二号が一号に憧れた日「ここにいたのか。報告書について聞きたいことがある」
「げっ」
午前のパトロールも終わり、昼食後の休憩中。喫煙室に現れたワーカーホリックに、キースは思わず顔を顰めた。
エリオスタワーの喫煙室は高層タワーにしては三箇所と少ない。その中でも特に見つかりにくそうな、研究部近くの喫煙室を選んだというのに。
それすらも見越しているのだろう。今まで探し回っていた様子もなく、平然としている。キースは喫煙室に入ってくるブラッドを半眼で見ながら、煙草を咥えた。差し出してくる五枚の書類を受け取ると、仕方なく目を通す。
「休憩中ぐらい休憩させてくれっての」
「お前は常に休憩しているだろう」
ぼやけばブラッドの小言が返ってくる。説教が続くのはごめんだと、キースは肩をすくめた。
近年、喫煙者の肩身は狭くなっている。タワーの喫煙室も、充分なスペースはなく、人が三人入るかどうか。四角い箱のような子部屋に、灰皿が一つだけ。実際利用しているのもキースと何人かの職員たちだけ。そんな、非喫煙者は誰もが煙がって入ろうとしないその場所に躊躇なく入ってくるのは、彼ぐらいだ。
「何もおかしいとこなんかねーぞ」
「ルーキー達の報告が不十分だ。能力の向上、その経過に対して『頑張っている』とはなんだ。エレメンタリースクールの作文じゃないんだぞ」
「頑張ってるモンは頑張ってるんだからいいじゃねーか」
そう言えば、ふざけるなと鋭い視線が飛んできた。
「貴様のことだ。途中から飽きてきて手を抜いたのだろう。証拠に、最初の方は良くできている。特に先日の任務については上手くまとめられていた」
叱られているのか、褒められているのか。生真面目な性格は難儀だな、と思いつつとぼけるキースに、ブラッドは暖簾に腕押しだと気付いたのか、ため息をついた。小脇に抱えていたタブレットをキースに差し出すと、ジト目を向ける。
「指摘した部分だけでいい。書き直せ」
「今?」
「今、だ」
「俺、休憩中なんだけど」
「なら残業でも良い」
「……分かったよ」
彼に口で勝てるわけがない。息を吸い、同時にニコチンを肺にため込む。体に重みが生まれる。血液に毒が浸透する。一時の安心を得るためだけの、不毛な行為だ。
キースは口から煙草を離すと、ゆっくりと息を吐いて、空いている方の手を出した。タブレットが渡される。
先程火を点けたばかりの二本目は、勿体ないが消すしかないだろう。少し悩んで、灰皿に燻る先端を伸ばした。しかし、鉄皿の上で潰され、葉屑となるはずだったものは、細く長い指に絡めとられ、攫われていく。
「……?」
「吸い終わる前に書きあげろ」
そう言って吸いかけの煙草を口に挟む姿に、キースは内心珍しいと驚いた。
ニコチン中毒のキースほど常用性はないにしろ、ブラッドも喫煙を嗜むのは知っている。だが、日本に由来するキセルや稀に歴史深い葉巻、水煙草などの、趣ある喫煙具を使った謂わば趣味のようなもので、喫煙常用者の主流である紙巻き煙草を好みはしていない。
自分の前で喫煙する姿を見るのは四年ぶりか。あまり思い出したくない過去を振り返りながら、キースは、壁に凭れ煙草を吸うブラッドを横目に、タブレットを起動させた。すぐに提出した報告書が現れて、最初からそのつもりだったな、とジト目を向ける。
「……不味い」
眉を顰めたブラッドから、四年前と全く同じ感想が呟かれる。思わず笑みが漏れた。
ヘビースモーカーのキースは、煙草をカートンで買い溜めすることが多い。ただニコチンを摂取したいだけの狂った舌では、些細な違いなど分からないが、おそらく古い煙草だったのだろう。言われてみれば、少し湿気ていた気がする。気がするだけで、分かりはしていない。
「お前の高尚な舌には合わないだろうよ」
