大人の店 玄関の扉が開く機械音に、アキラはテレビから目を離した。時計を見る。ゲームに集中して気付かなかったが、いつの間にか日付が変わろうとしていた。そんな時間に帰ってくる人間など一人しかいない。
廊下からリビングへと姿を現した男に、アキラはソファーに体を預けたまま声をかける。
「おかえり、遅かった、な……? ……って、酒くせぇッ!」
歩みを止めることなく、アキラの座るソファーに一直線。そのまま飛び込んできたブラッドは、下敷きになって呻きながら鼻をつまむアキラを見て、吐息をこぼした。
「ふ……ただいま戻った」
「戻ったじゃねーよ! 重い! 臭ぇ! てめ、酒飲んで帰ってきたな……!」
「何時だと思ってる。静かにしろ。オスカーとウィルが起きる」
「っ! ぐ、ぐぬ……」
正論で嗜められ、アキラは言葉を詰まらせた。そのまま抱きしめられ、吐息に混じって香るアルコール臭が鼻腔を刺激する。彼がここまで酒を飲むことなどあまりない。何かあったのだろうか。気になりながらも、ぎこちなく抱きしめ返せば、ブラッドは落ち着いたのか、大きく息を吐いた。
「夜間パトロールが終わった後にな。キースが良いワインがあると言うので、少しだけ飲んできた」
「す、少し……? お前、酒弱くないよな? それでこんなに酔ってるって、絶対少しって量じゃねーだろ」
「……小腹がすいた」
「おい、聞けよ」
いつもと違うブラッドは調子が狂う。アキラは戸惑いながらも、耳を擽る熱い息に身を捩らせた。こうして触れ合っているだけで腰が疼いてくる。
何度か体を重ねたせいだろうか。自然と行為が脳裏を過ぎり、気恥ずかしくなって唇がムズムズと動いた。
落ち着いたのか、ようやくブラッドが身を起こし、アキラを熱い目で見つめる。マゼンタがゆらゆらと波を作る。
「アキラ」
「な、なん」
真剣な眼差し。まさか、と鼓動が速くなる。扉一枚隔てた先にはオスカーとウィルがいる。彼の性格上、こんな場所で始めることはないと思うが、今の彼はいつもと違う。酔っているのだ。
アキラが無意識に胸元のタンクトップを握り込むと、ブラッドは笑みを浮かべ、小首を傾げた。
「腹をすかせていないか?」
「え……? ……えー、まぁ……オレも、小腹は……すいてっけど」
予想と違い、脈絡のない質問に、アキラは肩を落とした。そして安堵すると共に、胸中に浮かぶ落胆を押し殺す。何を期待していたのだ。途端に恥ずかしさが込み上げる。
ブラッドの顔を見ることが出来ず俯くアキラだったが、突然腕を取られ、強引に体を起こされた。顔を上げれば、何故か機嫌良く微笑むブラッドが立ち上がって言う。
「行くぞ」
「は?」
「食事に行く」
「こんな時間にか!?」
突然の誘い――いや、有無を言わさぬ決定に、アキラは目を見開いた。もう日付も変わる。こんな時間に空いている場所など、彼の行きつけにはないはずだ。
分かりやすく狼狽えるアキラ。そんな彼を見て、ブラッドは悪戯っ子のように、にんまりと目を細めた。
「お前に、大人の店を教えてやる」
◆◇◆
リニアの最終に乗り込んで、揺られながら向かったのはグリーンイースト。駅を降りてしばらく歩けば、ネオンサインが見え隠れする。おそらく深夜営業のバーだろう。
それを無視して歩みを進めた先。しばらくして見えてきたのは、リトルトーキョーの入り口で灯る提灯。その前でようやく立ち止まったブラッドに、アキラは思わずジト目を向けた。
「……これが、大人の店?」
「屋台だ」
何故自慢げな顔をする。そろそろ酔いは覚めているはずなのに、まだいつもの鉄壁君主は戻ってこない。
珍しいこともあると思いつつ、上機嫌な彼に水を差すのも躊躇われて、アキラは鼻をひくつかせた。
「見りゃ分かるよ。この匂いは……おでんか?」
「知っていたか」
「たまに家で出されるからな」
