックを飲むことは多いが、本当はあまり好きではない」
ミルクが注がれる。黒い液体が、白と混ざってワルツを踊りながら水面の色を変えていく。
「かと言って甘過ぎるのも苦手だ。苦味の中にまろやかさと、仄かな甘味が混じるぐらいが、丁度いい」
そう言って、改めてカップに口をつけるブラッド。もう表情が歪むことはない。砂糖とミルクで誤魔化せば飲めると、慰めているつもりなのか。アキラの自尊心が撫でられた。
半分ほど減った薄茶色の液体が、テーブルの上でゆらゆらと揺れる。薄いが輪郭のはっきりした唇が、小さく動く。
「初めてコーヒーを飲んでから、ずっと好みは変わらない。だが、自分から伝えたのはお前が初めてだ」
「あー……そう」
眼鏡の奥から熱い眼差しを送られて、アキラは思わず返答に困り頬を掻いた。だからなんだと言うのか。
おざなりな相槌がお気に召さなかったのか、ブラッドが強い言葉で繰り返す。
「覚えろ。砂糖は少なめ、ミルクは多め」
「いや、覚えろって言われても……」
下手なコーヒーを作った後でそんなことを言われても。アキラの自信は既に消失している。
元々気まぐれの行動だ。やる気があった訳でもないので、消極的な姿勢で眉を下げれば、ブラッドは小さく微笑んだ。
「また淹れてくれるのだろう?」
「……は?」
アキラの頭に浮かんだ言葉は「何故」の文字だった。当然のように言うブラッドは、またコーヒーを一口飲む。そして、満足そうに微笑んだ。
「俺は、今後も、お前に淹れて欲しいと思っている」
「お前なぁ。オレは従者じゃねーぞ。そういうのはオスカー……に……」
これ以上好きな相手に醜態を晒したくはない。すげなく断ろうとしたアキラだったが、言葉が止まる。伸びた手が、アキラの腕を掴んだからだ。
「知っている。お前は俺の従者ではない。……なら、なんだ?」
大きな手。長く、美しい中で、確かに主張される節張った男の指が、意図を持って産毛を撫でる。ぞわり、と背筋が粟立った。
「あ、なっ」
「なんだ、と聞いている」
オレはお前のメンティーだ。職場の部下だ。チームの仲間だ。言える関係はいくらでもあるはずなのに、出てこない。
急かされるように腕を引っ張られ、アキラは数歩ブラッドへと近寄った。見上げられる目が痛いほどに突き刺さる。
「ん、なこと……言われても」
耐えきれず視線を逸らす。顔が熱い。彼も気付いているだろう。聞こえてきたため息に、呼吸が止まる。
「もう少し分かりやすく言った方がいいか?」
「い、いらねぇ!」
咄嗟に出た言葉。アキラは自分でも驚いて、口元を手で押さえる。長閑だった空気が、冷たく張り詰めた。
「……」
「…………」
「………………」
「………………ぐ」
オスカーとウィルは不在だ。待っていても、しばらくは帰ってこない。そのせいでお互い後には引けず、続く沈黙。
先に耐えられなかったのは、アキラの方だった。小さく、ぐぅぐぅ、ぐぁぐぁと声にもならない鳴き声をあげ、腕を振り払おうとする。残念ながら、逃がしてはくれないようだが。
瞬きをしているのか疑いたくなるほど、見上げ続けるマゼンタは逸らされない。観念してブラッドの方を向けば、不思議そうにこちらを見つめている。
「俺の自惚れで無ければ、お前も好意を持っていると思っていたが」
「う、うぐ……」
隠しきれている自信は無かった。けれど、こちらが言わない以上、気付かないフリをしてくれる優しい男だと思っていた。
しかし、お前「も」の言葉に、やはりそうだったかと、どこかで納得する。少なからず彼にも好意はあるだろうと、思っていた。そうでなければ、好きになれない。
ブラッドが尋ねる。
「俺のことは嫌いか?」
「んなわけねーだろ」
「じゃあ好きか?」
「うっ、ぐ……ぐぬ……す、好き……だ」
ここで意地を張り、嘘をついても、ろくなことにならないと知っている。だが、言わされたことが悔しくて、アキラは渾身の力でブラッドの手を振り払った。
本気を出せば、流石の彼も目を丸くして、宙を浮いた手に視線を向ける。
「そーじゃなくて! たっ、タイミングってもんがあるだろ、タイミングってもんが!」
触られた場所。まだ感覚が残っている。さすりながら半歩引いてブラッドを睨めば、人を振り回し続ける男はソファーの背凭れに体を預け、残ったコーヒーに口をつける。
「今はその時ではないと」
「そ、そう……だよ」
「……では、お前に合わせるとしよう」
勿体ぶるようにカップが置かれる。真っ白な陶器が、僅かな染みを残して底を見せた。
眼鏡を取り、机上に置く。隔たりを無くしたマゼンタが、濃紫の間からアキラを見て、柔らかい色を纏う。
「で、覚えたのか?」
「ぐ、ぐぬ……砂糖は少なめ、ミルクは多め」
覚えたての言葉。呪文のように唱えれば、目の前の男は嬉しそうに微笑む。
「上出来だ。……このコーヒーも十分美味しかったが、次も期待している」
ビブラートに乗せられた甘い音色。
そう言って渡してきた空のカップを無言で受け取り、アキラは逃げるようにその場を立ち去った。
研修チームのキッチンは、カウンター式のため、隔たりはない。視線が追ってくるかと思ったが、マゼンタはまたレンズ一枚を通してタブレットの画面へ。
シンクに食器を置きながら、横目でその姿を見たアキラはため息をつく。
「あの野郎……」
不毛な感情は、時間で消化するつもりだった。
なのに、悪戯に胃から引き摺り出されては、喉に詰まって呼吸が出来ない。苦しくて、けれど戻ることも出来ず、声になるかならないかのギリギリの場所で、暴れ回っている。
(砂糖は少なめ、ミルクは多め……くそ)
ブラッドの好みが、ぐるぐると頭の中を回っている。最早どちらが先に折れるか競争しているようなものだ。
負けず嫌いのアキラには珍しく、勝てる気のしない駆け引き。期待していると言われれば、嫌でも避けることは出来ない。
(砂糖は少なめ、ミルクは多め……むりだ。これ、ぜってぇ覚えた)
ここまでくると呪いである。アキラは頭を抱えながらも、仕方なく砂糖とミルクのストックを確認するのだった。