キースは言いながら、報告書を修正していく。指摘箇所はご丁寧にマーカーがつけられていた。マメな男だ。
煙を感知して、空気清浄機が強い音を立てる。ブラッドの口から、紫煙が吐き出され、吸込口に消えていった。剥がれかけたポスターが、ルーパーの風に揺られ、かさかさと壁を擦る。
庶民向けの煙草など、彼の人間性からは想像もつかない。それでも、壁に寄り掛かって気怠げに喫煙する姿が様になっている。何とも小憎らしい男だと、キースは胸中で毒づいた。
五分――丁度煙草一本分あれば終わる程度の、キースにしてみればどうでもいい書類を直せば、ブラッドがキースの胸元へと手を伸ばした。当然のように箱を取り、二本目に火を点ける姿に、思わず半眼を向ける。
「金取るぞ」
「二十ドルでいいか?」
嫌味か。そう言いたい言葉を飲み込んで、キースはタブレットを返すと、代わりに戻ってきた箱から一本抜き取り、火をつける。報告書を書き直され、煙草を奪われ、とんだ休憩になった。厄日だろうか。そんなことを考えつつ、肩を落として入り口を見る。
その時、扉のガラス部分。縦に細く長いそこから見える廊下に、赤い影を見つけた。タイミング良く目が合い、通り過ぎようとしていた赤い髪は動きを止めると、喫煙室に近付く。
(うげ……)
ブラッドが所属する研修チームのメンティー、鳳アキラだ。
近付いた翠の目がガラス部分から喫煙室を覗き込んで、キースの姿を確認する。そして視線を動かし、思わぬ人物がいたことに目を丸くさせた。
ブラッドは口に煙草を銜えながら修正箇所をチェックしているため、入り口のアキラに気付いていない。キースは、ガラスにへばりついてブラッドを見るアキラとブラッドを交互に見て言った。
「……おい、ブラッド」
「なんだ」
「お前んとこのガキが、こっち見てるぞ」
言われて、ようやくタブレットから視線をあげたブラッドが入り口を見て、瞠目する。そして大きな翠と目が合い、暫く固まったあと、紫煙を吐き出すと共に、ため息を落とした。
「…………」
「メンティーに見られるとは、ついてねーな」
ブラッドは人一倍プライドが高い。あまり部下には見せたくない姿だったのだろう。難しい顔のまま、こめかみに人差し指と中指を押し付けて揉み込むと、その手をアキラに向かって払う。あっちへ行け、と言いたいのだろう。
アキラはそれを見て目を瞬かせると、ガラス部分から姿を消した。
大人しく引き下がるなんて珍しい。キースは思ったが、すぐにドアがスライドしてそれが勘違いだと気付く。無機質な音と共に、開いたドアの前に立つ少年は、不思議そうに首を傾げていた。
「んだよ」
言いながらあどけない顔で喫煙室に入ってくるアキラ。閉じていくドア。狭い個室に男三人が揃うと、途端に窮屈さを覚える。
ブラッドとキースは、平然とその場に立つ未成年に口を開けて固まると、慌ててその肩を押した。
「コラコラコラコラ。お前なに入ってきてんだ」
「出て行け。ここは貴様が入っていい場所ではない」
「はぁ? お前がこっちに来いって呼んだんだろーが」
そう言って不機嫌になるアキラに、ブラッドは一瞬怪訝な表情を見せた後、肩を落とす。
「招いたのではない、払ったんだ」
「知らねーよ。……つか、別に入りたくて入ったわけじゃねーし。言われなくても出て行くっつーの」
自分は悪くも無いのに大人二人から窘められて、すっかり不貞腐れたようだ。アキラは踵を返し、扉を開けるボタンに手を伸ばす。
「……! ちょ、い待ちッ」
しかし、キースは何かに気付くと、その手を掴み、引き寄せ、自分の背後にアキラを隠した。同時に廊下から聞こえてくる話し声と足音。ガラスの向こう側で、研究部のスタッフたちが前を通り過ぎていく。それを皮切りに、喫煙室の前を人がまばらに歩き始めた。
