残念ながら兄にはなれなかった アキラはソファーに座る男に気付き肩を揺らした。早い就寝だったせいか、中途半端な時間に目が覚めてしまった。乾いた喉に水を飲みに出てきた、深更のことであった。
「おわっ……なんだ、ブラッドか。まだ起きてたのかよ」
幽霊かと思った。そんなことを言えば怖がっていると思われるのが嫌で、憎まれ口を叩いてしまう。けれど、本当に幽霊かと思うほど存在感がなく、照明を落とした中に光る唯一の端末は、整った造形に不気味な影を作っていた。
ブラッドは端末から顔をあげると、アキラの姿を視界に捉えるなり呆けた声で言った。
「……アキラか」
「そーだよ、オレだよ。……ったく。電気くらい点けろっての」
ぼんやりしていたのは集中していたせいか。アキラはリビングのローテーブルに置かれていたリモコンに手を伸ばす。それを制したブラッドは、首を振って言った。
「いや、光が漏れるとオスカーが起きてしまう。すまないが、点けるならダイニングの間接照明だけにしてくれ」
「ん、わかった」
暗がりのなかで仕事をしていたのはそれが理由か。昇格試験を控え、空き時間を見つけてはテキストを睨んでいるオスカーを思い出し、アキラは頷いた。
文字が読めない上に、慣れないことを続けていれば、脳も普段より負担がかかるのだろう。珍しくブラッドの帰りを待たず部屋へと篭ったオスカーは、勉強を続けていたのかしばらく小さな物音が聞こえていたが、珍しく日付が変わる前には静かになっていた。
ウィルの「邪魔にならないように、ソッとしといてあげよう」という提案に同意して自分も部屋で漫画を読んでいたが、そのまま寝てしまったようだ。起きてみれば夜明けまでは二時間ほど。ブラッドは、おそらく一睡もしていないのだろう。流石に眠気を感じているのか、どこかうつらうつらとしている。
「眠いならさっさと寝ろよ」
「そう思っていたのだが、片付けているうちにタイミングを逃してしまってな。半端に物音を立てて起こしてしまうのも忍びない。今夜はここで就寝するつもりだ」
「……それ、オスカーが知ったら絶対面倒臭せェことになるぞ。つーか、寝ろって言ったけどよ、もうすぐ朝になるじゃねーか」
キッチンで水を飲みながらそう言えば、ブラッドがきょとんとした顔をしながら時間を確認する。気付いていなかったのか。
どうやら、よほど集中していたらしい。眉間を揉み込んだブラッドは端末を閉じると、呆れたジト目を隠そうともしないアキラへと向き直った。
「アキラはまた寝るのか?」
「あ、オレ? ん~……オレは十分寝たし、このまま起きて日が昇ったらランニングでも行ってくるかな」
「そうか」
ブラッドは短く頷くと、カウンターの向こう側にいるアキラ向かって二度、膝を叩いた。こちらに来いと言いたいらしい。
アキラは水を飲んでいたコップをシンクに置くと、ブラッドのいるソファーへと近付いた。表情はいつもと変わりない。けれど、それがただの強がりだということはもう知っている。関係が深くなってからはこうして甘えを隠さなくなったのだから、少しは気を許してくれているのだろうが。
当然のように膝の上へと迎えようとするブラッド。充電だとわけの分からない理由をつけられて何度か彼の腕に収まっているアキラだったが、今日は何故か素直に言うことを聞く気分になれなかった。腕を広げる彼の横に座ると、スプリングが軋む。意外だったのか、驚いた目が向けられる。
「ん」
けれどアキラは、そんなブラッドを強引に引っ張ると、自分の膝を二度、叩いた。いつものポーカーフェイスはどこへやら。ぽかん、と口をあける姿に焦れて、強引に自分の膝へとブラッドを乗せた。抵抗はなかったが、自分よりも一回り大きい男を抱えるのは、やはり少々骨が折れる。
「何のつもりだ」
「べっつにー。いーだろ、今日ぐらい」
いつもと逆の体勢に羞恥が残るのか、膝の上でもぞもぞと動き始める。アキラはそんなブラッドの体に手を回して引き寄せると、背中を小さく叩き始めた。
「オレのこと、いつも抱っこしたがるけどよ……たまにはされるのも悪くねーだろ。ほら、明日……つか今日も忙しいんだから早く寝ろって」
とん、とん、とん。
寝かしつけるような一定のリズムで、ブラッドの大きな背中を優しく叩く。最初こそ年下に子供扱いされることは自尊心が許さなかったのか、気難しいため息をついていたブラッドだったが、アキラの拙いけれど懸命な動きに諦めたのか、肩にことん、と頭を乗せる。相変わらず素直になれない男だ。
「十五分経ったら起こしてくれ」
そう短く告げて、五秒と経たず寝入った姿に、アキラはため息をつく。
暗がりの中で端末を見て目が疲れるのなら電気を点ければいいし、眠いのならオスカーのことなど気にせず部屋に入ればいい。気遣いが無意識に癖付いた男は、肉体管理を意識していても精神管理に疎いところがある。それでも、甘えたい時にアキラを甘やかすことで欲求を満たすようにはなったのだから、少しは自身に優しくなったと思いたい。とはいえ、きっとその性質すら、兄由来のものなのだろう。
「まあ、たまにはお前が抱っこされてもいいんじゃねーの?」
アキラははねた髪に唇を落とす。起きる気配はない。よほど疲れていたのだろう。確認して、ブラッドを抱え直すと足を力強く踏ん張りゆっくりと立ち上がる。
「ん、ぐ、ぎぎ……」
やはり一回り大きい体を運ぶのはバランスが取りにくい。アキラはよろよろと拙い足取りで、けれどしっかりブラッドを抱えたまま自室へと戻った。ウィルを起こさないよう息を潜めてベッドに向かうと、寝入った男をシーツの上へ優しく落とす。
「さて、と。とりあえず朝飯でも食うか」
皆が起きてくるまでまだ時間はある。食事を摂ったらランニングに行って、朝飯でも作ってやるか。ついでにコーヒーを淹れてやってもいい。着替えを持ってリビングに出たアキラは体を伸ばした。
「ケケケ、どうせなら今日はブラッドの兄ちゃんになって世話してやろうっと♪」
そんな調子付いた考えを巡らせた結果、数時間後コーヒーマシーンを壊してしまい、三人から呆れたため息を落とされることを知らないアキラは、歯を見せて悪戯気味に笑った。