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    ほのか

    @honoka_annsuta

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    ほのか

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    桜舞う夜に君を想うのエロシーンを抜いたものです。
    とはいえ、情事前と情事後の描写はありますので、苦手な方は注意してください。

    桜舞う夜に君を想う新しい仕事の依頼について、恋人の北斗から話を切り出されたのは、冬の寒さも少しずつ和らいで、周りも少しずつ春めいてきた頃のことだった。
    「着物のイメージキャラクター?」
    衣更はきょとんとして問いかける。
    「ああ。俺は受けようと思っているんだが、どう思う?」
    北斗と2人で寮の共有スペースで茶を飲んでいるときに、着物の会社からオファーがあったのだが、と切り出されたのだ。
    反抗的と言われるTrickstarだが、衣更自身は決してそんなことはない。そもそも、北斗自身も仕事に対してそこまで反抗的なわけではないのだが。
    興味のある仕事はもちろん、さまざまな種類の仕事を受けてみたいと思ってもいる。
    だが、今回の仕事の話が聞いて、意外に思ったのは事実だ。
    「俺は別にいいけどさ。着物なんて紅月の方が合うような気がするんだけどな」
    ESのアイドルの中で和のイメージというと当然紅月だろう。
    「俺もそう思ったんだが、どうやら今回のコンセプトは普段着物を着ていない人たちに着物に親しみを覚えてもらいたいってことらしくてな。紅月は完成度が高すぎて、親しみを感じさせないらしい」
    「なるほどな」
    確かに紅月は普段から和装っぽい服装が多い。着こなしも完璧だろう。だが、彼らを見て、素敵だと憧れを抱くことはあっても、自分たちが着てみたいとは思い難いのかもしれない。
    対して、自分たちTrickstarは今まで和のイメージを出したことはほとんどないし、他のアイドルと比べて距離も近い。そのため、着物を身近に感じさせるために最適だと思われたのだろうか。
    「そういうわけだから、やってみたいんだがどうだ?」
    「いいぜ。せっかくだし、新しいことに挑戦してみようぜ!」
    報酬その他の条件は聞いてないが、リーダーである北斗が乗り気なら反対する理由はない。
    「そうか。実は明星や遊木にもメールを送って、了解は得ているんだ。撮影は俺とおまえ、明星と遊木と分けて撮影するらしい」
    「へぇ?そうなんだ。それは珍しい組み合わせだな」
    2人組になるときは、衣更はスバルか遊木と組むことが多い。
    だが、北斗との撮影を忌避するわけではなく、むしろ嬉しく思えた。
    「そうかもな。それで、その……」
    北斗にしては珍しく言い淀んだ。
    「どうしたんだ?」
    「そのスポンサーから着物がもらえるんだが……。それを着てみないか?」
    「へ?」
    北斗の提案に衣更は少し目を瞬かせる。
    「その……あまり、着物に慣れてなくてな。もちろん、撮影などはポーズや動作の指示があるとは思うんだが、言われたとおりに動ける自信がないんだ。無論、話はしてある。俺たちは着物には不慣れだと。向こうはそれも承知の上で、その初々しさもほしいとは言われたが……」
    動けないのは話にならないと告げる。
    「確かに正月に着るぐらいだし。確かにポーズが取れないのは困るしな。多少慣れた方がいいかもな」
    衣更も着物はもちろん慣れていない。そのため多少は着慣れた方がいいかもしれないと賛意を示した。着物をアレンジした衣装も何度か来たことがあるが、あくまでアレンジされた物で、かなり動きやすい衣装だったことが多い。
    それに舞台で着ることはあっても日常着る機会はほぼなく、アピールするにしても自分の体験があった方がいいに決まっている。
    「今度のデートで着てみたいと思ったんだが、どうだ?」
    次のデートは決まっている。
    来週の週初めに珍しく2人のオフが連休で重なったので、北斗が祖母の知り合いが経営している、貸別荘で過ごさないかと誘い、衣更がそれを了承したのだ。
    「いいぜ。出かけるときから着ていくか?」
    その貸別荘は少しだけ遠いので、車で行く予定だ。着物だと運転しづらいかもしれないので、確認する。
    「いや、あっちで着替えればいいだろう。確認したが、宣伝前に俺たちが着たり、それを人に見られるのは構わないが、ここから2人が着物着て行くと目立つかもしれない。幸い、化繊でできた、そこまで扱いに気を遣う着物ではないらしいし」
    物によっては広告前に商品を見られるのはNGとしているものもあるが、今回は先に見られて、広告になる前に話題になるのもありだという判断らしい。
    むしろ他のメーカーの着物を着ているのを見られる方が問題ということだ。
    「なるほど」
    確かに高級志向なら、それこそ紅月などに依頼が行くのだろう。自分たちに求められているのはカジュアルであり、親しみやすさだ。
    それに車なので、荷物が多少増えても問題はないだろう。
    「……その…悪いな」
    「何が?」
    少しばかり申し訳なさそうな表情をしている北斗に衣更は少し目を瞬かせた。
    「いや、その、せっかくのデートなのに、仕事の話をしてしまって……」
    北斗は少し視線を逸らしながら、ぼそぼそと呟く。
    北斗は普段公私をしっかりと分けている。付き合い始めるときも、仕事中は恋人ではなく仕事仲間として接しようと衣更にも約束させていた。
    だからこそ、逆に恋人の時間に仕事のことを入れてしまうことに罪悪感を抱くのだろう。
    「別に仕事って程でもないだろ?デートに着物着ようぜってだけだ」
    気にすんなよ、と言うように衣更は笑いかける。
    「……そう、だな」
    「だが、おまえが気になるなら、無理に着物デートにしなくても、他で慣らしても……」
    ぎこちない様子に思わずそう提案してしまう。
    衣更自身はそれほど気にしていないことだが、北斗がそこまで気にするなら、着物を他で着てみてもいい。
    「いや。その……」
    「何だ?」
    「俺が……一番に見たくて。俺は見本を写真で見せてもらったんだが、おまえに似合いそうで。だから……その……」
    (何この可愛らしい理由)
    普段クールと言われる北斗の白い肌がほんのりと染まっている。
    だが、何となくわかった。
    仕事にかこつけて、自分の着物姿をみたいということなら、余計に公私混合した感じになっているのだろう。
    「俺もおまえの着物姿は見たいな」
    くすりと笑ってそう告げる。
    衣更はまだ話を聞いただけで、彼が着るという着物は見ていないが、端正でほっそりとした色白の彼に着物はよく似合うだろう。
    そして確かに恋人の普段とは違う姿を誰よりも先に見たいというのはわからないでもない。
    「そ、そうか?」
    少しだけ照れたように笑う。
    「ああ」
    北斗は衣更よりは和装の仕事も多いので、見たことがないわけではないのだが。
    「着物は今度渡すから」
    「わかった。そろそろ寝るか?」
    2人とも明日も当然仕事だ。
    2人っきりの時間も名残惜しいが、休まないといけないし、寮という性質上、夜遅くまで共有スペースを占拠して話し続けるのもあまり好ましくない。
    「そうだな」
    北斗も仕方なさそうに頷くと立ち上がる。
    自分たちの関係が仕事に影響を与えることはお互いに許せることではないのだ。
    「じゃあ、おやすみ。北斗」
    「ああ。おやすみ、衣更」
    衣更は辺りを見渡して、誰もいないことを確認すると北斗の頬に軽くキスを落とした。
    「おいっ!」
    「大声上げるなよ。誰か来るかもしれないだろ?おやすみのキスくらいで怒るなって」
    「怒っているわけじゃ」
    うっすらと頬を染めて北斗はそれだけ告げる。
    「そっか。それならいい。おやすみ」
    「あ、ああ」
    そう言って北斗も衣更の頬にキスをした。
    「へ?」
    「おまえだけじゃ不公平だろ」
    プイッと顔を叛けながらそれだけ告げる。
    (相変わらず、負けず嫌いだな)
    彼のそういうところも好きなのだが。
    「そうかもな」
    「あと」
    「ん?」
    「デートもおまえの着物姿も楽しみにしているから」
    それだけ少し照れた声で告げると、そのまま自室に去っていった。
    残された衣更は少しだけ頬が朱に染まる。
    (ああ、もう!俺だって楽しみにしているんだからな!)
    言い逃げをした北斗に対して、心の中で悔し紛れに呟いた。


    約束の日。
    予定通り衣更の運転する車で訪れたのだが、言われた場所に到着した衣更は思わず目を瞬かせた。
    「なあ、北斗。ここで間違いないのか?」
    目の前にあったのは何かの撮影に使われそうな風情のある日本家屋だ。
    「ああ」
    「あのさ、こんなことを言うのは野暮かもしれないけど、高いんじゃないか?」
    北斗の知り合いから借りるということで、具体的な金額を聞かずに了承したのだが、懐具合がそこまで豊かでないため、少々情けないことを聞くことになってしまう。
    「あ、いや……。元々そんなに高い場所じゃないんだが。今回はかなり格安なんだ」
    「へ?」
    もしかして知り合いということで安くしてもらったんだろうか。
    北斗の口調が少しだけ歯切れが悪いのも気に掛かる。
    「何か訳あり?」
    「まあ、な」
    あまり言いたくないのだろうか。
    「別に法に触れるようなことじゃないぞ?」
    衣更の微妙な表情に気づいたのか、苦笑して付け加える。
    「わかっているって」
    Trickstarは暴走車に喩えられるし、北斗が突っ走るタイプなのは事実だが、それはTrickstarに関わることだけで、それ以外は基本的には真面目で品行方正なのだ。
    「中に入るか」
    北斗は手慣れた様子で、鍵の入ったボックスに暗証番号を打ち込んで鍵を取り出し、扉を開けて中に入っていく。
    続いて中に入った衣更は物珍しげに中を見渡す。
    こぢんまりとした大きさだが、手入れが行き届き、古風な感じで高級そうに見える。
    持ってきた荷物を適当に置いた後、座布団を持ってきて腰を下ろした。
    「茶でも飲むか?」
    「ああ」
    「じゃあ、淹れるから待っていろ。庭の桜も綺麗だから、縁側で飲もう」
    そういうと北斗はそのまま慣れた様子で台所へと向かう。
    衣更はこんな一棟丸々借りる経験は初めてだが、ホテルや旅館よりも落ち着くなと思う。広さも違うし、一応有名人の端くれであり、偶像でもある自分たちは人目を気にする。如何わしいホテルでなければ、ファンに見つかっても「仕事で」の一言で済むのだが。(仲良しユニットと認識もされているので、オフが重なったので遊びに来たでも問題はない)
    だが、ビジネスホテルなどは防音も微妙であるし、部屋を一歩出るとやはり気を遣う。好きでこの仕事を選んだのは間違いないが、そう言った不自由さや煩わしさを感じる時はある。
    だが、ここは周りに家があまりないし、一軒丸ごと借りているので解放感が大きい。
    (相場はいくらぐらいなんだろう?たまには贅沢してこういう貸別荘も悪くないかもな)
    そんなことを思っていると、北斗がお盆に湯呑みを乗せて戻ってきた。
    「おまたせ。こっちだ」
    声をかけた後、再び歩き始める。衣更も立ち上がり、北斗の分の座布団も手にして、そのまま付いていった。