「やべぇ、休憩終わった」
「……?」
キースの言葉にブラッドも理解したのか、隣に並び、ガラス部分からアキラが見えないよう死角を作る。男二人に奥へと追いやられ、理解出来ないアキラは、背後から二人に怪訝な目を送った。
「なんなんだよ」
「休憩時間が終わったんだよ。しばらくは研究部のスタッフが廊下を通るから、お前は顔見せんじゃねーぞ」
「どういうことだ?」
「ここでお前が部屋を出れば、俺達が喫煙を勧めたと誤解されかねない」
「……ああ」
ようやく理解できたらしい。アキラは納得したように頷く。
エリオスの研究部は人数も多く、休憩前後はぞろぞろと廊下を歩いていることが多い。この波が過ぎて廊下が無人になるのは、五分から十分程かかるだろう。それまでは、この狭い箱の中で三人、身を潜めるしかない。
よりにもよってこの面子とは。キースはため息をつく。手の中の煙草は灰を残して、とうに屑と化していた。灰皿に押し付けると、仕方ないと新しい煙草を取り出す。
「タイミング最悪だな……落ち着くまでもう一本吸っとくか」
「おい」
まだ扉の向こうでは人の気配がある。新しいフィルターにライターを近付けるキースに、ブラッドが眉を寄せた。狭い個室で、後ろにアキラを隠して並んでいると、どうしても身が狭くなる。
肩を寄せ合うなんて薄ら寒い状況で、キースは小言が飛び出す前に、中身が軽くなってきた箱を仏頂面に向かって差し出した。
「逆に吸ってなかったら怪しいだろ。お前もいっとけ」
しかしブラッドは箱とアキラを交互に見ると、右手を上げて首を振る。
「俺はいい。未成年の前で必要以上に副流煙を蔓延させるわけにはいかない」
メンターとしてのプライドか。呆れるキースに、後ろで様子を見てたアキラが二人の間からひょこりと顔を覗かせた。慌てて頭を掴むと引っ込ませたが。
入り口を見たが、未だ廊下を歩くスタッフの波は途切れない。気付かれている様子はないと安堵していると、不思議そうに首を傾げたアキラが口を開いた。その表情を見ていると、この状況の危うさを理解していない可能性がある。
「オレは気にしねーけど。不良の頃のたまり場とか、いつも空気真っ白だったし」
「…………」
少年の何気ない発言は、案の定、直属メンターの機嫌を損ねた。何か言いたげな視線で睨みつけるブラッドに、アキラは慌てて首を振る。
「や、オ、オレは吸ってねーぞ! 吸ってたのは仲間だからな!」
「どーだか」
キースが茶化すと、アキラが睨みつけてくる。絡まれたくなかったので、明後日の方を見て気付かないフリをした。
ブラッドは大きなため息をつく。エリオスのヒーローは、出自も過去も拘らない、実力のみで決まる職業だ。キースが良い例だろう。それでも自分のメンティーには清く育って欲しいと思う親心か。随分可愛がっているのだな、と思っていると、アキラはキースからブラッドへと視線を戻した。
悪びれた様子のない碧の双眸が、期待を抱きながら、アメジストを見つめる。
「なぁ、吸わねーの?」
「?」
「いや、吸ってるとこ、見てーから」
「……」
ブラッドは、困ったように眉を下げる。珍しい表情だ。そういえば、アカデミー時代、遊びに来たフェイスが駄々をこねていた時も、似たような顔をしていた。
年の離れた弟と重ねているのか。キラキラと輝くエメラルドのような、日本の翡翠のような目が、ブラッドを射抜く。
これは根負けするな。察したキースは、箱を開けて煙草を一本差し出した。
「ほい、三本目な。後で煙草代、寄越せよ」
「カードでいいか」
「こんにゃろ」
可愛くない男だ。諦めて煙草を口に銜え、ライターを受け取ろうとするブラッド。しかし、その前に先端に火がつき、二人は分かりきった犯人へと振り返った。当然とばかりに火を点けたアキラが、何かしただろうかと首を傾げる。
