プライドと偏見 ニューミリオンよりも眩しい日差しは、肌をチリチリと焦がす。
夏のイタリアは想像よりも暑い。アキラはサングラスのテンプルをずらして汗を拭うと、隣のブラッドを見た。レンタカーを借りてから二時間。聞いた話では、そろそろ見えてくるはずだ。
「アキラ、あの街だ」
徐々に眠気が訪れて舟を漕いでいると、しばらくしてブラッドが顎をしゃくった。正面を見れば、自然に溶け込んだ中性的な建物が見えてくる。しかし、空の青と海に溶け込んだ美しい景色に感嘆する余裕は無い。緊張の面持ちを見せるアキラに、ブラッドは苦笑した。
「そんなに固くなる必要はない」
「……ンなこと言われても」
「大丈夫だ」
ブラッドはそれだけしか言わなかった。いつもなら、もっと不要な講釈を垂れるくせに。彼も少し緊張しているのだろう。アキラは数週間前の通信――ビデオ通話を思い出す。ブラッドの言葉に激怒し、一方的に通信を切られた真っ暗な画面。今まで直接否定的な意見を浴びてこなかったからか、相手の言葉が棘のように残る。
『子供も産めないような奴に、ビームスの名は与えたくない』
少ししゃがれた、けれどどこかブラッドと似ている低音は、その声を唸らせて画面越しにアキラを睨みつけてきた。数日後に送られてきた航空券はメッセージ一つ添えられていなかったのに、相手の言葉は手に取るように分かった。アキラは覚悟を決めながらも、拭いきれない憂鬱な気持ちを誤魔化すように窓から景色を眺めた。けれど、映画の世界に紛れ込んだような幻想的な光景を見ても、気持ちは晴れなかった。
イタリアで余生を過ごすブラッドの祖父母。アキラは今日、二人に正式なパートナーとして、挨拶にきた。
***
「ああ、ブラッドリー、久しぶりね。元気そうで嬉しいわ」
「貴女も変わらず美しい。グランマ、息災で何よりです」
扉を開けるなり、嬉しそうに顔を綻ばせて腕を広げたブラッドの祖母は、そう言って自分よりも二回り大きい体を強く抱きしめた。ブラッドは抱きしめ返しながら老婦の頬に口付けを送り、微笑んでいる。
「来年で引退するとニュースで見たわ。……長い間、お疲れさま」
「ありがとうございます。今後は裏から若いヒーローたちを支えるべく、研鑽を積むつもりです」
「ふふ、相変わらずのワーカホリックね。私が生きている間にのんびりする貴方を見る日は来るのかしら」
数年ぶりの再会は互いに会話も弾むようだ。ここで水を差すのも悪いだろう。少し離れた場所で居心地悪く待っていると、老婦はアキラに気付いてブラッドによく似たマゼンタ色の目を細める。
「アキラ、貴方も貴重な休暇を使って来てくれてありがとう。歓迎するわ」
「……どーも」
「アキラ」
来るまでにマナーを覚えてきたはずなのに緊張ですっかり抜けてしまい、いつもの調子で返してしまうアキラを、ブラッドが窘める。しかし老婦は首を横に振ると、アキラに近付いた。
「いいのよ、ブラッドリー。あの人があんな形で会話を終わらせたのだから身構えてしまっても仕方ないわ。……会えて嬉しいわ、アキラ。若い子には退屈かもしれないけど、ゆっくりしていってちょうだい」
そう言って優しい力で抱き締めてきた老婦に、アキラは必死に思い出した拙い敬語で礼を言う。
「お心遣い……感謝しま、す」
「ブラッドリーの手紙の通りね。本当にカメリアのような赤」
アキラの緊張を和らげるためか、老婦はそう言って髪をひと撫でする。少しかさついているが、温かな手のひらの温度に安堵していると「さぁ、早く入ってちょうだい。レモネードを用意したの」と二人を招き入れた。通信で感じた雰囲気と変わらず、上品で穏やかなブラッドの祖母は、本当にアキラを歓迎しているようだ。
アキラたちは老婦に誘われるまま席に着くと、レモネードで喉を潤した。乾いた暑さに酸味の利いた飲み物は心地よく、二杯目を空にした頃には馬鹿みたいに滲んでいた手汗がすっかり引いていた。ブラッドは尋ねた。
「グランパは書斎に?」
「いいえ、テラスよ。……意地を張ってるけれど、本当は感情的になったことを後悔しているの。今だって早く二人の顔が見たいくせに、降りてこようとしないんだから」
老婦はそう言って階段の方へ視線を向け苦笑する。ブラッドは悩むように顎へ手を置いたあと、アキラを見て言った。
「アキラ。このまま長引かせても仕方ない、祖父と話をしよう」
「あー……ブラッド、ちょっと待て」