    北斗がお盆を片手に障子を開けると衣更は思わず目を見張った。
    そこにあったのは艶やかに咲く一本のしだれ桜。
    大木と言ってもいいそのしだれ桜はよく見かけるソメイヨシノよりはやわらかな色がついており、少しだけ風に揺られている。
    「綺麗だろ。満開の時期に来られてよかった」
    衣更の様子に北斗はちょっと自慢げに告げると、縁側に腰を下ろして、隣に座るように促した。
    「ああ」
    淡い色だというのに、その庭を圧倒する色彩。
    目を奪われるというのはこう言うことなのかもしれない。
    「ほら」
    「ありがとう」
    差し出された茶を飲むと、少しぬるめだ。緑茶のはずだが、独特の渋みよりも甘みを感じる。
    「いい茶を用意してくれていたみたいだ」
    だから、少しぬるめの湯で淹れたと付け加えた。
    「そうか。美味いな」
    美しく咲く桜を見ながら、好きな人と茶を飲んでのんびりと過ごす。何という贅沢だろうか。
    微かに花を揺らす風がちらちらと桜の花びらを散らせる。
    茶を飲み終わった北斗はお盆に湯呑みを乗せ、お盆ごと脇に置いて、衣更との距離を詰めた。
    「北斗?」
    ほとんど密着している状態になった北斗に衣更は少し目をぱちくりさせた。
    2人っきりの時でも北斗は自分から近づいてくることはあまりない。
    もちろん衣更が近づいても離れていくことはないが、自分から近づいてくるときは北斗が自分に甘えたいときだけ。
    「駄目か?」
    少しだけ不安げな表情。
    「そんなこと言ってないだろ」
    衣更は優しく微笑んで北斗と同じように湯呑みを脇にあるお盆に乗せた後、北斗の身体を抱き寄せた。
    人の温もりを感じさせないような冷たい身体。
    北斗が自虐しているとおり、北斗の身体はいつもひんやりとしているが、本当にたまにだが、その冷たさがやけに不安にさせることがある。
    風に揺れる葉擦れの音と、お互いの息遣いしか聞こえない。
    まるで、世界に2人っきりしかいないような、そんな錯覚を覚える。
    いつもとは違う非日常的な空間にいるからだろうか。衣更は自然に北斗の唇に自分のそれを重ねていた。
    初めは触れるだけの口づけ。
    やはり自分の体温よりも低いのだろう。やわらかいけれど、ひんやりと感じる唇に自分の熱を分け与えたくて、だんだんと深くなっていく。
    無意識のうちに逃げないように北斗の頭を固定し、口付けを繰り返す。息をするためか、微かに開いた唇に舌を割り入れて口内を犯す。
    「……んっ…ん…」
    北斗の身体から力が抜けて強張りが解けるまで何度も何度も。
    北斗から苦しげな吐息が零れ落ちる。だがそれだけでなく、どこか甘えるような声が漏れていた。
    ゆっくりと押し倒して覆いかぶさると、普段怜悧な光を宿す瞳は生理的に浮かんだ涙で僅かに潤み、ビスクドールのような白皙はほのかに朱に染まっていた。半開きの唇は紅く色づき、口の端からはどちらともわからぬ唾液が伝っている。
    自分しか知らない艶めかしい姿。
    この美しい恋人の姿をみんなに見せつけて自慢したい気持ちと、自分しか知らなくていいという独占欲。矛盾した感情が衣更の中に湧き起こっていた。
    (って、俺、何してんだよ?)
    北斗の服に手をかけようとした衣更ははっとして手を止める。
    身体を重ねたことは何度もある。今回の旅行でも、多少の期待をしてないと言えば、嘘になる。そのために必要なものもこっそりと荷物に忍ばせてもいた。だが、こんなふうに真っ昼間から、ましてや相手の意志を無視して強引に進めるつもりなどまったくなかった。
    「っとわりぃ」
    慌てて身体を起こして隣に座った。
    北斗も抵抗らしい抵抗はしてなかったので(今までの情事でされたこともないが)、もしかしたらこのまま事を進めても怒りはしなかったかもしれない。だが、今まで相手の意志を確認することなく、押し倒したことは初めてだったのだ。
    「……いや……」
    北斗はゆるゆると首を横に振った。
    「続き、しないのか?」
    少しばかり掠れた声で問いかける。
    「え?しねえよ。……って、その、あのさ……」
    起き上がらずに、続きを問う北斗に衣更は困ったような表情を浮かべた。
    「何だ?」
    「その……」
    「どうした?」
    「その気になっちゃった?」
    深いキスをしたし、自分だって無理矢理離れているが、本当は続きをしたくて仕方ない。こんな庭が目と鼻の先の縁側でするのは論外だが、布団はあるだろうし、仕切り直すのはありかもしれないと思って尋ねる。
    「そういうわけじゃ」
    もごもごとした口調だ。
    「そっか」
    北斗にその気がないのなら、自分が我慢すればいいだけの話だ。
    そんなことを思っていると北斗は起き上がりもせずに寝転んだまま衣更の腿辺りに擦り寄る。
    「あ、あの?北斗?」
    思わず上擦った声が零れる。
    確かに北斗は2人っきりの時甘えたがる時があるし、その時は自分に接触したがる。だが、ここまで露骨に甘えてくるのは珍しい。
    「少しだけ触れていたい」
    「ん、わかった」
    北斗は無自覚に甘えてくる時もあるが、今回はおそらく本人も自覚がある。本人にもわからないような細かな傷が蓄積されている時もあるが、ここまでわかりやすく甘えてくると言うことは、彼の心に直接ダメージを与えた何かがあったのだろう。
    衣更は北斗の頭に手を伸ばすと、優しく髪を撫でる。
    何があったか、とは聞かない。話したければ、北斗は自分から話すし、自分でも何故甘えたくなったのかわからない時もあるからだ。
    ただ、甘えたいのなら、存分に甘やかしてやりたいと思うだけ。
    本当なら自分も寝転んで抱きしめた方がいいのかもしれない。だが、そんなことをしたら、自分が反応しているのことが相手にわかってしまうかもしれない。どうも北斗は自分のことを木石か何かと勘違いしているが、そんなことはない。甘えてきている可愛い恋人を抱きしめて、何も思わないわけはないのだ。
    この髪が見た目よりもやわらかく感じることをどれだけの人間が知っているのだろう。自分だけだと自惚れるつもりはない。それでも、無防備にしている北斗の髪を撫でられることに幸せを感じられると、彼は知っているだろうか。
    「衣更」
    心地よさそうに撫でられていた北斗がぽつりと名前を呼ぶ。
    「ん?」
    「桜。綺麗か?」
    突然問われた言葉に衣更は一度視線を桜へと送る。
    おそらく見頃なのだろう。満開に近い花。はらはらと音もなく散っていく花びら。
    美しいと思う。だが、同時に何か説明しがたい寂寥感があった。
    「綺麗、だとは思う」
    「そうか」
    ぼんやりとした声が聞こえる。それがひどく頼りない。そして、髪を撫でていない方の衣更の手に自分のそれを弱々しく重ねた。
    「北斗?」
    「……やっぱりその気になったから……抱いてくれないか?」
    微かに震える声。
    髪を撫でていた手を止める。
    先程のキスがその気にさせたというよりも、甘えている続きなのだろうが、それにしてもいつもとは違いすぎて。
    衣更は自分も北斗の隣に寝転び、抱き寄せた。
    「衣更?」
    衣更にもわかっている。彼の「抱いてくれ」は抱きしめてほしいのではなくて、性行為を指していることは。
    だが、今このまま懇願されるままに抱いてしまえば、彼が消えてしまいそうな気がして。錯覚なのはわかっているけれど。
    「北斗。悪りぃ。こうさせていて」
    抱きしめて存在を確認したかった。
    貪るようなセックスではなくて、自分の温もりを分け与えるような優しい触れ方をしたかった。
    「当たっているんだが?」
    ナニが、とは言わなくてもわかる。
    情緒のかけらもない一言に軽く苦笑する。
    「言うな。わかっているから!あのな?おまえがどう思っているか知らねえけど、俺も健全な男なんだよ。惚れたやつが抱いてくれって縋り付いてきてその気にならないわけないだろ?」
    「だったら……!」
    「俺の我が儘だ。もう少しだけこうしていたい」
    「だったら仕方ないな」
    腕の中で北斗が笑う気配と、ほんの少しだけ彼の身体から力が抜けたような感じがした。

    しばらくすると腕の中から穏やかな寝息が聞こえてきた。
    (まったく……。抱いてくれ、なんて言いながら寝てしまうんだからな)
    微かに苦笑を浮かべる。
    運転は自分がしたが、車に乗っているだけでも疲れるし、今日明日の連休を取るために少々無理をしたのも知っている。
    多少呆れることもあったが、疲れているのだとしても自分の腕の中で無防備に眠ってしまう北斗を愛しいと思う。
    (おまえがこんなふうだから、俺だって手を出しづらいんだぜ?)
    天然なところがある北斗は驚くほど大胆なところもあるが、無垢なところもある。
    北斗は日頃から自分が男だから、その気になりづらいと思っている節があるが、実際はそんなことはない。衣更は北斗以外と肌を重ねたことはないので、本当のところは女性の方がいいのか比べようはない。とはいえ、北斗以外と抱き合いたいと思ったことは皆無だし、北斗に対して欲情はしているのだ。おそらく本人が思っている以上に。
    それに対して北斗は衣更に対して身も心も預けている。信じられないくらい純粋に心身を委ねていた。それは信頼ではない。衣更になら何をされても受け入れるといっていると同義だ。
    そんなふうに自身を差し出されてしまうと、逆に大切にしてしまいたくなるのだ。それが北斗にはわかりづらいようではあるが。
    (何か俺も眠くなってきたな)
    今日はそよ風が吹いているが、日差しも暖かく、いわゆるポカポカ陽気である。つまり絶好の昼寝日和ということだ。
    当然、衣更自身もここまで運転してきたし、昨日まで仕事詰めであったので、疲れている。
    腕の中にいる北斗をぎゅっと抱き締めたまま、衣更もうとうとと眠りに落ちていった。

    どのくらい時が流れていたのだろうか。
    腕の中がモゾモゾと動く様子に衣更は意識が浮上してくる。
    (あれ?俺……?)
    すぐに状況を思い出せなかったが、ややあって思い出す。
    (そっか、俺、北斗抱き締めたまま寝てたのか)
    「悪い、起こしたか?」
    腕の中で声がする。
    「どうした?俺のせいで動けなかった?」
    どうやら起きた北斗が身動きしていたらしい。
    「いや、日も傾いてきたから、冷えるかもしれないと思って」
    どうやら布団か何かかけるものを取りに行こうとして身動ぎしていたらしい。
    北斗の言葉に衣更が庭へと視線を移すと、確かに西日が射している。
    夕方というほどではないが、2~3時間ほどは眠っていたらしい。
    「そっか。ありがとな。心配してくれて」
    「おまえに風邪を引かれたら困るからな」
    「おまえは寒くなかったか?」
    もしかしたら、寒さで目が覚めてしまったのかもしれないと心配になった。
    「いや。俺はおまえが抱き締めてくれていたから大丈夫だ。その……すまない……。おまえの温もりを感じていたらいつのまにか安心して……」
    「寝ちゃってたってことか。気にすんなって」
    ふわりと髪を撫でながら衣更は笑う。
    (おまえは自分が男だから、俺がその気にならない、とか。俺は淡白だとか言うことあるけど。おまえの方がよっぽど俺のこと「男」として、性の対象として見てないだろ?)
    無警戒に眠ってしまう北斗を見るたびに思うこと。思うだけで口にしたことはない。口にしたら、きっと北斗は自分の腕の中で眠らなくなってしまう。
    自分の腕の中は彼にとって安らぎのゆりかごでなければいけない。何よりも自分の傍でくつろげる北斗を見るのは、衣更にとって大切な時間だった。
    北斗が自分に抱かれたがるのは、性欲もあるのかもしれないが、おそらくは自分とより触れあいたいと思っているからだ。だから、北斗から誘うことはあるが、そんな時も衣更が抱き締めることによって、北斗が衣更の存在を感じるだけで満足してしまうときがある。
    (おまえが『欲』じゃないのなら、俺だって見せるわけないだろ?おまえはたぶん自覚してないけど、俺が本気でおまえを欲しがったら――)
    北斗のことは大切に大切に思ってきたのだ。
    だから、不用意に見せられないものだって存在する。彼を怖がらせるのなら、誤解させたままでいい。
    「どうする?疲れているなら、寝ていてもいいぞ?」
    「少し寝たし、大丈夫だ。それにせっかく2人っきりなのに、寝てばかりももったいないだろう?」
    「そうか」
    北斗は少し安心したように微笑んだ。
    「どうした?何かしたいことでもあったか?」
    「ここの庭の桜も綺麗なんだが、この近所も穴場みたいな場所があるから、せっかくだから見に行きたくてな」
    「そうなんだ。それは俺も見ておきたいな」
    この貸別荘の話をされたとき、北斗はここには子供の頃によく来ていたと言っていた。北斗が子供の頃に来ていた場所に一緒に訪れることを楽しみにしていたのだ。
    「どうする?着物を着ていくか?」
    「そうだな。せっかくだし」
    今回のデートの目的の一つでもある。もちろん、明日でもいいのだが。
    「着替える前にシャワー浴びるが、おまえはどうする?」
    「ああ。おまえの後に浴びさせてもらおうかな」
    新品の着物を下ろすのだ。身綺麗にしてから着替えたいと思うのは人としての性かもしれない。
    「わかった」
    聞いた話によると、古民家のような邸宅だが、来客が不便だと言うので、いわゆる水回りはリフォームして近代化しているらしい。それが正しいのかどうかは衣更にはわからないけれど、あまりにも当時のままだと不便なのかもしれない。
    (変わらないことに価値があるものと、変化を求められるものがあるのかもしれないな)
    自分達はどちらなのだろうか。
    ふとそんなことに想いを馳せた。