……成る程、これからはライターとして活用させてもらおう。しかし、そんな目論見も読まれているのか。キースは隣から鋭い視線を感じた。
「……」
「…………」
毒を浄化しようと、必死に働く空気清浄機の吸込音が、室内に響き渡る。気まずい沈黙だ。
キースは、どうしたものかと眉を上げた。アキラの前で余計な話を振って、ブラッドの怒りを買いたくないし、だからと言って、アキラに絡んでも、きっと同じ結果になるだろう。
ニコチンが肺を回る。いつもならリラックス出来るこの一服が、今は苦痛に感じた。
「……なぁ、立ってると圧迫感やべーから、しゃがんでてもいーか?」
「おう、そっちのが見えにくいしな」
先に耐えかねたのはアキラだった。ブラッドの喫煙姿も見慣れてきたのだろう。飽きたと顔に書いてある。
キースは、助け舟がきたとばかりに勢いよく頷き、アキラを床へと座らせた。股を開いてしゃがみ込む姿には、やはり柄の悪さを感じるが、このまま彼が適当な雑談を振って時間を潰してくれる方がいい。
しかし、アキラが口を開くよりも先に、ブラッドが煙を吐き出しながら、キースを睨みつけてきた。機嫌が良いとは言えない、低い声で。
「……キース。話を戻すが、報告書はこれで問題ない。次からは修正の必要がない書類を初めから用意しろ。途中でサボるんじゃないぞ」
そういえば、そのために彼はこんな豚箱よりも酷い、毒の蔓延する個室に入ってきたのだと、キースは思い出した。
頭を掻きながら足元の少年を見る。叱られている姿を見られるのは、例え直属のメンティーでなくとも良い気分はしない。億劫なため息が漏れる。
「へいへい。休憩中に小言の多い奴だな」
「休憩はもう終わっている。言ったのは貴様だ。少しはまともに働け」
「へ~。なら勤務中の喫煙はどうなんだよ」
「……ほう。喧嘩ならいくらでも買ってやるが」
「冗談に決まってんだろ。マジな顔すんなって」
「……」
とはいえ、やはり彼に敵うわけはないのだ。
アキラは話に入ることもなく、間抜けな顔で二人を見上げている。
(……あー、なんか……ホームパーティーで大人の輪に入ってくる子供って、こんな感じだよな)
彼は十八歳だし、子供でもないのだが、日系の幼い顔立ちのせいで、ついそんなことを考えてしまう。
みっともない姿を見せてしまった。しかし、それに羞恥を覚えるほどのプライドはない。ブラッドの言動は、大方、メンティーの前で体裁を保つためのものだろう。とんだとばっちりを食らったと、キースは煙草を銜えた。
大きく吸い、吐けば、唇の間から白い煙が漏れ出ていく。
足元を見れば、アキラは二人を交互に見比べて感心していた。意図の読めない反応に、キースは片眉を吊り上げる。
「なんだよ」
「いや、キースは見慣れてるから何とも思わねーけど、あのブラッドが煙草って……なんか、大人って感じするよな」
なるほど。普段はすぐ噛みついてくるような彼が、珍しく大人しいと思ったら、メンターの見慣れない光景に憧憬を抱いていたとは。
「おいおい、俺は大人じゃねーってか?」
「大人だけど、ダメな大人って感じだな」
茶化すと、アキラは「はぁ?」と言いたげな顔でキースを見上げてきた。生意気な子供だ。
「はいはい。つまり、お前は『キャー、ブラッド様チョーカッコいいー』って言いたいんだな」
「……ブラッドがたまにキースに腹立つ理由、なんか分かるかもしんね」
「それを共有出来るか。メンターとして誇らしいな」
「やーめーろーよー。それだけでなくても最近のお前ら、似てきてるから苦手なんだって」
