I love it ! 紺碧の海原は夜の色を吸い込み、波の上に溢れてくるピアノの音色を揺籠のようにそっと揺らした。切り立った崖の上にある豪奢な建物はカジノ・コニーリエ、まるで中世の城塞のような威風を感じる佇まいのここは、一定の資産を持つものでなければ足を踏み入れることさえできないシークレットカジノだ。各国の名のある資産家が訪れ、ゲームに興じ、一晩の夢に溺れる場所。
テーブルの合間をタイトなバニースーツに身を包んだ女達がピンヒールで縫うように歩き回る。客の中には気に入った小ウサギにチップを弾むと滞在中にホテルのスイートへ連れ込めるという噂が実しやかに流れており、美女揃いのバニーガールに目敏い視線を投げかける男性客も少なくない。
今夜、男は当に羨望の視線を一身に浴びながら騒々しいホールをあとにした。とてつもなくいい気分だった。ブラックジャックはカウンティングが奇跡的にうまくいったし、ルーレットホイールをスピンしたボールは彼が一点賭けしたラッキーナンバーに落ちた。いま腰を抱くことに成功した可愛い小ウサギは格別の美形で目にしたときから狙っていた。
寄り添って歩けば、同じような考えの男たちから揶揄ともやっかみともとれる視線が送られてくる。銀色に輝く白い髪がシャンデリアの光を跳ね返し、太陽の降り注ぐ地中海の色を湛える瞳がしどけなく微笑めば、誰が見ても今夜このカジノに降り立った幸運の女神は彼女だった。小ぶりだが、掴みたくなるようなカーブを描く尻にちょこんとついたふんわりとした丸い尻尾も男の胸を高揚させる。人生の中でうまい話には乗ってみるものだ。昨日までの煮湯を飲ませされるような思いが吹き飛んでいくようだった。
喧騒を離れ外廊へ廻る。月明かりのない夜が欄干の向こうに広がり、絶壁に聳え立つこの城塞はまさに世界から切り取られた空間だった。有り余るほどの金を手にし、一夜にして何倍もに膨れ上がる。このまま何でもできるような気分になった。
暗がりに入ると男は傍らの細腰をさらにぐいっと引き寄せた。甘い香りが鼻腔をくすぐる。男の関心はもはや、チップを集めることよりも如何に彼女を口説き落とすかという算段に占められていた。ホテルの部屋までは歩いて十五分。頭が興奮していて大人しく待っているのが急に馬鹿らしくなった。人の流れから離れたいま、少しくらいつまみ食いをしたところで構いやしないだろう。
「…あの、そろそろぼく戻らないと」
美しい貌と完璧なスタイルを持ちながら、彼女はまるでスレてない物言いで透き通った瞳を向けてきた。日頃玄人女しか相手にしていない男の目には随分新鮮に映る。こんなに露出度の高い服を身につけているくせに、白い肌が彼女の純潔を表しているようで急に無茶苦茶にしてやりたくなった。劣情をぶつけてやったらどんな顔をするだろう。拘束して泣き叫ぶのを愉しむのもいい。しばらく退屈とは無縁になりそうだ。
男は彼女の腕を掴み壁へと押しつけた。間近で戸惑うように白い睫毛が震えたのが見えて、むくむくと膨らんできた嗜虐心に思わず舌なめずりをする。柔い肌に唇を寄せれば、ぴくりと後退る仕草に頭の奥が燃えるように熱くなった。
「こ…、こんな、とこで…っ」
「大丈夫、見て見ぬフリしてくれるさ」
「僕は構わないけど、あなたは有名人では? …んっ」
ジュッと音を立てて首筋を吸ってやると甘い声で鳴いた。興に乗って下半身を太ももに押し付けた。すり、と腰を動かすと可愛い反応がかえってくる。
彼女の言う通り、男は顔も名前も売れたベテランレーサーだ。今までに数々のグランプリを制覇した実力者。だが先日、このカジノ併設のサーキットで行われた大会でデビューしたばかりの若手レーサーに負け、違う意味で世間から注目を浴びている。
はっ、と乾いた笑いが思わず漏れた。
「会長の息子に花を持たせろって、大金積まれたんだ。しばらく遊んで暮らせんだよ」
「大金…、それって八百長ってことですか」
「そう。あの髭会長、コッチの弱みにつけ込んでくるなんて卑怯だよなァ」
男は半ば自暴自棄になりかけていた。今まで築いてきたキャリアと評価を一回で地に落とされたのだ。自分より秀でていたわけでもない、七光りのただの若造に。それならばカジノでありったけの金を注ぎ込んでやろうかと思った。
「でも、そんなこともうどうでもいい。メチャクチャにいい気分だ。…なぁ、オレとここを出て自由にやろうぜ。悪い話じゃないだろ」
細い顎に指をかける。見開いたアイスブルーに吸い込まれるように顔を近づけた。艶のある唇を味わおうとした、そのとき。