冬の定番料理だ。今年の寒気は長引くようで、まだ肌寒いこの季節には需要もあるのだろう。
屋台へと近付いたブラッドは店主に挨拶すると、古びた木椅子に腰掛ける。慣れた様子を見るに、どうやら見知った仲のようだ。
普段はホテルの食事や一流の店ばかりに連れられてばかりだったアキラは、何の変哲もない庶民的な屋台とブラッドという組み合わせが信じられず、呆気に取られる。
「ほら、お前も座れ」
「お、おう」
立ち尽くしていると、その場で手招きされ、アキラはおずおずと近付き隣の席に腰掛けた。
木の板を組み合わせたような、箱のような椅子は、固くて冷たい。
四人ほど座れるカウンターのみの、野外での食事。天井には配線が剥き出しになった豆電球が、立ち上がる湯気を纏って霧のような空間を作っていた。目の前には額に鉢巻を巻いた、ぶっきらぼうな店主が一人。
目が合うと睨まれたので身を竦ませると、ブラッドは「彼は成人で、日系だ」と説明した。未成年を疑われたようだ。ブラッドの言葉を聞いて安心したのか、店主は肩の力を抜く。アキラもようやく緊張が解けてきて、周囲を見回し始めた。
家の食事とは明らかに違う。木に貼り付けられた具のレパートリーに、店主の趣味だろうか。古びた女優の写真も貼られている。目の前には大きな鍋が三つ並んでいて、中には様々な具が入っていた。
キャンプやキッチンカー、立ち食いとも違う雰囲気は、まるで異世界に来たような錯覚を起こす。慣れてくると、好奇心がむずむずと胸をくすぐった。目を輝かせ始めるアキラの様子を黙って見つめていたブラッドが、テーブルに肘をついて言う。
「深夜の屋台でおでんを食べる。……大人の店だろう?」
「はいはい、酔っ払いは黙ってろって」
つい素っ気なくなってしまったが、内心では大喜びだ。新しい遊園地に遊びにきたような興奮が隠しきれず、つい身を乗り出して鍋を見る。
「美味そうだな……くぅ~、見てると俄然腹が減ってきたぜ。おっちゃん! 大根と卵とウインナー、あと餅巾着も頼むぜ」
香りにつられてすっかり食欲は刺激されている。腹の音が漏れ出るまま、アキラは早速とばかりに好物を注文した。店主が短く返事してよそい始める。ブラッドも右手を上げて口を開いた。
「俺は大根、はんぺん、さつま揚げ、つみれを頼む」
「おっさんくせぇチョイスな」
「お前はガキくさいチョイスだな」
からかえば口の減らないメンターがニヤリと笑う。
アキラは肩をすくめた。彼との付き合いも、もうすぐ三年になる。入所した頃、ジェイに彼と自分が似ていると揶揄されたことがあったが、今ではその理由も分かるというものだ。
特に、酔っているとその性質が浮き彫りになる。
アキラは気を取り直すと、店主がカウンターに置いたおでんを受け取り、息を吹き付けながら、口へと運ぶ。そして何度か咀嚼し、胃へと運ぶと、弾けるように言った。
「うめぇ! 寒い日のおでんってやっぱたまんねーな」
家庭とは違う。出汁がよく染みていて、大根は歯を立てるとほろりと溶けた。卵も硬すぎず、大根と同じく出汁の行き渡った白身は、空腹を満たすには充分だ。
多幸感に笑みを浮かべていると、隣にいるブラッドも猪口を片手に口端を持ち上げ、何度も頷く。
「確かに。熱燗が良く合う」
「あっ! てめ、また飲んでんのか!?」
いつの間に注文したのか。熱燗を嗜むブラッドは、上機嫌で喉を鳴らしている。アキラが睨めば、目を細めたブラッドが猪口を差し出してきた。
「お前も飲むか?」
「……いらね。このあと、酔っ払いの世話しなくちゃいけねーから」
もう酒は飲める年齢だ。しかし、ブラッドに「初めての飲酒は俺がさせたい」と誕生日にワインを飲まされ二日酔いに苦しんでから、酒はほとんど飲んでいない。同期とビールぐらいなら付き合えるが、彼の飲む酒はいつも度数が強いのだ。
顔を背ければ、言い訳だと気付いたのかブラッドが声を出して笑った。分かっていて誘うのだから、なんとも憎々しい男だ。