くだらない話で場が和んできたところで、キースは入り口に視線を向けた。ガラスの向こう側、廊下を歩く人の気配はない。
「お、もう全員戻ったみたいだな」
近付いて覗きこめば、先程の賑やかさとは打って変わって、静まり返った廊下が見えた。研究部のフロアは、研究熱心な職員が多いためか、就業時間に出歩くものはほとんどいない。
キースは振り返ると、半分ほどの長さに減った煙草を掲げた。
「俺らもこれ吸い終わったら出るから、アキラは先に出てろ。煙草臭いって言われたら、俺に捕まってたとでも言っとけ」
「余裕があるならシャワーと着替えを済ませておくように」
「はいよ」
ブラッドの言葉で気付いたのだろう、袖に鼻を近付け、顔を顰めている。こんな場所にいれば当然だ。全身に臭いが移っているだろう。
アキラは立ち上がり、二人の間を縫って入り口に向かう。その腕を、ブラッドが取って引きとめる。
「アキラ」
「?」
名前を呼ばれ、振り返ったアキラは、すぐに己の行動を後悔した。目の前に広がる白いもや。ブラッドの口から紫煙が漏れ、アキラの顔に吹きかけられる。
「ぶわっ、う、おぇ……テメェな……」
「これに懲りたら二度と喫煙室には入るな」
思わず顔を背けて腕を振り払うアキラに、ブラッドは背中を押して入り口のボタンを押した。
煙が目に入ったのか、涙目のアキラは喫煙室から飛び出して中指を立てる。
「こんな臭ぇとこ、こっちから願い下げだっつーの!」
そう言って怒りが収まらないのか大きな足音を立てて去っていく。閉まっていく扉。
ようやく静かになった空間で、ブラッドは口に煙草を近付ける。ゆっくりと息を吸い、煙と共に吐く。まずい、とぼやいた。
しかし、二人の様子を見ていたキースは、落ち着いた彼とは違い、酷く狼狽している。
「……お前、マジか」
「なにがだ?」
キースの意図が分からない、と言いたげに首を傾げるブラッド。そろそろ煙草は吸い終わる。キースのフィルターも、結局吸うタイミングがあまりなく、また灰を作っていた。勿体ない。
けれど、そんなことはどうでもいいのだ。先ほどブラッドがアキラにした行動。その意味について思考を巡らせ、混乱し、けれど理解できずにこめかみを押さえた。
「いや、だから、さっきの……いや、何でもねえ」
考えて分からないのなら、それ以上考えても仕方ない。思考放棄――現実逃避は彼の得意分野でもある。
屑になった手のものを灰皿へと投げ込むキース。今日は散々な休憩時間だったと、肩を落とした。
一方、その横で最後の喫煙を楽しんでいた男は、少年の言葉を脳裏で噛みしめながら、目を細めていたのだが、背中を向けていたキースには知る由もない。
◆◇◆
「あ、ここにいやがったな。何なんだよこの報告書」
「げっ」
午前のパトロールも終わり、昼食後の休憩中。タブレット片手に喫煙室に現れた自称天才に、キースは思わず顔を顰めた。
研究部近くの喫煙所がバレてから、エリオスタワーの裏手にある、ひっそりとした屋外の喫煙所を利用していたというのに。いや、この男はどこにいてもキースを探してくる。まさか師匠の悪知恵を借りて、探知機でもつけられたかと心配したが、本人曰く「天才には何でもお見通しだっつの」とのことなので、そういえば犬の嗅覚は人の何倍もあることを思い出した。
キースは衝立の向こうから喫煙エリアに入ってくるアキラを半眼で見ながら、差し出してくる五枚の書類を受け取ると、仕方なく目を通す。
「休憩中ぐらい休憩させてくれっての」
「いや、テメェの場合、いつも休憩ばっかじゃねーか」
ぼやけばジト目が返ってくる。いやなところが似たものだと、キースは肩をすくめた。
喫煙者の人権は、徐々に失われてきている。ついにタワー内の喫煙所が一か所のみになると聞いて、転職を考えたほどだ。他の職場も同じようなものだろうが。