    2人ともシャワーを浴び終えると持ってきた着物を広げた。
    北斗が着るのは深い蒼の着物。
    衣更に用意されたのは淡黄緑の着物だ。普段は髪の色に合わせられることが多いのだが、男性用の暖色は一般的な着物では少ないらしい。
    北斗が言うには、スバルは明るい空色、遊木は深みのある緑らしい。
    着物だけでなく、下着や足袋、小道具まで一式揃えてくれたようだ。
    「着物は着られるよな?」
    北斗が確認するように尋ねる。
    「ああ、もちろん」
    残念ながら、Trickstarはそこまで裕福なユニットではない。スタイリストを雇う余裕はないので、ある程度は自分でできないといけない。
    「俺も一通りは着られると思うが、最後に見てもらってもいいか?」
    「それは俺も頼む。一応、鬼龍先輩に聞いたけど、自信ないし」
    「俺も蓮巳先輩に聞いた」
    北斗の言葉にぷっと衣更は吹いた。
    「考えることは同じだな!」
    同室の和装経験者に聞くと言うことは発想が同じである。
    2人とも後輩に教えを請われて無下にできるタイプではない。実際、衣更は事情を話して和服を着たときに綺麗に着こなすコツや、美しく見える立ち振舞いなどについてアドバイスを求めたら、丁寧に答えてくれた。
    「そうだな。俺も蓮巳先輩に聞いたら、かなり時間をかけて教えてくれた」
    そのかなりかけられた時間の全てがアドバイスとは思えなかったが、それは言うのはやめておいた。
    お互い着終わったら確認をしようと言う話になり、まずはそれぞれ着替えを始める。北斗に確認したところ、もらった着物や小物は撮影に使う時のものと同じものらしい。
    ずいぶんと太っ腹なスポンサーだと思うが、話を聞くと、どうやら氷鷹誠矢に昔世話になったことがあるらしい。北斗が苦々しい表情で付け加えていた。
    2人とも慣れない着物のためか、黙々と着る作業をしていた。
    「終わったぞ」
    ややあって、北斗が声をかける。
    「ちょっと待て。俺ももう少しだ」
    衣更は慌てて羽織を羽織って整えた。
    衣更を見つめた北斗は少しだけ目を見張った。
    「どうした?何か変なところがあったか?」
    北斗の反応に少し困ったような表情で問いかける。
    「いや、その、思った通り、よく似合っている。いつもピンクが多いが、緑も似合うな」
    「え、あ、そう?」
    真顔で誉められると少し照れる。北斗は誉めるときも常にまっすぐに誉めるから。
    「ああ。結構様になっている。……おまえの和服姿、自慢したい気はするが、独占したい気もして、結構複雑ではあるがな」
    北斗は淡く微笑んだ。
    「北斗」
    「俺たちはアイドルだ。だから、自分の魅力を余すことなくファンに伝えなければならない。そう思っている。だが、たまに本当にごく稀にだが、おまえの特別な姿は俺だけ知っていればいいって思うときもある。Trickstarのリーダーとしては失格なのかもな」
    北斗は自嘲的にぼそりと呟いた。
    そんな北斗が愛しく思える。
    自分への愛情もTrickstarのリーダーと言う責任も放棄しない恋人を愛したのは自分だ。
    アイドルであることもアイドルとして高みを目指すことも決して棄てることのできないこと。その自分達が恋人同士になるということがどれだけ足枷になるかもわかっていた。
    それでも自分達は友人や仲間では満足できなかった。想いを自覚しながらも諦めようとしていた北斗の手を強引に掴んで抱き寄せたのは自分だ。
    自分の一番大切な人、好きな人を笑顔にできないのなら、そんなのはアイドルではない。そう北斗を説き伏して抱き締めた。
    「失格、なんかじゃねえよ。俺も他のメンバーも誰もおまえ以外にリーダーができるなんて思ってない。それに、俺だって!」
    北斗に先に言われたので、言いそびれてしまったのもの、北斗の和服姿も思った以上に様になっていてドキリとした。きっと撮影の時はプロが指導するだろうし、もっと魅力的に映る写真や動画が世間に出回るだろう。
    恋人の魅力を世界中に知ってほしい、恋人の魅力なんて自分だけ知っていればいい。そんな相反する感情は衣更にもある。
    「俺だって、おまえのこと誰にも見せたくないことはあるんだぜ?」
    衣更は北斗の頬に触れる。
    「衣更……」
    「おまえもよく似合っている。着物もその色も」
    「そ、そうか。その変なところはないか?」
    誉めるのは平気でも誉められるのは慣れないらしい。少し照れた様子で問いかける。
    「大丈夫だ。俺は?」
    「ああ。問題ない」
    北斗の言葉に衣更は頬に触れていた手を移動させて、北斗の手を握った。
    「衣更?」
    「俺とデートしてくれる?」
    悪戯っぽく問いかけると北斗はふわりと微笑んだ。
    「ああ」
    衣更は優しく笑うと北斗の手を引いて玄関へと向かった。

    外は少し風が冷たくなっていた。
    北斗の手を引いて、外に出たが、全く地理感がないので、行き先は北斗に任せることにする。
    平日だからか、それとも少し街中離れたからか、人の気配を感じない。北斗に聞いてみると、この辺りは交通の便もよくないし、店なども少ないため、観光客は休日にちらほら見かける程度らしい。
    慣れない着物のためか、普段より歩の運びが遅いし、歩幅も狭い。自然、いつもよりゆっくりと歩いているのが、物珍しかった。
    「衣更?」
    少し立ち止まりぎみになっている衣更に北斗が声をかける。
    「ああ、わりぃ。いつもと歩く速度が違うから」
    「すまない。やはり着物は慣れなくてな」
    咎められていると思ったのか、少し申し訳なさそうにしている。
    「違うって」
    衣更は苦笑をして、首を横に振った。
    「俺たちってさ、いつも目的地に向かってまっすぐ走っていて、周りを見ている余裕なんてないだろ?だから、おまえと一緒にのんびりと歩いているのが、新鮮なんだよ」
    デートの時ですら、周りを見るとしたら、視線を気にするくらいで、ゆっくり歩いたことはなかった。むしろ人目が気になって、人がいないところに早く行きたくて急いでいた気がする。
    「そうか」
    「俺たちさ、いつも前ばかり見ているだろう?おまえとスバルが突っ走って、俺と真が必死で後をついていく。それが悪いわけじゃないし、それがTrickstarなんだと思う。だけど、おまえと2人で、恋人として歩いているときは、周りをゆっくりと見ながら歩くのも悪くない。いや、むしろそうしたいって思えたんだ」
    Trickstarとして活動している時は、目標に向かってまっすぐに駆けていくのはかまわない。
    だが、2人っきりの時は違う歩み方をしてもいいのではないかと。
    「そうだな」
    北斗は珍しく穏やかに微笑んで同意を示す。
    「せっかく周りに誰もいないしさ。これといった用事もないし、ゆっくり歩こうぜ。それに着物に慣れていたとしても、ゆったりとした様子を出すのもいいんじゃないのか?」
    「それもそうだな。着物と言うのは優雅な感じだしな。俺たちには似合わない単語だがな」
    苦笑しつつ、北斗も同意する。
    「確かにな。だが、おまえには似合っている」
    「優雅が?」
    「いや、その着物。おまえは本当に綺麗だよ」
    衣更は目を細めながら、北斗を見やる。
    北斗は衣更のことを様になっていると誉めてくれたが、あくまでも様になっているだけだ。北斗は着物に馴染んでいるように思える。もちろん、動けば慣れてないゆえのぎこちなさはあるが、黙って立っていると清楚な色香すら感じて、視線を奪われる。
    王子という役を与えられることが多い北斗は中世ヨーロッパ風の衣装が用意されることが多いし、その衣装ももちろん似合っているが、和装は和装で違う趣がある。
    和装でも舞台衣装は何度も見たことはあるが、その性質上、どうしても派手な色柄が多く、こうした単色の物はあまりない。だが、こういうシンプルなデザインこそ、北斗の魅力を際立たせているのではないかと思えた。
    「おまえに言われるのは……違って聞こえるな」
    「へえ?どう聞こえる?」
    「おまえは俺に世辞なんて言わないだろ。だから、安心できるっていうか。信頼することができる。だから、おまえに誉められるのが一番嬉しい」
    静かな口調で語る。
    確かに自分達の間柄で、世辞など言わない。衣更も世辞くらい言うことはあるが、北斗に言うことはない。北斗にしても誰に対しても世辞をいうタイプではないが、それでもここ最近は多少の社交辞令は覚えた。とはいえ、自分達の間ではそれはない。よくも悪くも嘘を言わないのが北斗だ。そういう意味では衣更にしても、確かに彼からの誉め言葉は他の誰に言われるよりも一番心地よい。
    「俺もおまえから褒められるが一番嬉しいな」
    衣更の言葉に北斗も嬉しそうに微笑んだ。