「リニアもう動いてねーけど……タクシー呼ぶか?」
空腹も満たされ、ブラッドの酒も空になった頃。またもや珍しく現金で支払いを済ませ店を離れたブラッドに、店主に礼を告げて後を追ったアキラは顔を覗き見る。顔が赤い。流石にワインの後の熱燗は飲み過ぎだ。
心配するアキラだったが、掌に熱い感触を覚えて息を呑む。
「っ」
「少しだけ、歩きたい」
そのまま指を絡ませて握り込むブラッドは、少しふらついているものの、足取りはまだしっかりとしている。今日の彼は珍しいことばかりだ。酒の力もあるだろうが、それだけではない。彼の感情を昂らせる何かがあったのだろう。
直感的に気付いたアキラは、それを握り返しながら、横目でブラッドを見た。
「なんなんだよ、今日のお前……なんかいいことでもあったのか?」
聞けば、ブラッドはアキラに顔を向けた。僅かに背は伸びたものの、身長差は三年前からほとんど変わらない。見上げ続けていると、ブラッドは瞬きながら呟いた。
「良いこと……」
マゼンタと翡翠が絡み合う。ふと、その赤紫を包む瞼の端、薄皮に見えた小さな皺に、彼の年齢が脳裏をよぎった。ブラッドは目を細め、その皺を深めると、唇を弧に描く。
「そうだな、良いことならあった」
乾いた冷たい空気が、ブラッドの吐息に白いもやを作る。美しく笑う男だと思った。
「……その顔、どうせ教える気はねーんだろ」
つい見惚れてしまったのが照れ臭くて、アキラは誤魔化すように唇を尖らせ、ジト目を向ける。ブラッドは可笑しそうに笑った。
「そうだな。でも、すぐに分かる」
冷たい風が耳を優しく薙いだ。熱くなっていたので、丁度いい。けれど、じんわりと汗ばんだ掌は、誤魔化せない。
周りの店も営業時間を終え、人気のない静かなグリーンイースト。少ない街灯が灯る暗い景色の中、遠くでエリオスタワーが爛々と光を放つ。情緒のない塔だと、アキラは胸中で嘆息した。
二人は特に話題もなく、無言で歩を進める。
ヒーロー二人が仲良く手を繋ぎ恋人の真似事をするなど、誰かに見られでもすれば誤解されかねない。自分たちは体を重ねこそすれ、恋人ではないのだ。けれど、まだこの時間を手放したくないと思った。
もう少し先へ行けば、大通りに出るだろう。深夜とはいえ、車は走っているはずだ。タクシーもそこで拾えばいい。この時間も、もうすぐ終わる。曲がり角を進むと、遠くの方で車のヘッドライトが見え隠れしていた。アキラは名残惜しさを覚えつつも、絡めた指を緩めていく。
しかし、ブラッドはむしろ離さないと言わんばかりに強く握りこんできた。反射的に顔を上げれば、ゆらゆらと揺れるマゼンタがアキラを真っ直ぐに見つめている。
「アキラ」
「?」
「約束は忘れていないな」
「お、おお……うん?」
優しく穏やかな声音に、アキラは首を傾げながらも頷いた。彼の言葉は、たまに説明が足りないことがある。慣れてきたとはいえ、やはり突拍子のない言葉には理解が追いつかない。
「ふ。待ち遠しいな」
「っ」
ブラッドが笑みを含ませながら、頭に頬をすり寄せる。アキラは大げさに肩を揺らした。
大通りは目の前だ。ようやく離れたブラッドは、残念そうに吐息を漏らす。
(くそ……っ)
今夜は酔った彼に振り回されてばかりだ。赤い顔が戻らない。アキラは悔しさを滲ませながらも、走るタクシーを見つけて手を挙げた。
明後日には、昇格試験の結果が出る。アキラが夜遅くまでゲームをしていたのも、結果が気になって眠れないからだろう。今日もパトロール中は気がそぞろだったと、オスカーから報告を聞いている。果たしてアキラは、AAになった時の約束を覚えているのか。この様子だと、おそらく忘れているのだろう。
彼らしい。そう思って、ブラッドはタクシーを捕まえるアキラの背中を見ながら静かに笑った。
また、目尻の小さな皺が深くなった。