ガチャッ。
重く弾ける金属音とともに、こめかみの辺りに突きつけられたもの。
背筋がぞくりとした。いつの間にか自分達を囲い込むような影が差していることに全く気がつかなかった。
「ハイ、バ──ン」
神経に触るようなざらついた声だった。
たったそれだけで身動きが取れないほど、本能が全身に警告を発している。恐怖。
――ようやく視界のはしに捉えられたのは、鈍く光る銀色の銃口を差し向ける黒い男だった。
「…困るんですよ。当カジノでは、小ウサギを勝手に連れ回すのは禁止事項でね。あなたがかの有名な負け犬レーサーじゃなきゃ頭ブッ飛ばしてました」
「……っは、」
気力を振り絞って男に向き直る。艶やかな仕立てのいい三揃いのスーツに包み込まれた体は、すらりと長く、それでいてその下に培われた筋肉を思わせるしなやかさだった。ひと目で怯んでしまうほどの威圧感を訴えかけてくる。にこりと切れ長の黒い瞳が笑いかけるが、銃口は依然として突きつけられたままだ。
「オーナー…」
身をすくめた可愛いバニーガールが小さく呟いた。
──聞いたことがある。カジノ・コニーリエの支配人は若い東洋人で、恐ろしく頭が切れるがどうにもイカれている──そんな噂を。
完全に気圧されていた男は、その顔を見るなりチリ、と腹の底が焦げつくような苛立ちを感じた。どいつもこいつも若造のくせに涼しい顔をして、俺を負け犬だと蔑んでくる。きっと目を眇めるだけで何人もの女たちが寄ってくる、きれいな顔が腹立たしい。
「これはとんだ血生臭い店だ。女ひとりに目鯨立てて客を殺そうってのか? 生憎だなァ色男、誘ってきたのはアンタのとこの小ウサギのほうなんだぜ」
男は傍らの細腰へと手を伸ばす。ぎょろりとふたつの黒い目玉が追ってきた。底無しの夜の海を思わせる、真っ黒な睛だ。
しかしやわらかな腰を抱くはずの手は空しく虚空を掴んだだけだった。目の前にいるのに触れることもできず、彼女はいつの間にか支配人の男の腕の中に囚われていたのだ。
「Stronzo! 何しやが…ッ、ぐ…ッ」
一歩前に出た男を冴え冴えと見下ろしながら、黒い瞳の男は躊躇いなく引き金を引いた。空気を切り裂く音は一瞬で、左足が燃えるように熱くなって呻く。がくんと蹲ってようやく、撃たれたことを理解した。
「これは失礼、言葉が足りなかった。──汚い手で二度と触るな、と言ったつもりだったが伝わらなかったな。足一本で不満なら、その小さい脳みそのなかに銃弾ブチ込んでやろうか?」
「ひ…っ」
銃口が再び光った。真っ直ぐに額を狙っている。
このカジノの支配人は、イカれている。──掴み所のない噂は警告であったのかもしれない。脅しでも何でもなく、人を殺せる人間だ。
「ああ、でも一応聞いておこう。ねえ、きみはこの男を選ぶの?」
一見柔和な──しかしひとつも優しさのない笑みを浮かべて、支配人の男は腕の中の体をぴたりと抱き寄せる。
潤んだ青い瞳が怯えたように男を見た。
***
──やっっっべぇ……!
強い力で腰を抱かれて、力を入れて抵抗しようにもびくともしない。悟は困り顔でターゲットを見下ろした。銃で脚を撃たれた男は青い顔をしている。
正直、目的はもう果たしたのでこんな男どうでもいいが、この厄介な支配人に捕まってしまったのは大誤算だった。
明日まではローマに留まると聞いていたから実行したのに、これでは計画が台無しだ。さきほどからの言動を見てもキレているのは明白だし、なにより指が食い込みそうなほど掴んでいるこの力がただで済ますつもりはないと言っている。
「残念だが、きみがこの男を選ぶのなら私はこの場で無駄な殺生をしないといけなくなるね…」
笑みを浮かべたまま、逃げ場をなくしていく男をゾッとするような冷たい双眸で睨みつける。確実に怒っているくせに嫌がらせをする余裕はある男の、絶妙に緩んだ口の端が猿芝居に乗れと唆していた。
「…そ、そのひと、殺さないで…っ、僕が声を掛けたんです! オーナー、どうか」
儚く見えるように縋り付き、目を伏せて項垂れる。しかしひとが精一杯の演技をしているというのに、ビスチェとショートパンツの間に長い指が滑り込んできて肌の上を弄った。このすけべ親父が。間違って感覚を拾わないようにぐっと堪える。
「──では、忠誠のキスを」
「え」
ぐい、と逞しい体に沿うほど抱き寄せられた。頭ひとつ分低い悟に合わせるように屈むと、間近でにっこりと微笑む。
「きみを信じるに足る証拠に。これから絶対に私を裏切らないと誓って。君から私にキスをして」
──コイツ…………!