    都会の喧騒から離れた自然豊かな場所。
    人目も気にせずにゆっくりと歩くことはあまりない。やわらかな若草色の青葉が目にもあざやかだ。
    「疲れないか?」
    北斗が問いかける。
    「ああ、大丈夫。おまえは?」
    「疲れたというほどではないが、少し休憩しないか?そこに椅子があるんだ」
    「いいぜ。急ぎでもないしな」
    慣れない服装というのはそれだけで疲れるものだし、普段と違い時間に追われているわけでもないので、衣更自身も休憩をすることを反対する理由はない。
    少し歩いた先に彼の言う通り木でできたベンチのようなものがあった。
    北斗は荷物からタオルを取り出すと、ベンチに敷いて座るように促されたので、腰を下ろした。
    「ありがと」
    「いや。何か飲むか?」
    「そうだな。お茶でも飲むかな」
    歩いていたので、喉が渇いていたのだ。
    「ほら」
    持っていた荷物からペットボトルの茶を取り出して、衣更に差し出した。
    「ありがとな」
    受けとり、礼を言ってから、蓋を開けて一口飲む。保冷をせずに持ち歩いていたからか、冷たさはなかったが、喉が潤う感触は悪くない。
    「衣更」
    「どうした?」
    改まって名前を呼ばれて、北斗を見つめ返す。
    「愛している」
    「へ?」
    北斗がユニットのメンバーに愛を囁くのはいつものことだが、これはあまりにも唐突すぎる。
    「愛している」
    もう一度小さな声で告げた。その様子がどこか頼りなさげで――。
    「北斗」
    衣更は飲んでいた茶の蓋を閉め、脇に置く。横に座っている北斗を見つめると少し俯き加減だ。
    「何だ?」
    俯いたまま返事をする。
    「何があった?本当は聞くつもりはなかったけど」
    この状況はあまりにも不自然すぎる。
    「大したことじゃない」
    北斗は何もない、とは言わなかった。つまり、それなりの自覚はあるのだろう。そして、こんな言い方をするということは詳しく話すつもりはないと言うことだ。
    「そうか」
    「衣更」
    「ん?」
    「おまえは……もしも俺が突然いなくなったらどうする?」
    衣更を見ずに北斗は細い声で問いかける。
    「は?探すに決まっているだろう?そんなもん」
    衣更は即答する。
    何が原因だろうと、探しに行く。たとえ、周りに止められたとしても。
    「何故だ?恋人だから?同じユニットのメンバーだから?仲間だから?」
    「全部だ。おまえがいなかったら、Trickstarはやっていけない。俺個人としてはおまえが必要だ」
    衣更はきっぱりと言いきった。
    もしも北斗が自分の目の前からいなくなったら。想像するだけで心が冷たくなっていく。
    「……そうか」
    北斗はどこか安堵したような、それでいてどこか淋しげな微笑。
    「おまえ、まさかそういう話が出ているのか?」
    衣更が不安そうに問いかけた。
    「え?」
    「おまえがTrickstarを辞めさせられるとか」
    「そんなわけないだろ。何言ってんだ?」
    「おまえがいなくなったら、とか言い出すからだろうが!」
    「……すまない。ただの例え話だ」
    そんなことはないから安心しろと笑う。
    「例え話って。じゃあ、おまえじゃなくてスバルとか真が辞めさせられそうになっているとか?」
    「そんな話が出ているんなら、ここで呑気に花見なんてしてないで、事務所に乗り込んでいる」
    呆れたような口調だ。
    「いやいや、それはそれでどうなんだ?だけど、そうだよな」
    少し困ったような表情になるが、クスッと笑った。仲間への情は篤い男だ。何か仲間内にあれば、黙っているような男ではない。直情的なのが長所でも短所でもある。事務所に怒鳴り込みに行くなら自分は間違いなく反対はしただろうが、仲間が何か事務所から言われているのなら、自分だってのんびり花見などをしているわけがない。
    「衣更」
    「どうした?」
    衣更の問いかけに北斗は何も答えずに、衣更の肩にもたれかかった。
    北斗とはそれなりに長い付き合いだが、こんな様子のことはほとんどなかった。肩にかかる重みは心地よいけれど、らしくない様子が不安を誘う。
    「北斗」
    「ん?」
    「おまえがどうしても言いたくないなら、詳しくは聞かないけど、本当に大丈夫なのか?」
    北斗の感情が整理つかないことで、少し甘えているくらいならかまわない。だが、現在進行形で問題が起きていて、北斗が窮地に立たされているのなら、話は別だ。
    「ああ。仕事のことじゃないからな」
    はっきりとした口調。
    本当なら何があったのかと問い詰めたい。
    だが、北斗も歴とした大人の男なのだ。自分で解決したいことはあるだろう。ましてや仕事以外のことなら、不用意に衣更が踏み込むことではない。彼が望むのならいくらでも話も聞くし力にもなりたいのだが。
    「それなら、いいけどな」
    氷鷹北斗が幸せか否か。
    それは衣更にはわからなかった。
    今、北斗本人に聞けば、「おまえたちがいるから幸せだ」と言われるのはわかっているし、ずっとそうであってほしい。
    衣更自身はそれなりに平凡な生まれや育ちをしているつもりだが、ユニットのメンバーはそうはいかない。スバルも遊木も幸せな育ちはしていない。彼らに比べれば、北斗は幸せなのかもしれない。だが、人と比べて幸せだから不幸ではないと言う考え方は危険だ。彼ははっきりとは言わないけれど、家族に対して蟠る想いをずっと抱いてきた。それを自分よりも不幸な人間がいるから、不満を多くは言えないだけで。
    だから、自分には甘えてほしかった。共感できるかどうかはわからないけれど、それでも彼の痛みや苦しみを否定はしないから。おまえより不幸な人はいくらでもいるなんてこと絶対に言わないから。
    衣更は優しく北斗の肩を抱いた。
    何があっても自分は北斗の味方なのだと伝えるように。
    「衣更」
    「何だよ?」
    「どうやら俺は思った以上におまえに依存しているらしい」
    ぼそりと呟かれる言葉。
    「いいんじゃねえの?いっそさ、俺がいなくなったら、息すらできなくなればいい」
    こんなふうに。
    口に出さない想いを伝えるかのように、北斗の唇に自分のそれを重ねた。
    自分の唇からしか息ができないようになってしまえば、北斗は自分から離れなくなる。自分が囲いを作って護ってやれる。一生温室の中で大切にしてやれる。
    そうしたら、自分は安心できるのだろうか。
    だが――。
    (そんな北斗は俺が惚れた北斗じゃないよな)
    自分の中であっさりと出される結論。
    だが、それでも北斗に自分の想いが触れ合った場所から少しでも伝わればいい。そんな想いが北斗を抱き締める衣更の腕に力を込めさせた。
    角度を変えて何度も口付ける。
    力なく自分に縋る北斗の指先すら愛おしい。
    「……い……さら……」
    息継ぎの間を縫って、微かに震える声が聞こえる。
    「わりぃ」
    その声に引き戻されたように口付けを中断して謝罪する。
    冷静に考えれば、ここは外で、ふざけてやってましたという言い訳が通じない程度の本気のキスだった。いくら人気がないからと言って気を抜きすぎた。
    「……いや」
    北斗もどこか恥ずかしそうに視線を逸らして緩く首を横に振った。
    「その、そろそろ行くか?」
    どことなくぎこちない口調で問いかける。
    「そうだな」
    北斗の言葉に衣更は頷いた。
    甘えさせるにしても、いちゃつくにしてもここでは不適切だろうし、そろそろ日も落ちそうな時間だ。あまり明かりのなさそうな場所なので、移動も早めの方がいいだろう。
    衣更が立ち上がると、北斗は自分も立ち上がり、敷いていたタオルを畳んでしまった。

    そこに辿り着いたのは空が赤く染まり始めた頃。
    北斗が穴場だと告げたその場所は満開の桜に出迎えられた。
    穴場というだけあり、ここに来るまでも、ここにも誰もおらず、そのことに少しだけ安堵した。
    多くの桜が咲き誇るその場所を2人で独占できることも、誰にも邪魔されずに済むこともありがたいことだ。
    「ここも綺麗だな」
    そう言いながら、北斗は桜の木々に歩み寄る。
    茜色に染まった空。
    はらはらと舞う白い桜の花びら。
    そこに佇む着物姿の北斗。
    すべてが美しすぎて、衣更は思わず息を飲む。
    北斗は美形だ。よほど趣味がおかしいもの以外は一致した意見だろうと衣更は思っている。もちろん、自分の周りはアイドルだらけで、つまり美形は見慣れているが、北斗にはその中に埋もれることない美しさがある。その評価は恋人の欲目でないはずだ。
    だが、今、衣更が感じているのは美形の一言ではすませられないような美しさ。
    満開の桜も、夕焼けの空も、長く伸びた影も不思議なノスタルジーを感じさせて――。
    深い蒼の着物を身に纏った北斗がそこに加わると完成した芸術のようだ。
    それは一枚の美しい絵画のようで。
    2人しかいないこの場は風の音しかしない。
    まるで、衣更だけが異世界に紛れ込んだ異物ような錯覚さえ覚える。
    「北斗!」
    大声で名前を呼ぶ。
    振り返った北斗の腕を引いてこちらに抱き寄せた。異世界から奪還するかのように。
    「衣更?」
    「なあ、北斗」
    ぎゅっと抱き締めたまま北斗の耳元で名前を呼ぶ。
    「どうした?」
    耳元での囁きに微かに身を震わせた北斗は少し不思議そうに問いかける。
    「おまえさ、本当にいなくなったりしないよな?」
    「はぁ?」
    「ずっと俺の、俺たちの傍にいてくれるんだよな?」
    抱き締める腕に力がこもる。
    今、自分と北斗が同じ世界にいることを確かめるように。
    「さっき言ったこと、気にしてんのか?」
    切実な響きを感じ取ったのか、幾ばくか困惑した声で問いかける。
    「そう、かも」
    「すまない。そんなに気にするとは思わなかったんだ」
    衣更に抱き締められたまま、ぼそりと告げた。
    「北斗。おまえさ、さっき言ったよな。俺に依存しているって」
    「ああ。俺個人としてももちろんだが、Trickstarのメンバーとしても頼りにしている」
    「おまえだけじゃない。俺だっておまえを必要としている。おまえがいなきゃ駄目なんだ。Trickstarとしてももちろんだけど、俺自身がおまえがいないのは考えられない」
    こんなふうに誰か一人を深く想うなんて北斗に会うまで想像すらしていなかった。だが、北斗に出会って初めて執着というものを覚えた。傍にいたい、触れていたい、自分だけ見てほしい。そんな欲が心から溢れて満たしていった。
    「衣更……」
    「だから、例え話だっておまえがいなくなるって聞かされて、思った以上にきつかったらしい」
    かつて自分は耐久力はあると言った。
    今でも北斗がいてくれるなら、自分は折れない自信がある。
    だが、北斗が失われる――。
    それを想像しただけで、心にダメージを負った。だから、この風景の中に北斗が消えてしまいそうな錯覚を覚えたのだ。
    「だから、悪かった。例え話でも言うべきじゃなかったな」
    衣更の弱々しい声に北斗の声にも申し訳なさが宿る。
    「……ああ。だから、いなくなるとか言うな。仮にとか、例えとかでも」
    この先、何があっても北斗がいない人生など想像できない。どんなことがあっても自分は北斗と共に歩いていくのだと決めているし、それ以外の人生を認めるつもりはないのだ。
    「わかった」
    腕の中で北斗が頷いてくれたから、少し安心する。
    「ごめん。何か取り乱した」
    ちょっとばかりみっともなかったかもしれない。
    「いいさ。それだけおまえが俺のこと好きってことだろ?」
    さらりと言われる。
    「ま、そうだな」
    「それならいい。せっかくだから、もう少しだけ桜でも見るか?」
    元々の目的が花見だ。それにこんな2人っきりでゆったりと過ごす機会はほとんどない。大切に過ごさないともったいない。
    「そうだな」
    抱き締めていた北斗の身体を解放するが、やはりどこか不安で彼の手を握りつつ、改めて桜を見つめる。
    夕焼けの空に浮かび上がる淡い花。
    見たこともない幻想的な風景だ。
    「ここは変わらないな」
    北斗がポツリと呟く。
    「北斗?」
    「子供の頃から、何度か来ているんだが、ここは変わらない。まるで時が切り取られているかのようだ」
    北斗もまだ若い。彼の年齢なら変わってないと思えるものは多いだろうが、きっとこの場所は遥か昔から今と同じ姿を見せているのだと信じさせるような何かがあった。
    衣更がノスタルジーを感じたのも気のせいではなかったのかもしれない。
    「変化がないのは成長がないと同義と言われることもある。だが、どうしてなんだろうな。変わっていないことが、安心すさせることがある」
    「わかるような気がする」
    自分達だって高校生の時から成長しているはずだ。
    Trickstarの置かれている状況や立場だって日々変化している。それでも、変わらないものはある。
    「北斗」
    「ん?」
    「俺はこの先何があってもおまえへの想いは変わらない。俺はおまえが好きだ」
    「ああ、俺もだ」
    北斗の嬉しそうな表情に衣更も安堵の息を漏らした。