アキラは立ち上がりかけたブラッドの腕を引いた。そして、頬を掻きながら視線を彷徨わせる。ここに来るまで考えていた。ブラッドの祖父が反対した理由、長期休暇に合わせて都合よく送られてきた二枚のチケット。結果が分かっていたはずのブラッドが何故、祖父母に自分たちの関係を報告したのか。きっと、ブラッドは、そしてブラッドの祖父は、本当は――。
「あのさ、ブラッド。オレ……」
***
海に近い家は潮の香りが強く、テラスに出ればそれが顕著に現れた。空と同化した海は地平線を曖昧にし、まるで異世界に来たような心地を覚える。アキラはその景色を眺める丸い背中を視界に捉えて、ゆっくりと近付いた。
「お会い出来て嬉しいです、Mr.ビームス」
「お前は呼んでない。アイツが勝手にチケットを二枚、送ったんだ」
年輪を重ねた声は通信の時と変わらない。ブラッドも歳を取ったらこんな声になるのだろうか。アキラは脳裏で思いながら、老夫の座るカウチの隣に腰かけた。座ることを許可していない。そう言いたげに睨みつけてくる視線に苦笑しながら、アキラは口を開いた。
「……悪りィ。オレ、一応ブラッドからマナーは教わったけど、この話し方じゃ、じいさんに何も伝わらねーと思うから、いつも通り話すぜ」
ブラッドに頼みこんで、アキラは一人でブラッドの祖父と話をしにきていた。膝の上で手を組むと、交差した指を弄ぶ。彼に認めてもらおうと、色んな言葉が浮かんでは消えていく。けれど、そうではない。アキラは頭を振ると、老夫へと向き直った。彼の髪はブラッドと同じ艶のある暗いアメジストで、けれど瞳はマゼンタではない。アキラは言った。
「曾孫の顔、見せてやれなくて悪りィ。……でも、じいさんのためにブラッドと別れてやる気はねぇ」
「…………」
「いくら同性婚が認められてきたからって、まだ偏見があるのは分かってるぜ。これでも一応悩んだよ。オレみたいなのがブラッドと一緒になっていいのか、別に仲間として隣にいるだけでもいーんじゃねぇのか……って」
そう訥々と胸の内を開きながら、アキラは続ける。
「でも、そうじゃねえって分かったから。ブラッドも同じ気持ちだったから。だから、じいさんたちに隠さず報告したんだ」
アキラの言葉に老夫の肩がピクリと揺れる。けれど表情は変わらない。ポーカーフェイスの上手い男だ。少しだけ似ていると、ぼんやり思った。
「……ブラッドさ、じいさんに反対されるの、分かってたんだと思う。報告したいって言われた時、有り得ねぇぐらい顔が強張ってたからさ……多分、あいつの方が緊張してた」
そこで一度口を閉ざしたアキラは、瞼を下ろすとおもむろに息を吐いた。言うべきか、秘めておくべきか。横目で一瞥すれば、難しい顔を崩さない彼はアキラの言葉を待っている。やはりそうか。アキラは顔を覗き込むと、真っ直ぐな目を老夫へ向けた。
「だから、じいさんの言葉に一番傷ついてたのは、ブラッドだと思うぜ」
「…………」
悲痛そうにしかめられた眉。あまりにも分かりやすい反応に、アキラは思わず吹き出した。ブラッドの不器用さは祖父似か。急に笑い出したアキラを不愉快に思ったのか、老夫が肘で小突いてくる。そういうところも似ている。アキラはこっそり持ってきていた紙袋を掲げると、得意げな顔を作った。
「歳食うとプライドと偏見が邪魔しちまって認めるのがなかなか難しいよな。だから、この天才メジャーヒーロー、鳳アキラ様が、助けに来てやったんだよ――つまみとワインを持ってな」
アキラは歯を見せて笑ってみせた。老夫の表情が、少しだけ和らいだ。
「仲良く酔っ払ったら、その勢いでブラッドに謝りに行こうぜ」
そう言ってオープナーでワインを開けると、葡萄の香りが潮と混じり合う。ブラッドの祖父は、鼻をひくつかせてワインの香りに引き寄せられながらも、アキラを睨みつけた。
「だから若い奴は嫌なんだ、礼儀がなってない」
「でも嫌いじゃねーだろ? なんせじいさんは、ブラッドのじいさんだからな」
そう茶化せば、また肘で小突かれた。乱暴な老人だ。
とっておきのオリーブを出してやる。妻に内緒で買っていたんだ。そう言ってカウチから立ち上がり、部屋に入っていく彼の後ろ姿を、アキラは視線で追った。きっと彼なりの償いなのだろう。アキラは、その「とっておき」であの時の発言を許してやることにした。
ブラッドの祖父はブラッドから聞かされた話に悩み、葛藤し、そして勢いで口にしてしまった言葉を後悔していた。それが分かっただけでも、二年ぶりにとれた長期休暇をイタリアの田舎で過ごす甲斐があるというものだ。アキラはカウチの背に肘をついて、棚の奥からオリーブを出す老夫を見つめた。背筋が伸びていて、老人とは思えない体幹の良さと、大きな手のひら。
嗚呼、やっぱりブラッドによく似ているな、と微笑んだ。