屋外の喫煙エリアも、観光客向けのスペース以外、屋上か、タワーと衝立によって光を遮られたこの暗いスペースのみ。そんな煙たい場所に躊躇なく入ってくるのは腐れ縁か、この物怖じしない男ぐらいだ。
陳列する文字がぼやける。年々小さな文字を追うのが辛くなってくるのは年のせいかと思いつつ、眉根を寄せていると、近付いたアキラが指摘箇所を指さした。
「ほら、ここ。ルーキーの勤務態度。頑張ってるってなんだよ、頑張ってるって。もっと他に書けることあんだろ。メンターリーダーのオスカーに心労増やすなっつの。アイツ、キースのこと探し回ってたぞ」
「じゃあお前がやってくれよ。先輩を立てて……な? こういうの苦手なんだって」
「よく言うよな。最初の方はマトモに書けてるじゃねーか。どうせ途中で飽きたんだろ」
似たような会話を三年前もしていたな。どこか既視感を覚える応酬には、心当たりがある。苦笑していると、タブレットを差し出される。
「ん」
「?」
「五分もかかんねーんだから、今、終わらせよーぜ」
「俺、休憩中なんだけど」
「別にオレは残業になっても構わねーけど」
「……分かったよ。くそ、ブラッド二号め」
三年で随分な成長を遂げたものだ。
オスカーによるチーム編成は、よく考えられている。キースはブラッドに弱い。そんな彼に、ブラッド直々に育てられた弟子を宛がう。これでは手を抜くどころか、サボることすら難しい。
キースは口から煙草を離すと、ゆっくりと息を吐いて、空いている方の手を出した。タブレットが渡される。
先程火を点けたばかりの二本目は、勿体ないが消すしかないだろう。少し悩んで、灰皿に燻る先端を伸ばした。しかし、鉄皿の上で潰され、葉屑となるはずだったものは、子供っぽさの残る日系特有の指に絡めとられ、攫われていく。
「……おい、彼氏に言いつけるぞ」
「細けぇこと言うなよ。ブラッドだって昔、吸ってたじゃねーか」
言いながら、キースの吸いかけの煙草を口に近付ける。彼はもう、煙草を吸える年齢になった。
ゆっくりと吸えば、ニコチンが肺に回り、吐息と共に、唇の隙間から白い煙が零れていった。ヤンチャな見た目のせいか、本当は喫煙の経験があったのかまでは分からないが、その姿に違和感はない。
見た目は全く違う。中身だって正反対だ。誰かは忘れたが、二人のことを厳格破天荒コンビだとか、凸凹師弟だとか言ってたことを思い出した。雑誌の記事かもしれない。でも、本当にその通りだとキースは思った。
タブレットを開く。残念ながら、報告書は開かれてないし、指摘箇所にマーカーはない。従者のくせに、気の利かない奴め。彼の場合はわざとの可能性もあるが。
仕方なく指を滑らせていると、宙を見ていたアキラがぼんやりと呟いた。
「……あんまり見せてくんねーけど、あいつが煙草吸う仕草、すげー好きなんだよな」
「惚気かよ」
「惚気だよ」
視線だけ彼の方へ向ければ、細められた翠と目が合った。三年前より幼さは落ち着き、青年としての風貌がある。そもそも、三年前から既に社会人だったので、青年ではあったのだが。
それでも成長したと思えるのは、ヒーローとしての自覚が育っている証拠だろう。あの落ち着きのない猪突猛進な男も、完璧主義者に手を加えられればこうなるということか。
「けっ、可愛くねーやつ」
その言葉は、どちらに言ったものなのか。
キースは余裕を見せてくる後輩に、嫌な顔をしてみせた。アキラはニヤリと笑った。
「それ、後で金払えよ。二十ドル」
だが、彼は二号であって一号ではない。
仕返しとばかりに彼の手に持つ煙草を指さして言えば、アキラは「はぁっ!?」と驚きながらフィルターを見回した。
良かった。流石に煙草と葉巻の値段までは、知らないようだ。