    2人が貸別荘に戻ってきたときには、夜の帳が降りていた。
    今日は満月で夜にしては明るかったが、街灯が少なく普段は街の明るさに慣れていたため、少し心細かったのか、手を握りながら帰ってきた。ひんやりとした北斗の手が自分の熱でじんわりと温かくなるのはいつも嬉しく感じる。
    着物は着慣れてはいないものの、洗濯機で洗濯もできると聞いて、若干気を遣わずにすんだのか、そこまで苦にはならなかった。
    着物を着たままで、さまざまな動作の感想もあったほうがいいかも、と布団まで着物を着たまま敷くことになったが、いろいろな動きをしてみるとどういう動作が動きにくいかわかりやすい。
    「この庭は夜桜は夜桜で綺麗なんだ。少し見ないか?」
    布団を敷いて少し落ち着こうかというときに、北斗にそう誘われれば、断る理由などない。部屋を明るくしてしまうと風情がなくなってしまうので、貸別荘においてある、電球を使用した行灯のみに明かりを灯す。
    庭も自動でライトアップされているらしく、所々にほのかな明かりが灯っており、満月の明かりも相まって、どこか幻想的な雰囲気となっていた。
    戻ってきたとき、北斗も衣更も羽織は脱いで、畳んでいた。まだ春の時期、夜は冷え込むときもあるが、今日は比較的暖かいので、寒さは感じなかったからだ。
    庭に出られるように用意してあった履き物を履いて、北斗は桜へと近寄ると淡い光の中に浮かび上がった。羽織を脱ぐと北斗の線の細さがよくわかる。
    月明かりと僅かな人工の光に照らされた満開の桜の下にいる北斗。
    その光景があまりにも美しすぎて、まるでそれは彼がこの世ならざる者のような錯覚を覚えさせる。
    深い蒼の着物を身に纏って佇む北斗には人ではなく桜の精かと思わせるような清廉さと妖艶さがあった。
    「北斗」
    思わず名前を呼ぶと北斗が振り返ろうとしたとき、強い風が吹いて、大量の花びらが風に乗って北斗の身体を包み込むように舞う。
    それが桜の花が北斗を別世界へと連れ去るかのような幻影すら見せた。
    「北斗!」
    衣更も履き物を履いて北斗の元に駆け寄りながら、先程よりも強く名前を呼んで、腕を引っ張って、そのまま北斗の身体を抱きしめた。
    彼をこの世界に留めるかのように。
    先程、夕焼けに舞う桜のもとで北斗を見た時は異世界のように思えたけれど、そこにいるという実感はあった。
    だが、今は――。
    このまま、北斗が神隠しに遭うのではないかと思えるほど、桜が北斗を絡め取っているかのように見えたのだ。
    「衣更?」
    突然のことに途惑うような口調。
    「部屋に入ろうぜ?」
    抱きしめたまま耳元で囁くと、北斗の身体が少しだけ震えた。
    「花見は気が進まないか?」
    「いや。でも俺は……桜よりおまえを愛でたい」
    妙に歯が浮くような台詞を言ってしまったが、衣更にとって桜よりも北斗の方が美しい。
    確かにこの光景は美しいけれど――。
    「北斗」
    名前を呼んで口づける。
    触れるだけの優しい口づけ。
    ひんやりとした冷たい唇。抱きしめた身体も冷たい。北斗の身体が冷たいのはいつものことなのに、それが人でないと思わせられ、怖くなる。そんなことはあり得ないと理性は訴えているが――。
    抱きしめている腕を解き、腕を掴んで部屋の中につれて行く。
    「衣更?」
    いつもよりも強引な様子に、少しばかり不安げに感じられる声。
    「おまえのこと、確かめさせて」
    部屋に入ると、そのまま布団の上に押し倒した。
    白いシーツの上に彼の黒い髪はひどく艶やかで、薄明かりの中でも、白い肌はくっきりと浮かび上がる。深い蒼の着物との対比があざやかだ。
    整った顔立ちも相まってひどく美しい。
    北斗の唇に自分のそれを重ねる。
    自分の心に宿る妙な焦燥感をぶつけるように。
    逃げ場をなくすように顔を固定して、初めは重ねるだけのそれを、角度を変えて何度も繰り返し、微かに開いた北斗の唇から舌を割り入れて、咥内を存分に犯す。
    「……んっ……ん…」
    少しばかり苦しそうな、それでいて甘やかな声が耳に響いて、いつのまにか北斗の両腕が縋るように衣更の背に回されている。
    唇を離すと、どちらかともわからぬ唾液が伝っていった。
    「その……」
    北斗は少しだけ恥じらうように視線を逸らせて口籠もる。ぼんやりとした光の中でも白い肌がうっすらと紅く染まっているのがわかる。
    「どうした?」
    「だから、その……」
    「ん?強引だったか?わりぃ」
    いつもよりも強引に事を進めたのは衣更にも自覚がある。
    それがもしかしたら北斗を怖がらせてしまったのだろうか。
    「じゃなくて」
    「どうしたんだよ。らしくないな?」
    言い淀む北斗に重ねて問いかける。
    「さっき、着物着替える前にシャワー浴びただろう?」
    その時にちゃんと洗ったから、と。注意しなければ聞こえないくらいの小さな声で付け加えた。
    「え?ええっ……!それって……」
    頭に血が上ってくらくらする。
    この恋人は何が自分を煽るのか理解しているのだろうかと不安になるくらいだ。
    確かにあの時シャワーを浴びるだけにしては時間が掛かるとは思っていたのだが、そんなことをしていたとは夢にも思っていなかった。
    前に北斗が言っていたが、自分と2人っきりで泊まりに行くときは出かける前に綺麗に洗っている、とは言っていた。実際に事に及ぶかどうかは別として、いざというときに準備から始めるのは億劫だから、と言うことだ。だが、当然のことながら、朝にシャワーを浴びたとしても実際に肌を重ねるときは夜になることが多い。いくら朝に準備していたとしても、時間は経っている。やはり北斗は気になるらしく、その前にシャワーを浴びることが多いのだが、そうなるとどうしても盛り上がっている時に中断という形になることもある。
    現に今もいつもなら北斗がシャワーを浴びたいと訴えてもおかしくないところだった。
    「……そんな可愛いこと言っていると、狼に喰われるぞ?」
    興奮している自分を宥めるように、わざと軽口を叩く。
    普段とは違うシチュエーションと可愛いことを言う恋人。油断すると本当にそのまま激情に任せてしまいそうになる。
    「最近の狼は『待て』ができるみたいだぞ?」
    くすっと北斗は笑う。彼でも冗談を言うことはあるようだ。
    「狼は狼だ。過信すんなよ。……北斗、いいか?」
    釘を刺すように一言告げた後、最後の了解を得るために問いかけた。
    北斗が小さく頷くのを確認して、袷に手を掛けると軽く左右に開いた。


