深刻なアホ それは突として起こった。
「イカサマだ!」
そう叫んだのは目の前の客だ。チップをテーブルの上に投げつけ、頭髪上指の如く顔を赤に染め上げ立ち上がる。
椅子が投げ出され、倒れると同時に周囲が沸き立った。
「イカサマ……って」
それに対し、アキラは困惑の表情を見せる。謂れのない難癖に思わず手が止まった。
今はルーレットの最中。アキラは任務として潜入したカジノで、ディーラーとして客を励まし、時には煽りながら、お互い公平なルールでゲームを楽しんでいただけだ。
そもそも、この男は先ほどまで勝ち続けていた。アキラを挑発し、自信たっぷりにチップを抱えていたが、三回負けが続いた途端にこの有り様である。
客の仲間も味方して、その場の空気に不穏が漂う。
「急に負けが続くなんてありえない、お前が何かしただろう!」
「してねーよ、んなもん」
カジノで難癖をつける客は少なくない。ほぼ運が勝敗を決める賭け事をしているのだ。増えるチップ、減るチップに惑わされて人はその本性を現す。
そういった時は適当に相手してやり過ごすに限る。ため息をついたアキラだったが、突然背後から重みを感じ、自分の両手をテーブルへと叩きつけられた。
振り返れば、屈強な男が背後からアキラを押さえつけている。客の仲間だ。体を捻るも、腕を拘束されていて思うように動けない。つい舌打ちが漏れる。
「絶対にイカサマの証拠があるはずだ!」
「っ、だから、ねーって……っ!」
最初に難癖をつけた客が、そう言って背後の男に代わって前からアキラの腕を掴んだ。
そのおかげで両手の空いた男が、背中に体重を預けたまま徐に衣服をまさぐり始める。どうやら証拠を探すつもりらしい。
「いや、マジでなんもしてねーし」
アキラは本当に不正など働いていない。しかし、騒ぎを聞きつけて野次馬も増えてきている。
取り囲まれた状況で抵抗を見せ続ければ余計に客たちの不信感を煽るだろう。
(こういった時は、相手が納得するまで放っておくに限る)
怒りで沸き立つ感情を深呼吸して鎮める。スマートに、スマートに。小憎らしいが正論のポーカーフェイスから習った教えだ。
アキラはスラックスの上から手を這わせ、ポケットを確認する男に、せめてもの抵抗だと言わんばかりに冷めた視線を向ける。
そうしてジッとしていると、ようやく空気が変わり始めた。怒りの波が引き、徐々に静かなざわめきが彩る。
「……?」
アキラは体勢が少しでも楽になればと、テーブルに預けていた顔をあげた。
目の前にいるのは難癖をつけた客。その顔が、怒りから不愉快なにやつきへと変わっている。
アキラの腕を掴んでいた手が、勿体ぶるようにシャツの上を撫でつけた。粟立つ肌に身震いしていると、客は小首を傾げて口を開く。
「なあ、兄ちゃん。チャイニーズ? いや、ジャップか。……日本人はアレのサイズがファーストグレードって本当か?」
「……はぁ?」
言葉の意図が分からず、アキラは呆けた表情を見せる。
客はアキラの背後に立っていた男に目配せすると、掴んだ腕を自身の方へと引き寄せた。
「うわっ」
客の方へと引っ張られる形となったアキラは、そのままテーブルに上半身を乗り上げる。
決して小柄ではないものの、咄嗟の動きでは日系人の方が体格的に劣ってしまう。
本来なら一般人の拘束など、トレーニングを続けているアキラにとって何の障害にもならないのだが、今は重要な任務中だ。
ここで拳を振るい、カジノ側に素性を怪しまれるわけにも、ホールで騒ぎを起こすわけにもいかない。
周囲のギャラリーは面白おかしく眺めているだけだ。スタッフも自分たちの仕事が忙しいのか、動き回りながらこちらの様子を窺うだけで、助けは期待できそうにない。
ぎりり、と歯ぎしりをしながら客を睨み上げるアキラだったが、不意に背後で妙な動きを感じ取り、眉を寄せた。
アキラを後ろから押さえつけていた男が、サスペンダーの留め具を外そうとしている。
「っ、おい! 何してやがるっ」
「まだイカサマの証拠、見つけてねーからな」
「はあっ!?」
まさか、脱がせようとしているのか。公衆の面前で。
