「甘やかす/その顔に弱い」 観光シーズンが始まり、いわゆる繁忙期に入った。それは毎年のことで、大変ではあれど心構えもできていることだ。それに、光忠はこの時期の忙しさは好きだった。いつもと違う場所での観光を楽しんできたひとたちに、こうして料理を楽しむ時間を提供できるのはとてもうれしいことだ。
「……」
けれど、この一週間のいそがしさは話が違う。キッチンに不意の欠員が出てしまい、そのフォロー人員のないまま繁忙期に入ってしまったのだ。それが一日や二日ならきっと乗り越えられただろうが、このシーズンの復帰は見込めそうもないと聞いている。欠勤の原因は不慮の怪我だ、当人を責める言葉は誰からも出ないが、正直なところ、手が足りない。本当に足りない。なんとか回してはいるが、もしこの上で何かが起これば対処できるかどうかも危ういだろう。
「…よし。明日のランチは任せられるから、ディナーの仕込みと、」
溜め息を吐きかけた口から小さく声を出し、ゆるゆると意識して息を逃した。危うくても、手が足りなくてもやるしかない。月が変われば本店から一人ヘルプをもらえるようにオーナーが頼んでいるらしいから、長くてもあと10日ほど。
ここでがんばらないとね、と己を鼓舞するように顔を上げて、光忠は目を細める。
バスを降りて、徒歩七分。見上げたマンションの五階の、角部屋。明かりがついていることに頬が緩んでしまう。今夜は一緒にご飯を食べられそうだと言っておいたのだ。帰ったら作るから待っててとも言えば大倶利伽羅も目尻を緩めていた。五日ぶりだろうか。夜は少し冷えてきたから温かいものにして、ゆっくりしたいなと思う。大倶利伽羅は朝が早いから夜更かしはできないが、食事とすこしの休憩が二人で取れれば十分だ。
最近の買い物は大倶利伽羅に任せていたので、きっと冷蔵庫にはいろいろ入っているはず。光忠が料理が好きなことに加えて大倶利伽羅も食べるのが好きだ。それに料理もする。だからときどき、自分が食べたいものや、光忠へのリクエストのための買い物がしてあったりもして、帰宅してから冷蔵庫を覗く時間も楽しかった。
今夜は何があるかな、とすこし浮かれた気持ちで部屋のドアを開け、光忠は靴も脱がずに目を丸くした。
たしかに、廊下を歩いている時からいい匂いがしていた。お腹にきく匂いだなぁと、どこかから届くおいしそうなそれに小さく笑ってもいた。
部屋に一歩、入った途端にその匂いが一層強くなった。部屋自体も少し温かい。湿度を伴うこのぬくさは料理をしているときのものだ。
「えっ、」
目を丸くしたまま足を動かしたせいか、つま先がぶつかってしまう。焦ったように踵を抜いて靴を置き、伸ばした手で揃えながらも視線は短い廊下の先、右側のキッチンに釘付けだ。
玄関から大きく三歩、進んで曲がった。キッチンにはとてもおいしそうな匂いが広がっている。シンクには使われたらしき器具が置かれていて、コンロには大きな鍋が一つ。そこに立つ大倶利伽羅が、ちらりとこっちを見た。
「おかえり」
その口元が少しだけ笑っている。だから光忠は一気に力が抜けてしまった。じわりじわりと表情をゆるめ、鞄を椅子に置いて伸ばした腕はすぐに届く。厚手のシャツの裾を掴み、後ろに立って大きく息を吸う。それから、ぽす、とうなじのあたりに額を乗せた。
「……伽羅ちゃんのカレーだ」
「あぁ。もうできる」
「いい匂い」
「あぁ」
「……ぁ〜、」
まるで腑抜けたように弱々しく響く声に、背中が笑う。あたたかくて、やさしくて、光忠はくしゃりと目を瞑って額を擦り付けた。甘えるようなそれに、大倶利伽羅はため息を吐かない。肩もすくめない。呆れることも躱すこともない。
不意打ちだなぁと、ただただ嬉しくなった。大倶利伽羅が料理をするのは珍しいことじゃない、光忠が作りたがることが多いせいで、その数が少ないだけだ。でも今日は、このタイミングは、なんだろうか。とんでもなくやわらかく、たとえば心のやわなところをくるまれてしまったようだ。
「…何入れたんだい?」
「…さつまいもと、しめじとまいたけ、たまねぎと、まぁ色々だ」
「秋のカレーだね」
「あんた、好きだろう」
もうだめだ。シャツを掴む手にぎゅうと力を入れて引っ張ってしまった。おい、と声を上げながら、大倶利伽羅はゆっくりとカレーを混ぜている。
「だいすきだよ」
「………」
なのに、こんなときには何も言わないのだ。きっと目を細めて、光忠を甘やかす時の顔をしているのだろう。あぁもう、と大きく息を吐いて、ぱっと顔を上げた。
「手を洗ってきます」
「ふ、…あぁ、そうしろ」
早くしよう、とネクタイを解きながら手を洗ってうがいをし、ラフな服に着替えてキッチンへ戻ればもうテーブルに料理が並んでいた。たっぷりのご飯と、具沢山のカレー。サラダはざく切りのキャベツときゅうり、多分ドレッシングがかかっている。本当に美味しそうだ。
座れと言われて大人しく腰を下ろした。あたたかな部屋で、テーブルを囲んで向かい合う。
「いただきます」
手を揃えれば、同じように手を合わせていた大倶利伽羅はやっぱり光忠を甘やかそうとしているのがわかるような、そういう顔をしていた。