    行為が終わって、少しぼんやりとしている北斗の瞳を覗き込んで、そっと汗で張り付いた髪を払ってやる。
    「大丈夫か?」
    「ああ……」
    北斗はされるがままにされている。
    行為の後、こういう状態になることは珍しくないので、そのまま髪を撫でることにした。
    「衣更……」
    「どうした?」
    少しだけ淋しげに感じる声音が気に掛かって問いかける。
    「……少しだけ、おまえの肌に触れたい」
    「あ……」
    躊躇いがちに告げられる要求にようやく衣更は自分が脱がずに情事に及んでいたことに気づいた。
    北斗も半脱ぎ状態だが、衣更に至っては下着を脱いだだけだったのだ。
    「ごめん、余裕を失っていたみたいだ」
    今更だが、着物を脱ぎながら、謝罪した。
    着るにはそこそこ時間が掛かるが、脱ぐのはそれほどでもない。帰ったら洗濯をするつもりなので、簡単に畳む。
    「余裕、なかったのか?」
    北斗は不思議そうに問いかける。
    「ちょっとな」
    微かに苦笑する。
    いくら何でもこんな状態で情事に及んだことは一度もない。服を脱ぐ余裕すらないなんて初めてのことだ。
    「そんなに変わらないように思えたが」
    北斗はきょとんと首を傾げる。
    「ははっ、そう見えていたのなら、幸いだ。だけど、ごめん。今更だけど、北斗も脱ぐよな?皺になってなきゃいいけど」
    北斗の性器にもコンドームは被せたし、尻の下にはタオルを敷いている。
    これは決して着物を汚さないための配慮ではなく、普通のホテルでことに及んだ時に布団等を汚すと居た堪れなくなるので、普段からしていることだが、それが幸いした。
    そのため、おそらく着物は汚れてはいないだろうが、皺になったかもしれない。
    「化繊だし大丈夫だと思うが」
    北斗も身体を起こして、着物を脱いで簡単に畳んで置いた。
    薄明かりの中ではあるが、ざっとみた感じ、ひどい皺にもなってなかったし、汚れてもいなさそうだ。帰って洗濯して手入れをすれば大丈夫だろう。
    「そっか」
    改めて生まれたままの姿になった北斗を抱きしめながら横たえる。
    衣服を通さずに直に伝わってくる北斗の体温。いつもはひんやりとしているけれど、情事の後だからかほんのりと温かい。
    「おまえは温かいな」
    ゆっくりと北斗は衣更に身体を預けながら告げる。
    「俺はおまえの身体を温めるのは好きだぜ?」
    自分の熱を相手に分け与えるような行為。
    衣更にとって情事は優しい時間だった。
    「そうか」
    「それなのにごめんな。こんな強姦みたいな真似……」
    肌を重ねずに穴として使用したと言われても否定はできない。
    「同意はしたはずだ」
    だから強姦じゃないだろう?
    微かに北斗の息が衣更の肌を擽る。
    「そうだけど、さ」 
    「何か、あったのか?」
    少しだけ心配げな色が声に宿る。
    「言うとおまえは笑うだろうからな」
    「何が?」
    「……おまえが消えてしまいそうだったんだ」
    「は?」
    北斗は間の抜けた声を上げる。
    「桜に攫われて、俺の手の届かない場所に行ってしまうかと思って焦ったんだ」
    「馬鹿だな」
    穏やかな声。衣更を安心させる少し低めの北斗の声だ。
    「どうせ俺は馬鹿だよ」
    だから言いたくなかったんだ。
    ぼそりと拗ねたように付け加える。
    「本当にな。俺がおまえの傍以外のどこに行くんだ?」
    大真面目に告げられると、衣更は一瞬唖然とするが、クスッと笑った。
    「おまえは本当に男前だな」
    ぎゅっと強く抱きしめる。
    今ならば、彼が自分の傍からいなくなるなんてあり得ないと容易く信じられるのに。
    それともそれは北斗と繋がったことによる安心感からなのだろうか。
    「そうか?」
    「ああ」
    「……なあ」
    「ん?」
    「おまえがさ、そんなこと思ったのは俺が原因か?」
    「へ?」
    「俺がいなくなったらって言ったからか?」
    「どうだろ、わかんね」
    重ねて問われると首を傾げる。
    確かにそれもあるかもしれないが、それ以外にも原因はあるような気がした。
    「そうか」
    「桜に……当てられたのかもな」
    「桜に?」
    「何となく」
    「おまえはあまり気に入らなかったか」
    微かに苦笑気味に告げられる。
    「そうじゃない。俺にもよくわからないけど」
    確かにここの桜は美しさは恐怖すら覚えさせたけれど、気に入らないかと言われればそうではない。
    「衣更」
    「どうした?」
    少しだけ改まった声に感じて問いかける。
    「おまえに話そうかどうか迷っていたんだが……」
    僅かに歯切れの悪い。
    「どうした?何か重要な話か?」
    気になって問いかける。
    ここに来てからの北斗の様子も少しおかしかったから。
    「いや、まったく」
    北斗はあっさりと否定する。
    「じゃあ、何で……」
    「重要どころかおまえには全く関係のない話だ」
    俺自身にとってもそんなに大事な話でもないと付け加える。
    「……?」
    「そんな話を聞いてもおまえは楽しくも何ともないだろう?」
    ポツンと呟かれた言葉。
    「北斗。本当に重要でなくて、俺には何の関係もない話なら、話したくないことを無理に聞こうとは思わない。だけど、俺に何の関係もなくたって、おまえが話したいなら、俺が聞いて楽になるなら、いくらでも聞いてやるから。話せよ」
    そっと促すが、北斗は少しだけ衣更の胸の中で息を吐いただけだった。
    「北斗」
    「ん?」
    「本当に俺に関係ないことか?」
    静かな声で問いかける。
    「は?」
    「おまえの心が動いているのに?おまえに関係あることで、俺に関係ないことなんてない。そんな淋しいこと言うなよ」
    北斗の髪を撫でる。
    衣更自身に何の関係もないことだとしても、北斗がそれによって苦しむなら、無関係のはずがない。
    そんな想いが伝わればいい。
    「……本当に大した話じゃないんだ」
    北斗はそう前置きをして、ややあると口を開いた。
    「ここはもうなくなるんだ」
    「は?」
    突然の言葉に衣更はきょとんとする。
    「ここ、おばあちゃんの知り合いがやっているって言っただろう?もう高齢で貸別荘経営ができなくなったんだ。跡を継ぐ人もいないらしくて、建物の維持も出来ないらしくてな。近いうちに取り壊すらしい」
    事実のみを伝える淡々とした口調だ。
    「そう、なんだ」
    北斗にとっては思い出の場所なのだろう。それが消えることが淋しいのだろうか。
    「ここを買い取ることも出来たんだ。元々壊す予定だったから、格安で譲ってくれるって言っていたしな。だが、維持費とか考えたら、現実的には難しい。他も買い手はつかなかったらしくて、予定通り壊すってことになったんだがな」
    一度、北斗は息を吐いた。
    「俺が子供だったら、きっと何も考えずにおばあちゃんや両親に何とかしてくれって駄々を捏ねていたと思う。助けることが正しいと思っていただろうし。それに対して、おばあちゃんや両親がどういう回答を出すかはわからないが」
    「うん……」
    ゆっくりと髪を撫でながら話を促す。
    「今なら俺はそんなことはしない。一時的にここを買い取ったってその後の維持の方が大変だってわかっているから」
    北斗の口調は乱れない。だが、その口調はどこか淋しげに感じた。
    「北斗」
    「大人になるっていうのは、物わかりよく、あっさりと物事を諦めることなのかと思ってな。それが俺がなりたかった大人、だったのかと」
    話を聞き終わった衣更はそっと北斗の身体を抱きしめた。
    「衣更?」
    「何となく?」
    ここの取り壊し自体は北斗も言ったとおりおそらく大した話じゃない。
    ただ、それを見捨てたこと。
    それが北斗の心に蟠る何かを残っているのだろう。
    「衣更」
    「何?」
    「今回は本当に大したことじゃない。だが、いつか、俺は苦渋の決断を下さないといけない日が来るのだろうか。例えば――Trickstarから離れないといけない日が」
    あのDDDの時のように。
    苦しそうに吐き出される。
    あの時、北斗が後悔しているのは知っている。だが、どれほど悔やんでも、結果的に戻ったのだとしても、一時期にでもTrickstarを離脱したという過去を変えることはできない。皆を裏切ったのだと、北斗はずっとそのことが傷になっていることを衣更は知っている。
    「させねえよ」
    強い口調で言い切った。
    「衣更?」
    「確かに俺たちはすべてを手に入れられるほどの力はないかもしれない。でも、手放せないものはこの手に残す。何があっても」
    「……そうだな」
    「だからさ、おまえがいなくなるなんてことはねえよ。ずっと」
    腕の中で北斗が微かに身動ぐ。
    北斗が何故あんなことを言ったのか、わかった気がした。
    何かと天秤にかけて自分が離れなければならない日がくるかもしれない。そう思って口にしたのだろう。
    「俺がおまえを手放してなんてやらない。たとえ何が天秤の片方に乗ろうと、おまえ以上に重いものがあるわけがないんだからな」
    「その天秤にかけたものが軽いとは限らないだろう?」
    「そうだな。軽いものならそもそも天秤にかけないし、捨てたものに対して苦しまないとは限らない」
    「ああ」
    「だけどさ、それでも俺は言い切るよ。将来、俺が何を捨てようとそれによって、どんなに苦痛を味わったとしても、『おまえを選ばなきゃよかった』って思うことはないって。もちろん、後悔はするかもしれない。だけど、もっと別の方法はあったかもしれないって悔やんでもおまえを選んだことを間違いとは思わない。それは絶対だ」
    毅然とした口調だった。
    「衣更……」
    「だから俺はおまえの手を離さない、離してなんかやらない。絶対に」
    「俺がTrickstarからいなくなった方がいいとしても?」
    やや揺らいだ口調。
    「もしも、誰かが欠けないと存続できない、いや、誰かが欠けても存続できるTrickstarはもうTrickstarじゃねえよ。おまえだって、俺やスバルや真がTrickstarのためだって言って離れようとしたら同じことを言うだろう?」
    「……それはそう、だが」
    もしも自分が何らかの事情でTrickstarを離れようとしたら、北斗も同じことを言うに決まっている。
    Trickstarは伝統があるユニットではない。自分たちが作ったユニットだ。誰が欠けたってそれはもうTrickstarではないし、もしも誰か欠ければ2度と笑い合うことは出来ない。そういう性質のものだ。
    「何でもかんでも手に入れることは出来ない。子供みたいに泣き喚いたって誰も解決してくれない。だけど、大切なものは死んでも手を離さない、護り抜く。その覚悟をするのが、大人になるってことなんじゃねえの?」
    「かもしれないな」
    「俺はもう決めている。おまえだって、だろ?」
    何を大切にし、何を護るか。
    何かを切り捨ててでも、最後まで手の中に残したいもの。
    もちろん切り捨てる何かが少ないに越したことはないし、できるだけ失わずに済む努力を惜しむべきでない。だが、時には容赦なく選択を迫られる時もあるだろう。
    「そうだな」
    北斗も力強く頷いた。
    「なあ、北斗」
    「どうした?」
    「本当に『大したことじゃない』のか?おまえにとっては思い出の場所なんだろう?だから、なくなることにショックを受けているんじゃねえの?」
    それは些細なことなのかもしれない。だが、心に何かを訴えるからこそ、考えさせられたのではないかと。
    「別に言うほど思い出があるわけじゃない。子供の頃に何度か来たのは事実だし、ここの桜は好きだが、そんな場所なんて俺に限らず、いくらでもあるだろう?」
    「そう、かもな」
    「ただ――」
    「ただ?」
    ふと口籠もった様子に気になって促す。
    「夕方、桜を観に行った時に言った言葉、覚えているか?」
    「ん?何の言葉?」
    「ここは変わらないって言った」
    「ああ。覚えている。変わらないことが安心することがあるって」
    「俺はここもずっとあるんだって思っていたんだ。漠然とだが、失われるなんて思ってもみなかった。だから、取り壊されるって聞いて、動揺しているのは確かだ」
    「ああ、そうか。だからおまえ、ああだったんだな」
    北斗の言葉を聞いて、ようやく衣更は胃の腑に落ちた気がした。
    彼が何故儚げに見えたのか。
    それは彼の中で揺らぐものがあったからだ。
    だから、消えてしまいそうに見えた。それが衣更を不安にさせたのだ。
    衣更は抱きしめる腕に力をこめた。
    「衣更?」
    「この世に絶対なんてないって俺も思っていた。でも――」
    言葉を切って少し身体を離す。
    北斗の蒼い瞳を見つめる。薄明かりの中でもこの瞳の色だけは見失うことはない。
    (どうして俺は気づかなかったんだろうな)
    この瞳の色が揺らいでいた。
    そのことには気づかなかった。ただ、些細な違和感はあった。北斗の不安定さは感じとっていた。だからこそ、自分は不安に思ったのだろう。もちろん、北斗のいなくなったら、の発言もその一因であったことは間違いないが。
    「おまえだけは『絶対』なんだ」
    「……絶対?」
    「ああ。おまえは俺が見つけた絶対だ」
    何があってもその存在の価値は揺るがない。
    それが衣更真緒にとっての氷鷹北斗だ。
    「……おまえだってまだ若いと思うんだがな」
    「そうだな。俺は運がいい。そう思える存在に人生をそこまで費やさなくても出会うことが出来たんだからな」
    抱きしめていた腕を解き、頬を撫でながら告げる。
    北斗の言っている意味が別の意味だとは分かっている。
    だが、この先どれだけ人生が残っていようと関係ない。高校時代のあの日、北斗と出会ったことで自分の運命は決まったのだ。
    「衣更」
    「何だ?」
    「俺はおまえを愛している」
    「知っている」
    彼がくれた気持ちを疑ったことは一度もない。
    ずっと北斗は衣更にまっすぐで純粋な想いを注いできていた。
    「俺の気持ちは一生変わらない。もし、何らかの事情でおまえと別れる日が来ても――」
    「こねえよ!」
    衣更が強い口調で北斗の言葉を遮る。
    「だから――」
    「もしもの話でも、その手の話は却下だ。聞きたくない」