焦るアキラを余所に、留め具が外され、スラックスの前へと男の手が伸びる。
「ふっざけんなよ、してねーっつってんだろ!」
「細い腰だな……よっぽど飯食えてねえのか」
「うぎゃっ」
腰を鷲掴みされ、思わず肩が跳ねる。
男がシャツの上から卑猥な仕草で腰を撫でつけ始めると、目の前の客が下卑た笑い声をあげた。
「ここで働いてるってことは、よほど切羽詰まってるんだろ? 安心しろ。赤っ恥かいていられなくなったら、他の店紹介してやるよ」
その言葉にアキラはついにキレた。スマートに、と言い聞かせて我慢をしていたが、物事にも限界はある。
アキラは任務中であることも忘れ握りこぶしを作ると、それを振り上げようとして、しかし横から聞こえてきた声にピタリと動きを止めた。
「悪いが、ソイツはイカサマなんてしてねーよ」
視線を向けると、億劫な態度を隠しもせずに、キースがこちらへと歩み寄ってくる。
客と男は、明らかにアキラとは違う空気を感じ取って萎縮した。
「その馬鹿っぽいツラよく見ろよ、イカサマなんてすりゃ一発でバレるだろ」
「はぁっ!?」
アキラは「誰が馬鹿面だ」と反論すべく口を開くが、視線で窘められて仕方なく黙り込む。
興を削がれたのか困惑した様子を見せる二人。しかし、キースに「もうすぐ警備の奴らも来る。さっさと店から出た方が身のためだと思うぜ」と言われ、それが後押しとなったのか渋々アキラを開放すると、逃げるようにその場を立ち去って行った。
後ろ姿を見送りながら、キースは大きなため息を落とす。
「お前さぁ、あんま騒ぎを起こすんじゃねーぞ」
「オレは悪くねーぞ。勝手に絡んできたのはアイツ等の方だからな」
自分に原因があるかのような口ぶりにムッとするアキラだが、助けてもらったのは事実だ。素直に礼を言う。
「……助かった。はぁ……あともうちょっとでパンイチにされるとこだったぜ」
「パンイチ……アキラ、お前パンイチで済むと思ってたのか?」
「はぁ? あの状況でそれ以上のことなんてあるのかよ」
アキラは深刻なアホだ。キースは思った。前々から知ってはいたが、実感せざるを得ない。
キースは、押し付けられて乱れた髪を整えているアキラを改めて観察する。
おそらく着やせするタイプなのだろう。いつもはシャツを着崩しているが、任務中のためか今は規定通り首元まで留められ、裾をスラックスに入れている。
カマーベストは胸元にたわみを作りながらも調整ベルトで腰を締めており、そのせいか余計に腰の細さを目立たせていた。
それよりも問題なのは。
「……なぁ、お前ってアイツと週何回ぐらいしてんだ?」
「は? 何だよ急に。意味わからねーよ」
「いや、だから」
怪訝な表情を見せるアキラに、キースは分かりやすく指でジェスチャーをしてみせた。
途端に顔を赤くさせる姿に、流石にジェスチャーは知ってたかと感心する。
「んなっ、なんでテメェにんなこと言わなきゃなんねーんだよっ」
場を理解しているのか、アキラは器用に小声で怒鳴る。キースはどうどう、と馬を御するように両手を上げた。
「ほら、あれだ。助けてやった礼ってやつ」
「っ……、い、忙しさにもよるけど……最低……週一、は……」
強引な言い分に、アキラはぶっきらぼうだが素直に答える。それを聞いてキースは成程、と納得した。
潜入捜査を始めてから既に二週間を超えている。本人は気付いていないようだが、体は随分と彼を恋しがっているらしい。遠目に見た時は、今からおっ始めるつもりかと慌てたぐらいだ。
欲求が発散できないせいか色気を纏う姿に、深刻なアホが随分大人になったものだと、キースは思わず感嘆の声を漏らした。
「……さっきあったこと、ブラッドには絶対言うんじゃねーぞ」
とはいえ、馬に蹴られたくないのでお節介を焼く気はない。
しかし、せめてもと忠告を口にしたキースに、アキラは眉を吊り上げる。
「はぁ? 何言ってんだ。あんな胸糞悪ぃこと、愚痴らなきゃ気が済まねえ」
やっぱり深刻なアホだ。
その愚痴がどのような結末に繋がるのかを微塵も理解していないアキラに、キースは「俺は言ったぞ、言ったからな」とだけ言い残して逃げるように煙草を吸いに行くのだった。