細められた瞼から垣間見える瞳には、まだ怒りが燃えている。このままタダで済ますつもりはないと語る目だ。背筋を冷や汗が流れた。
ターゲットはいつの間にか撃たれた悲壮感も忘れてしまったのか、ただポカンと自分達のやり取りを見ていた。今、この支配人を蹴り飛ばして一瞬の隙を作ることは可能だけれど、どうせ後ろには黒服がいつでも出られるように待機している。このカジノの設計を考えると逃げ場は切り立った崖しかないし、逃げ切れる確率は僅かもない。
「どうしたの? 誓えないのならこの男はそこのバルコニーから投げ落とすしかないねぇ」
「…………」
ターゲットの男がヒッと息を飲んだ。上機嫌に振る舞っていても、海に投げ込むと言うのはこの男の場合決して冗談などではないと正確に理解している。
すり、と腰に忍び込んでくる手を押し退け、ジャケットの襟を掴む。力任せに引っ張って、鼻先が触れる距離。微かに香る男の匂いに頭が一瞬がくんと揺れる。
身体の震えは、うまく隠せたつもりだった。
微かに口元が吊り上がった気がした。笑った──そう思った瞬間、唇が掠めたのを合図にするように食いつかれ、口を吸われる。
「ン…っ、…っふ、……ッ!」
長い舌が口腔を蹂躙する。じゅ、と唾液をかき混ぜられ、逃げても舌を絡められ、退路を完全に封じられる。厚い胸板は押し返してもびくともしない。太腿に滑り込んでくる手の感覚に、つい甘い声と吐息が漏れる。そんな場合じゃないのに。
グッと体に力を入れても、抱かれた腰を支えていられない。頭の中に響く粘着質な音が危機感も正常な判断も掻き消そうとけしかけてくる。
短いパンツの裾をめくり忍んできた指が脚の付け根を探り始めた。
──この……っ!
渾身の力を込めてドンと壁のような胸を叩く。何の抵抗にもならないけれど、不満は伝わったらしい。
ようやく男は口づけを解いた。ホッとするのも束の間、耳に齧り付かれて「ひぁッ」と声が出た。ぼそり、耳元でダメ押しのように落とされた言葉に息を飲む。
悪い顔でにやりと笑うと、男は抱いていた腰を掴み直して悟を軽々肩に担ぎ上げた。上品に光革靴の足下に蹲ったままの客にようやく語りかける。
「アイビーさん、小ウサギを私用で連れ回すとゲームの配当金の二十倍を申し受けることになっています。お支払いいただくまで特別な部屋をご用意いたしますので、足が治るまでぜひご利用ください」
「に…ッ、二十倍!? そんな法外な条件、こっちが飲むワケねぇだろクソ野郎!」
「そうですか。じゃあその体、バラして売ることになりますね。高く売れるといいのですが。──連れていけ」
「…ッ!? な、なんだ!!」
ひたり。暗い海を思わせる笑みが顔に貼り付く。
物陰から音もなく現れた数人の黒服はこれより囚人となった元客の周りに群がり、抵抗する四肢を難なく押さえて布を被せると、その上から縄で巻き始めた。
「おい…ッ、やめろ! やめてくれ…!」
一切の作業を無言で行う男たちに恐怖を覚えたのか、体の自由を奪われていく男は引き攣った顔で叫んだ。
既に踵をかえし、捕獲したとでも言うように小ウサギを抱えて去っていく背中は振り返ることもなく、もはや声にならない唸り声が崖の下に打ち付ける波の音に消されるばかりである。
****
乱暴にベッドへ放られて、悟は夏油の怒りが頂点にあることを自覚した。
なんだかんだ、自分に甘いところもあるこの男は二人になれば冷酷な支配人の面を脱ぐだろうと──思っていた目論見は完璧に外れたらしい。恐ろしい表情で自分を見下ろすギラついた瞳は、さきほどの客に見せたのとは比にならない。
「…ここには立ち入り禁止とあれほど言ったはずだが?」
じろり、刃物のような切れ味で睨まれる。VIP用のロイヤルスイート、その広いベッドの上ではただ縮こまるしかなく、悟は口を尖らせてそっぽを向いた。頭につけた長い耳がふるりと揺れる。
