リビングで雑誌を読んでいる時のことだった。今年の冬はボルダリング仲間とセッションをすることになり、それならブーツを新調しようと、紙面に載る新作をチェックしているところだった。降ってきたブラッドの声は、平坦で落ち着いていたが、どこか弾んでいるようにも聞こえた。
「明日は空いているか」
アキラが顔を上げてまず思ったことは「ヤベェ」だった。何故なら、シャワーを浴びてからまだ髪を乾かしていない。こちらを見下ろすブラッドに目を泳がせながら、慌てて肩にかけたタオルを掴む。
「や、ちょ、丁度乾かしてるところだったんだぜ。べ、別に忘れてたわけじゃねーからな」
「……」
呆れの含んだ胡乱な視線が突き刺さる。どうにか小言から逃れられないものかと口笛を吹きながら視線を逸らしていると、ブラッドは嘆息を一つついて言った。
「それで、明日の予定は?」
「……明日?」
「先程も聞いただろう。急遽オフになったと聞いた」
どうやら説教をするつもりではないらしい。それなら気にする必要はないかと、アキラはタオルから手を離し雑誌を掴みなおした。ブラッドに甲を叩かれた。
肩を落として髪を拭き始めると、ふらりと姿を消したブラッドがドライヤーを手に戻ってくる。後ろから伝わる温風の心地よさに瞼を下ろしながら、アキラは思考を巡らせる。
「んー、今のところ何もねーけど。……あ、なら久しぶりにスケートパークにでも行くかな」
「馬鹿か貴様は」
「?」
ドライヤーの騒音に混じって、ブラッドのわざとらしくつかれた溜め息が聞こえてくる。
「俺の質問の意図くらい考えろ」
「糸……?」
アキラが繰り返した言葉の意味に気が付いたのか、背後から剣呑な空気が流れてくる。流石にこれ以上ふざけて怒られたくはない。アキラは湿りが消え跳ね出した赤い髪を振ってブラッドへ向き直った。
「なんか頼みたい用事でもあるのか?」
彼はメンターリーダーであり、アキラを担当するメンターであり、大切なチームメイトだ。それ以上に親密な関係であるが、この会話の流れでその可能性は当然除外した。
しかし、どうやらブラッドにとっては違ったようで、二人きりの時に見せる緩んだ気配を纏いながら首を横に振り、左手を持ち上げる。提案する時に行う、彼の癖だ。
「……ドライブに行かないか。会議が一部リスケとなり、午後はオフになった」
アキラは予想外の言葉に目を瞬かせた。首を傾げると、気恥ずかしさを感じているのか視線が落ちるブラッドを覗き込む。
「先週も行ったじゃねーか」
「行ったが、お前と二人ではなかっただろう」
ブラッドはそう言って、アキラの目を大きな掌で塞いだ。視界は閉ざされ見えないが、彼はいまどんな顔をしているのか。考えただけで口元が緩む。ケケケ、と意地の悪い笑い声を漏らしながら、アキラは挑発するように尋ねる。
「ンだよ、そんなにオレと二人でハイウェイを走りてぇのか?」
「……嫌ならスケートパークにでも行けばいい」
拗ねた声が唸る。アキラは未だ視界を覆う掌を掴み引き剥がすと、指先に口付けを落とす。そして、喜びを満面に浮かべ笑った。
「嫌なんて言ってねーだろ。ぜってぇ行くに決まってんじゃねーか」
ブラッドから誘われることは珍しい。大抵はアキラが駄々をこねたり拗ねたりと、あの手この手で彼の予定についていったり、時にはブラッドがアキラの都合などお構いなしで予定を奪ったり。
つまり、どちらも強引な手段でお互いの時間を作ることが多いのだ。
「……そうか」
「っ」
アキラの返事に安堵したのか、ブラッドが喜びに目を細める。口元を緩め、優しく微笑む。普段の張り詰めた顔とは違う、近しい相手に見せる彼の柔らかな表情は、その整った造形もあって心臓に悪い。
アキラが反射的に熱くなる顔を必死に戻そうと頬をつねっていると、その行動を静かに眺めていたブラッドが口を開く。
「なら明日、予定が終わり次第メッセージを送る。準備を怠るなよ」
「じゅんび……?」
ただ午後、ハイウェイをドライブするだけで、何の準備がいるというのか。ぽかん、と口を開くアキラに、マゼンタが仕返しだと言わんばかりに意地悪く細められる。
「夕食はルームサービスで構わないだろう」
「……っ! な、ん……ッ」
意味を理解したアキラは、今度こそ顔を朱へと染めた。言葉を詰まらせ、はくはくと口を動かせば、ブラッドは子供っぽく鼻を鳴らす。
「嫌なら、スケートパークに行けばいい」
大人気ない。
言いたかったが、最初に仕掛けたのは自分だ。アキラは悔しそうにギリギリと歯を鳴らすと唸るように言った。
「ぐ、ぬ…………ぜってぇ、行く」
「そうか」
覚えてろよ。恨みを込めてジト目を向ければ、ブラッドは得意気に微笑んで肩をすくめた。