    北斗の言葉を奪うように告げると、その言葉を封じるようにそっと北斗の唇に自分のそれを軽く重ねた。
    (思ったより俺も脆いな)
    内心衣更は苦笑した。
    思った以上に北斗の「自分がいなくなったら」という言葉に、否、それを想像してしてしまったことに心が怯えてしまっている。
    「そのつまり、何があったとしてもおまえのことが好きっていうのは変わらない。それは断言できる。そして、きっとおまえも俺のことを好きでいてくれるって信じている」
    北斗も衣更の言葉にそれ以上は言わず、何となくぼかして先へと話を進める。
    「……そうだな」
    「それでも、俺たちが想いあっていても、俺たちの力ではどうにも出来ない何かがあるかもしれない。もし、その時が来たら、どうするんだろうなと思ったら、少し心が掻き乱されたのも事実だ。愚かだろう?起こっていないことに怯えるなんて」
    北斗の声も身体も微かに震えていたかもしれない。
    「怯えるのは俺のことを失いたくないって大切に思ってくれているからだろう?でもさ、少なくとも俺は何があってもおまえや仲間の手を離す選択肢はない。その中にはもしかしたら何かを切り捨てなきゃいけないかもしれないけど、でもおまえ以上に大切なものはないから。どんな道を選ぶかわからないけどさ、できるだけ一緒に乗り越えていこう?」
    もう一度北斗の身体を抱きしめて出来るだけ優しい口調で告げる。
    俺に任せておけ、俺がいたら大丈夫だって言えれば格好いいのかもしれないが、そんな力はないことは衣更自身がよく知っていた。ただ、約束できるとしたら、何があっても何を失っても北斗の手を離さないということだけだ。
    自分一人で解決できるとも言えない。だから2人で乗り越えていこうと。
    もしも2人で駄目なら、他のメンバーの力も借りるかもしれないが。
    「……そうだな」
    ゆっくりと息を吐いて頷いた北斗を抱きしめたまま、そっと髪を撫でた。
    「北斗。俺はおまえのこと、信じている。だから、おまえが言いたくないことを無理矢理聞こうとは思わない。でも、無理に一人で立つ必要はない。理由も事情も言わなくていい。ただ、苦しい、つらいってことがあるなら、俺に甘えろよ。何もできないかもしれないけど、傍にいることは出来る。抱きしめることも」
    直接解決できなことだとしても、こうして触れ合うだけで心が安らぐこともあることを知っているから。
    「……わかった。おまえもそうしてくれるか?」
    ぎゅっと抱きしめ返しながら北斗が問いかける。
    「ああ。俺もきつい時はこうしておまえのこと抱きしめるから」
    確かに自分たちは大人の男でやせ我慢でもしなければならない時はある。
    だが、こうして寄りかかれる存在があるというだけで救われることもあるのだから。
    「そうしてほしい」
    「ああ、わかっているから」
    衣更はもう一度北斗の瞳を覗き込む。
    蒼い瞳はいつものように透き通っていて、少しだけ安心する。
    北斗の中で感情の折り合いがついたかどうかはわからないけれど、消えてしまいそうな儚さは薄らいだような気がした。
    「衣更」
    「ん?」
    「実はここはもう営業してないんだ。ここを取り壊す前によかったらって、常連の客に声をかけたらしい」
    「ん?ああ、もしかして、それで格安って言ったのか?」
    そういえば、訳ありだと言っていたが、訳とはそういうことだったのだろうかと。
    「ああ。俺というか、おばあちゃんに話があって。おばあちゃんはもう少し後でその友人の管理人と過ごすみたいだけど、俺はどうするかって聞かれて」
    「そうだったんだ」
    (それなら、北斗はおばあちゃんと来ればよかった気もするけど)
    少しだけ内心首を傾げる。
    管理人とも顔見知りだろうし、積もる話もあるだろう。
    ここに来るのは初めてで、当然ながら何の思い入れもない自分と来てよかったのだろうかと。
    「おばあちゃんにも一緒に来るかって言われたんだが、どうしても俺はおまえと来たかったんだ」
    「どうして?」
    自他共に認めるおばあちゃん子の北斗が祖母の誘いを断って自分と来たがったのはどうしてなのだろう。
    自分を選んでくれた、とかそういう単純な理由ではないような気がした。
    「……よくわからない」
    北斗はそう言って少し俯く気配を感じた。
    「そっか。わからないか」
    もう一度抱き寄せる。
    情事の名残で火照っていた北斗の身体がだんだん冷えてきたのを感じたから。
    「俺は大したことじゃないって言ったし、強がりでもなくそう思っていた。だが、もしかしたら、ずっとあると思っていたものがある日突然なくなるということは『大したこと』なのかもしれない」
    ぼそりと告げる。
    「そうかもな」
    「だから、淋しかった、のかもしれない」
    そっと北斗の絡んだ腕に力が入る。
    「いつか、子供の頃の話をおまえにするかもしれない。その時、ここの話も出るかもしれない。だが、どれだけ俺が言葉を尽くしても、ここの桜の美しさは表現できない。この機会を逃せば2度と見せることもできない。それが……何となく淋しかったのかもしれない」
    「そっか」
    もどかしそうに自分の想いを何とか言葉にしている北斗を抱きしめたまま話を聞く。
    衣更はここが失われること自体に感傷は覚えないかもしれない。だが、一度でも見ておけば、北斗が昔語りを始め、ここの話が出た時、「そういえばあの桜綺麗だったよな」と語り合うことはできる。
    「衣更」
    「何だ?」
    「すまなかった」
    「はい?」
    突然の謝罪に衣更は疑問の声を上げる。
    「考えてみたら、俺の我が儘だった。おまえはここに何の思い入れもないし、来る理由がなかったのに、俺のつまらない感傷なんかでに付き合わせて……」
    「馬鹿だろ、おまえ」
    衣更はクスッと笑った。
    「衣更?」
    「俺に思い入れがなくなって、おまえが見たいものなら、充分だ。おまえだっておまえ自身に興味がなくたって、俺が見たい、行きたいって言ったら、付き合ってくれるだろう?」
    「それはもちろん」
    北斗は即答する。
    「それと同じだ」
    何故立場を入れ替えれば即答するのに、そんなに気を遣うのだろうかと苦笑しつつ、言葉を続ける。
    「俺は逆に嬉しいけどな。おまえが俺を思い出を分かち合う相手に選んでくれたことに」
    衣更は穏やかに微笑む。
    「そうだな。最後にこの桜を見るなら、おまえと一緒がいいって思ったんだ」
    ようやく自分の気持ちに整理がついたのか、穏やかな口調で告げた。
    「そっか」
    衣更もゆっくりと息を吐いた。
    ようやく北斗が安定しているのを感じて、衣更自身も安心したのだ。
    「衣更……」
    「ん?どうした?」
    北斗は衣更の腕から抜け出すと衣更に覆い被さった。
    「ほ、北斗?」
    北斗が自分の上に来る体勢はあまりない。自然北斗を見上げることになり、思わずドキドキしてしまった。
    「おまえが足りないんだ。もう少しだけおまえを感じたい」
    そう言って、衣更の唇に自分のそれを重ねた。
    「北斗……」
    「頼みがあるっていったら、聞いてくれるか?」
    至近距離で瞳がぶつかり合う。
    美しい蒼は変わらないのに、どこか思い詰めた光があった。
    「何だよ、改まって」
    「……痕を付けたい」
    「いいぜ」
    衣更が即答すると、北斗は驚きに目を見張った。
    「……いい、のか?」
    乾いた声で問いかける。
    「聞いたのはおまえなのに、変な反応だな」
    「いいと言うとは思わなかったんだ」
    至近距離にあった瞳をふいっと逸らす。
    「そりゃ、一応アイドルの衣更真緒としては駄目だって言わなきゃいけないんだろうな。だけどさ、おまえみたいな真面目なやつが俺にそんなことを言うなんてよほどのことだろう?だったら、おまえの恋人としての衣更真緒としては了承するしかない」
    そっと手を伸ばして北斗の頬を撫でた。
    衣更自身、北斗の身体に自分の所有印を刻みたいと思ったことがある。
    だが、恋人はアイドルだから、と自分を抑えているに過ぎない。
    北斗も本来同じはずなのだ。それを強いて言葉にするのは、それなりの意味があるのだと察するしかない。北斗がその手の我が儘を言わないことはよくわかっているのだから。
    「おまえは俺に甘すぎる」
    「いいんだよ。仕事で甘やかす気はないし、駄目なものは駄目だけど、恋人としてはとことん甘やかすって決めているんだから」
    「馬鹿だな、おまえは」
    その声はまるで泣いているように聞こえた。
    「どうだろうな?ここしばらくは肌を晒すような仕事はなかったし、あまり目立つ場所でなかったら、大丈夫だから」
    さすがに服を着ても隠せないような場所にキスマークを付けられるのは困るが、その辺りは弁えてくれていると信頼している。
    「……やっぱり、いい」
    しばらくの間、躊躇した後、ゆっくりと首を横に振った。
    それは言いたかっただけなのか、それとも了承されたことに満足してしまったのか。
    「そうか」
    衣更は頬に触れていた手をゆっくりと背中に回して、ぎゅっと抱きしめた。
    「お、おい」
    突然のことに北斗の体勢が崩れて、そのまま衣更の上に体重が掛かってしまう。
    「どうした?」
    「その……重くないのか?」
    「おまえ一人支えられないわけないだろう?それに、おまえは軽いからな。もう少し肉を付けてもいいくらいだ」
    少しくらい俺に身体を預けろよ、と笑った。
    実際に彼の重みをつらいと思ったことはない。むしろ感じる重みが心地よい。
    肉体的にも精神的にも彼を支えられる自分でありたかった。
    「……すまない」
    「こう言う時はさ、礼でいいから」
    「ありがとう」
    細い声で告げられる。
    「どういたしまして。北斗」
    「ん?」
    「本当に大丈夫か?」
    少しだけ心配になってもう一度確認するように尋ねる。
    北斗が自分に甘えてくれるのはかまわない。だが、今の彼はあまりにも普段と違いすぎて。
    「ふと思ったんだ。あると信じていたものが、なくなることがあるのだと」
    ぽつりと北斗は腕の中で言葉にする。
    「ああ」
    「だから、当たり前のように過ごしているこの時間もとても大切な時間だと気づいたんだ。忙しくてずっと会えない、すれ違いの日々を過ごすかもしれないし、どちらかが仕事か何かで海外にしばらく行かなければならない場合だってある」
    「そうだな」
    それはあるかもしれないという不確定な可能性の話ではない。あってもおかしくない話なのだ。死別だの別れ話だのそんな物騒な話ではなくとも、ちょっとしたことで、会いたい時に会えない、話したい時に話せない。そんな期間が長期にわたってある可能性は決して低くない。
    「だからこそ、2人でいられるこの時間をもっと大切にしたいし、それに、その……もっと触れ合いたいって思った。触れたいって思った時はちゃんと触れたいって」
    立て板に水というわけにはいかない、考え考え口にしているのがわかる話し方だ。だからこそ、その想いが真実なのだとわかる。
    「そっか」
    北斗の言うとおりだ。忙しいと言いながらも同じ屋根の下に住んでいるので、当たり前のように会える。電話もメールもできる。そんな環境を当然とするべきではないのかもしれない。
    そして――。
    (北斗はきっと……)
    彼は自分でも気づいているのかわからない。
    だが、きっと自分の中で失われた物への痛みがある。
    自分の感情が整理できたとしても、痛みや違和感がなくなるわけではないのだ。
    「北斗」
    「何だ?」
    「もしもおまえが何かを失った時は、どんな小さな物でも俺が埋めてやるよ。だから、これからも何かあったら、俺を頼れよ」
    「……おまえは?」
    頬を触れる指先が少しだけ震えているのを感じる。
    おそらくは自分が埋める存在になり得るのか、不安なのだろう。
    「俺が何か失ったら、おまえが埋めてくれる?」
    「……ああ、もちろん」
    北斗は少しだけほっとしたような表情を浮かべた後、ふわりと微笑んだ。
    「何がおかしいんだよ」
    「いや。そうしたら、いつか俺の中におまえしかいなくなるんじゃないかってな。だが、それも悪くないって思えたんだ」
    「何だよ、それ」
    「これからの人生、もちろん、得るものもあるだろうが、失うものもある。だが、おまえがそれを埋めてくれるなら、少しだけ怖くなくなる、そんな気がしたんだ」
    静かにゆっくりと語っていく。
    不可抗力で何かを失うこともあるだろうし、失われた物が心を苛む時も必ず来るだろう。それでも自分にとって絶対の存在がいてくれたら――。
    そんなまっすぐな想いを感じる。
    「そうだよな」
    衣更も頷く。
    お互いさえいれば何もいらないなんて言うつもりはさらさらない。
    だが、それでもお互いが寄り添うことで、温もりを分かち合うことで、つらい何かがあったとしても立っていられる。
    「北斗」
    「ん?」
    「おまえ、身体、大丈夫か?」
    「は?」
    きょとんとして、衣更の顔を見下ろしている。
    「いや、大丈夫そうなら、もう一回、しよっか?」
    若干慣れてきたとはいえ、受け身である北斗には負担が掛かる。そのため、普段は性行為も一度で終わらせていることが多い。
    だが、今はどうしても北斗に触れたかった。
    北斗が無理だと言えば、抱きしめるだけでもよかったけれど、もっと深く繋がりたいと。
    北斗の言うとおりだ。2人でいられるこの時間は決して無限ではなく、有限だ。
    相手の意志を無視するのは問題外だが、触れたい、触れ合いたいという気持ちも大切にしたいと思ったのだ。
    「おまえから言うのは珍しいな」
    北斗は小さく笑った。
    「駄目ならいい」
    「そんなことは言っていないだろう?何なら俺がしてやろうか?」
    にやりと笑う。
    「おまえがどうしてもって言うならそれでもいいけど、できれば今度がいい。今は俺がおまえを愛したい」
    そう言って、衣更はゆっくりと北斗の身体を押し倒す体勢にする。
    北斗も男だ。もしかしたら、自分が愛したいと思うこともあるかもしれない。だが、今は自分が彼の欠けた物を埋めてやりたかった。自分で満たしてやりたいと。
    「そうか。……衣更」
    「何?」
    「おまえが好きだ」
    ゆっくりと手を伸ばして衣更の頬を触れて告げる。
    「ああ、俺もおまえが好きだ」
    泣きたくなるくらい愛しい。
    衣更はゆっくりと北斗の髪を撫でながら、口づけを落とした。