「何でこんなに早く帰ってくんの? 明日までローマじゃなかったのかよ」
「真っ白な小ウサギが紛れ込んでいると報告を受けてね。慌てふためいて帰ってきたよ」
はぁ、とわざとらしくため息をついてやるとさらに顔を引き攣らせた。あまり煽るのはよくない結果を招く気もするが、悟だって目的があってやったことだ。ここで折れるのは面白くない。
「まったくバニーガールの格好なんて……はしたない…」
「オマエが言うな!」
大袈裟に顔を覆って嘆く男に思わずクッションをぶつける。さっき好き放題触ってきたのはどこのどいつだ。
成り行きだったけれど、芝居に乗せられて交わしたキスを一緒に思い出してしまい、体の中に残っていた火種がじわりと蘇る。今頃になって顔が火照るように熱くなってきて、まともに夏油の顔を見られない。
「キスと、あと何をされた?」
「……っ、キス、されてない……」
「え?」
「オッサンとキスする気はなかったし。キンタマ蹴り上げて逃げようと思ってたところにオマエが来たんだけど」
もう欲しいものは録れてたし、と、カフスにつけておいたバッジを外して放り投げる。軽くキャッチした夏油は一瞬呆気に取られたが、手の中のものを確認して再度眉間の皺を深く刻んだ。
「レコーダー?」
「この間の試合、会長に言われて八百長したんだってさ。あの髭じじい、俺がほぼ出資してるもんだとか言って経営にまで口出してくんだろ。スキャンダルで多少炙っといた方がいい」
「そんなこと……わざわざ悟がやらなくても、」
「僕が! やりたかったの!」
夏油は多分、喜びはしないだろうと思っていた。それどころか自分がカジノに近付くだけで不機嫌になる男だ。生まれついた家業に縛られる必要はないと事あるごとに言ってくる彼は、悟の人生の選択肢を狭めたくないという考えを未だに崩さない。時に親代わり、兄代わりとなってきた叔父の心境は複雑なようだ。
「僕だって、傑の役に立ちたい」
勢い任せに吐き出したら、思ったよりも素直な気持ちが出てしまって恥ずかしくなった。さらに赤くなる顔を見られたくなくて、膝を抱えて顔を埋める。垂れた兎の耳のせいでしょんぼりとして見えるのはご愛嬌だ。
幼いときから彼のことが好きだった。
今更自由に生きろと言われても、夏油の隣に並べるならそんなに汚い仕事でもいいと悟はずっと考えている。
大事に守られ遠ざけられて、口に出せはしないけれど。
「悟…………」
少しの沈黙のあと、夏油はフーと長いため息をついた。お説教は諦めたのか、ぐりぐりと眉の下を揉み込む。
「とりあえず今夜はここで大人しくしていろ。外から鍵を掛けるから抜け出そうとしても無駄だ。迎えは明日の朝、ミゲルを寄越すから──」
話を切り上げて部屋を出て行こうとする、その腕を掴んだのは衝動的だった。
自分のために駆けつけて戻ってきてくれたのが嬉しい。他の男に触られたことを怒ってくれるのが嬉しい。
──でも、大切に仕舞われるだけではもう、嫌だ。
「悟?」
「…………さっき、キスした責任……取ってくれないの」
「あれはきみが勝手なことをしたことへのお仕置きだ。あんまり男を甘く見ると酷い目に遭うからね」
やんわりとやさしく悟の手を解こうとする。さっきはあんなに、乱暴に抱き寄せてきたのに。
自分じゃない、他の女はあんなふうに抱いているのかと思うと胸が熱く痛んだ。
いけない。聞き分けなくなってしまう。
そういうところが子供なのだと、自分でも思うけれど。
「だって傑、いい子にしてたらご褒美あげるって言ったじゃん」
ほどいた指を反対に絡めて握り返す。おかしいくらいに震えていた。
これは切り札だ。みっともなくても縋って、ねだって、情けをかけてくれるなら、一度だけでも。
「僕、他の男なんか嫌だ。初めては……、傑がいい」
どちらにせよ傷つくのなら、その熱を知ってからでもいいと随分前から決めている。