    明け方。
    まだ薄暗さが残る時間、何故か目を覚ました衣更は抱きしめた北斗の起こさないように気をつけながら腕を抜いて身体を起こす。
    衣更の腕の中でぐっすりと眠っていた北斗は少しだけ身動ぎしたが、そのまま眠っている。
    (少しやり過ぎた、かな?)
    ゆっくりと北斗の髪を撫でる。
    結局、かなり時間をかけて、北斗を抱いてしまった。
    結果、相当な疲労をさせてしまったらしい。最後は北斗は達した後、ほとんど気を失うように眠りに落ちていた。
    (桜、か?)
    北斗の頬に花びらが落ちているのに気づいた。
    昨夜、障子を開けたままだったからか、どうやら桜の花びらが入り込んだらしい。
    布団も縁側に近い場所に敷いていたため、風に乗ってきたのだろう。
    やはり何となく面白くなくて、その頬に乗っている花びらを摘まんで空に舞わせた。
    だが、視線を桜に移すと、ほんのりと明るくなりつつある空の下では、不思議なもので夜見た時とは違って見える。
    「衣更……?」
    「あれ?起こしたか?」
    少しだけ眉を寄せて問いかける。寝言でもない限り、声をかけられたら、起きていることは確定だし、寝言であれば、この問いかけで起こしてしまう可能性もあるのだが。
    起こさないように注意したつもりだったが、起こしてしまっただろうか。
    「ちょっと、寒くなった、から」
    少し掠れた声。
    風邪ではないと思うが、喉も商売道具だ。後で喉飴か何かを舐めてもらった方がいいかもしれないとちらりと思った。
    「わりぃ。起こすつもりはなかったんだ」
    多分自分が抱きしめていたのを解放した分、身体が冷えてしまったのだろう。ただでさえ、北斗は冷え性だから。
    「いや。桜、見ていたのか?」
    「まあな。夜見ていたのとは雰囲気違うなって思って」
    「そうだな」
    北斗も頷いた後、身体を起こそうとしたが、途中で動きが止まり、そのまま寝転んだままになった。
    「腰、痛いのか?」
    その様子に衣更が心配げに尋ねる。
    「あ……いや、その…少し、だけ、な」
    ばつが悪そうな顔をして、視線を逸らしつつ、ぼそりと告げる。
    「ごめん、その……」
    本人は少しだと言ったが、北斗が起き上がることを放棄したのは、おそらくかなりの痛みが走ったからだろう。
    「何故おまえが謝るんだ?」
    不思議そうに問いかける。
    「どう考えても俺のせいだからな」
    ゆっくりと髪を撫でながら苦笑する。
    「……俺が止めろって言えば止めたんだろ。それなら俺のせいだ」
    だから、気にするな、と言うようにぎこちなく笑う。
    「それはそうだけどな」
    (おまえは俺を拒まないことを知っているからな)
    北斗は一度懐に入れたら、とことん甘い男だ。仲間であり、恋人である自分を拒むことなど普段からあり得ないのだ。ましてや昨日は自分が北斗を求めていた。そんなときに北斗は絶対に自分を拒絶しない。結果自分が壊れるようなことになったとしてもだ。それを知っていながら、加減をしなかった自分に咎があると衣更は思っている。
    だが、口にしても、北斗に否定されるだけで言い合いになることがわかっているので、そこで打ち切ったのだ。
    「衣更」
    「ん?」
    「その、悪いんだが……飲み物を取ってもらえないか?」
    「スポーツドリンクでいいか?」
    「ああ」
    ここに来る前に寄ったコンビニで買ったペットボトルのスポーツドリンクを冷蔵庫に冷やしていた。衣更は移動して、それを取ってくると再び戻ってくる。
    「起きられるか?」
    こんな事態は想定外なので、吸い飲みなどは用意していない。ストローなどもないので、ペットボトルから飲んでもらうしかないが、寝たままであれば、相当厳しいのではないだろうか。
    「ん、ああ……」
    北斗は頷くと、かなりゆっくりとした動作で身体を起こす。
    「ありがとう」
    衣更からペットボトルを受け取って蓋を開けて、こくこくと飲んでいく。
    喉が動く様子すら、色っぽく感じて、衣更は微かに内心、苦笑した。
    「後で湿布でも買ってくるな。っと、その、暑いわけじゃなかったら、ちょっと、着てもらってもいいか?」
    情事の後であることを色濃く残した様子で全裸なのは刺激が強くなかなかに目の毒だったのだ。
    そもそもまだ春だ。こんな明け方はぐっと冷え込む。暑いどころか全裸では身体が冷えてしまう。
    「わかった。ちょっと荷物から持ってきてもらえるか?」
    この貸別荘に部屋着や浴衣等のサービスはない。そのことは事前に確認していたので、北斗も衣更も部屋着の類いは持ってきているのだ。
    衣更も自分の荷物から下着と部屋着として持ってきた服を取り出すと身につけて、北斗の荷物からも同様に下着と部屋着を手にとって、北斗に手渡す。
    「ほら」
    「ありがとう」
    「着られるか?」
    「ああ」
    この短時間で楽になったわけでもないだろうが、何となく身体が慣れてきたのか、ぎこちないながらも渡された服を着始める。
    「北斗」
    着終わった辺りで声をかけた。
    「どうした?」
    「まだ早いが、寝るか?」
    まだ、未明と言ってもいい時間だ。特に北斗には負担をかけたから、眠いかもしれない。
    「おまえは?」
    「俺は目が覚めてしまったし、シャワーでも浴びて桜でも見てようかなって」
    結局昨日桜はそれほど見ずに情事に耽ってしまったが、北斗の話を聞く限りではこの桜を見る機会はこの時だけとなってしまう。それはそれで名残惜しいと感じたのだ。
    「それなら俺もそうしよう。おまえが起きているなら、寝るのも勿体ない」
    「一人でシャワー浴びられそうか?」
    衣更は心配げに尋ねた。
    「そうだな、俺はシャワーはもう少し後にしよう。拭いてくれたんだろう?」
    「まあ、一通りはな」
    苦笑して頷く。北斗が気を失うように眠ってしまった後、衣更は濡れたタオルで軽く北斗の身体を清めたのだ。
    「いつもありがとうな」
    「礼を言うことじゃないだろ」
    情事後に北斗に意識があったとしても、気怠げにしていた場合は清拭をしてやることも多い。だが、普段自分のことは自分でやろうとしている北斗に世話を焼くことは嫌いではない。
    「おまえに何かしてもらえるのは嬉しいからな」
    北斗はやわらかく微笑んだ。
    「そっか」
    北斗の言葉に衣更も少し安堵した。
    自分のことを人にさせるような男ではないのに、情事の時だけはそっくりそのまま自分に身を委ねてくれる。恋人として接するときだけは自身に甘えるのを許しているかのようだったから。
    「シャワー、浴びてくるのか?」
    「やっぱり後でいいや」
    そう言って北斗の身体をぎゅっと抱きしめた。
    衣更自身は北斗を清拭した後に軽くはあるが汗を流してから寝ていたので、どうしても今シャワーを浴びたいというわけでもない。
    「そうか」
    「初めから、こうしていたらよかったのかもな」
    北斗を抱きしめつつ、桜を見遣ってぼそりと呟いた。
    「何の話だ?」
    「こうして、おまえのことを抱きしめながら、桜を見たら、あんなに不安にならずにすんだのかもしれない」
    手が届く位置、ではなくて、この手に掴んでいたら、あのまま攫われてしまうなんて思わなかったのだろうかと。
    「俺はおまえの傍にいるぞ?喩え、おまえが俺の手を離していたとしても」
    「知ってる」
    それに何よりもいくら愛しい恋人だからと言って、物理的にその手をずっと掴んでいるなど、抱きしめているなど、不可能なのだ。
    「おまえだって、いてくれるんだろう?」
    微かに感じる不安げな揺らぎ。
    「もちろんだ」
    きっぱりと力強く断言する。
    見上げると夜明け独特の色合いの空の色。
    桜がゆるりと枝を揺らして、花びらを散らせる。
    「もう少し近くで見るか?」
    「そうだな」
    北斗が頷くと衣更は北斗の身体を抱き上げた。
    「おいっ」
    北斗が抗議の声を上げる。
    「いいから。まだ、腰怠いんだろ?」
    衣更はそのまま北斗の身体を縁側まで運ぶ。
    北斗の身体を抱き上げたままの状態で腰を下ろした。お姫様抱っこを座った状態でしている形なる。
    「下ろしてくれないか?」
    「少しこのままでいいだろ?」
    膝裏にあった腕は抜いて、自分の足の上に座らせる形にして、肩をそのままぐっと抱き寄せる。
    「重くないのか?」
    その体勢が嫌なのかと思ったら、どうやらこちらへの気遣いらしい。
    「そりゃ、羽根のように軽いとは言わないけどさ。だけど、この重さがいい」
    自分の腕や足に感じる重みが自分を安心させる。
    「変なやつだな」
    北斗は軽く苦笑する。
    「俺はさ、おまえを温めるのも、おまえの背を護るのも、俺じゃなきゃ嫌なんだ」
    衣更は穏やかな口調で、しかしきっぱりと強い決意を持って言い切った。
    恋人としてその身を温めることも、仲間としてその背を預けられることも、他の誰にもさせたくない。
    「衣更?」
    「だから、たまにはこうしていたんだよ。馬鹿みたいかもしれねえけど、おまえを支えているって実感がほしいんだ」
    「それがこれ、なのか?」
    北斗は少し不思議そうに首を傾げる。
    「まあな。こうしておまえのこと感じていたいときがあるんだよ」
    「そうか」
    「ああ」
    「それなら、いい」
    おまえになら、と小さく付け加えられることがどれほど自分を有頂天にさせるか知っているだろうか
    氷鷹北斗は自分で立つことを知っている。
    それでも、自分が必要とすれば、その身を委ねてくれるのだから。
    はらりと花びらを散らす桜を見て、もしかしたら、自分は嫉妬しているのかもしれないと衣更は思った。
    この桜は幼い頃の、自分が知らない北斗を知っている。だからこそ、今は北斗が自分の物だと、主張したくなるのかもしれないと。
    そこまで想いを馳せて、はっとなる。
    「この桜、どうなるんだ?」
    建物が取り壊されるのは聞いたが、桜はどうなのだろうかと。
    ここで一本だけで咲いているのか、それとも切り倒されてしまうのか。
    「この桜は管理人の家に移植されるらしい」
    やわらかな声で北斗が告げる。
    「そうなんだ」
    安堵の声が漏れる。衣更にとってこの桜は大した思い入れはないが、そこにある樹木が切り倒されるというのはあまり気持ちのいい話でもない。何よりも北斗には思い入れがあるだろうし、それが切り倒される方向でなくてよかったと心から思ったのだ。
    「桜の移植は難しいとも言われている。だから、新しい場所に根付いてくれるかどうかはわからないがな」
    「大丈夫だ。絶対に上手くいくさ」
    淡く微笑んだ北斗に衣更はきっぱりと断言した。
    「おまえがそんな言い方するのは珍しいな」
    北斗は少しだけ目を見開いた。
    Trickstarの中でいつもそう言って鼓舞するのは北斗の方が多い。むしろ冷静な意見をするのが衣更だったはずだ。
    「たまにはいいだろ?」
    いつもは北斗がTrickstarの指針だ。
    だが、彼とて常に自信たっぷりでいられるわけではない。そんなときは自分が彼への自信になってやりたい。
    「そうだな」
    衣更の強さすら感じる口調に北斗も緩く頷いた。
    「北斗」
    「ん?」
    「ここに来てよかった。誘ってくれてありがとな」
    改めて自分の気持ちを思い知らされた。北斗への独占欲も、彼への依存も、大切にしたい想いも、自分の脆さも。
    突きつけられた、といってもいいのかもしれない。
    だが、それは決して悪いことではない。自分の中で向き合わなければならないことだから。
    「おまえがそう思ってくれるなら俺も嬉しい。俺も最後におまえとこの桜が見られて、ここで過ごせてよかったって思っている」
    「それならよかった」
    この貸別荘が取り壊されてしまったら、もう二度とこの地へは来ないかもしれない。
    移植された桜を見ることはないかもしれない。
    それでも、この桜を忘れることはないだろうと衣更は思った。
    改めて思い知らされた北斗への想いと共に心に残り続けるだろう。
    「北斗、俺はおまえがいないと駄目だって、思い知らされたんだ」
    だから――。
    ずっと傍にいてほしい、そんな想いを込めて、北斗の唇に口づけた。


    まるで永遠(とわ)の誓いを交わすかのような二人に桜の花びらがふわりふわりと舞い降りた。


    ~Fin
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