春に約束 例えばあのとき、彼がどんな顔をしていたのか。しっかりと覚えている。でもそれが正しいかどうかはすこし自信がない。だってこれは光忠の記憶で、光忠の思い出で、つまり光忠の見たものが元になっている。だからすこし、自信がないのだ。
あのとき、驚いたようにわずかに目を丸くして、それから、わかった、と呟くように返事をくれた大倶利伽羅の口元は、ほんのかすかに笑っていた。
笑っていたと、思う。
「―――、」
はぁ、と軽い溜め息を吐き、光忠は手元に視線を戻す。指先に挟んでいるのは一枚の葉書だ。桜の花が舞う紙面に、メッセージは短い一言だけ。
『春にまた』
大倶利伽羅も、覚えていてくれたんだろうか。これはあのとき、光忠がかけた言葉の一部だ。それを返してくれたのかもしれない。それともこれは偶然の一致だろうか。だとしたら、それもまたうれしい。
葉書の角を人差し指で支えてくるりと回す。宛名面には手書きの文字が並んでいた。相変わらずきれいな字を書く。同級生だった当時から知っていたが、もっとうまくなっている気がする。たしか、祖父が書道家で子どものころに習ったのだと言っていたはずだ。いや、叔父だっただろうか。とにかく風変わりな親戚だと聞いた。
何度となく交わした他愛もない話のひとつだ。教室の端で、並んだ机で、廊下の窓際で、過ごした光景を覚えている。
「なつかしいなぁ」
たった五年前だ。けれどもう遠く懐かしい気がする。だからだろうか。ひどくそわそわしている。たった五年前で、でももう五年もたった。
光忠は今年の始めに、店を持った。友人の伝手で、喫茶店として昔からここにあった建物を借りることができたのだ。改装は兄弟たちが力を貸してくれた。宣伝は家族と友人が担ってくれた。いざ迎えた開店の日は、そうして関わったみんなが来てくれた。
大倶利伽羅は高校を卒業した年に地元を離れていたから、メッセージだけ送っていた。店を持つことが決まった日と、オープンの日に、二度。そのどれもに短く祝いの返事をもらった。うれしかった。
開店から三か月が過ぎようとするころに、もう一度メッセージを送った。すこし早い春の挨拶と並べて、またいつかこっちに戻ることがあればと、綴ったのは社交辞令でもなんでもない。来てくれたらいいなと、込めた願いは大きかった。大倶利伽羅からの返事は、いつも通りの短い言葉だった。
それから1週間ほどたって、届いたのがこの葉書だ。
「……、」
卒業式の日、花びらが風に舞う様に目を奪われて足を止めた。校庭の端にある桜だ。三年間幾度となく見てきた木だ。なのにふしぎと、その日はとても特別なものに思えた。
細めた視界に人影を認めて、端に避けようとした光忠はふと動きを止めた。こちらに向かって歩いてくるその人は、光忠と同じように桜を見上げている。それから、つい、と視線を下げた。
大倶利伽羅だった。
「……」
「桜、きれいだね」
伽羅ちゃん、と呼べば、かすかに頷いたのか、毛先が揺れている。となりに並んで、もう一度桜を見た。薄い色の花びらがいくつもいくつも風に流れていく。ふわふわと浮かぶように、ときどき強く吹かれてぶわりと舞って、視界が空の青と花びらだけになる。
「ここに来るのも、もう終わりなんだね」
「……あぁ」
「ふしぎだなぁ」
当たり前のように通っていたのに、あしたからは当たり前にここに来なくなるのだ。そう思って、光忠はひとつ気づいた。大倶利伽羅とも、今日までなのかもしれない。いいや、また会おうと、そんな話をした。気心の知れた友人と、また遊ぼうと笑い合った。その中のいつかに大倶利伽羅もいた。
でも、ここで会うことはもうない。
「ねぇ、伽羅ちゃん」
「なんだ」
「また春に会おうね」
きっと唐突だった。でも光忠にはとても自然な願いだった。また会いたい、またこうして桜を見たい、だから春にまた、会いたい。
驚いたようにすこしだけ丸くなった目は、空の真ん中にある太陽みたいにきらきらしていて、光忠はそのほんの一瞬に、ずっと、見惚れていた。
駅前の桜が咲いた。この店の近くの公園でも、つぼみが膨らんでいた。春が来たのだ。
葉書が届いてから、光忠は気持ちが落ち着かないまま過ごしている。だってもう春だ。でもまだ春は続く。桜もまだもうすこし、咲き続けるはずだ。いったいいつ、と思えば、落ち着けるわけがない。
けれど今朝、店に来て、窓を開けて、ちょうど吹き抜けた風に桜の花びらが舞っているのを見て、思ったのだ。
今日、会えるかもしれない。
約束した春が、来るかもしれない。
「……、」
モーニングを過ごす客が途絶えればランチまでは小休止だ。光忠はテーブルを拭いて回る。カウンターも丁寧に拭き清め、中に戻った。ランチの下ごしらえは済んでいるが、もう一度確認しておく。今日の日替わりメニューはパスタとハンバーグだ。パンとライスは選べる。パスタの味は三種類、ハンバーグは二種類だ。本音を言えばパンは焼き立てで出したいが、まだ一人では難しい。その代わり、できるだけランチタイムに合わせて焼くようにしていた。ライスも大盛りに応えられるよう多めに用意する。
大倶利伽羅は、ハンバーグだろうか。パスタよりもそっちのイメージがあるのは、きっとよくお弁当に入っていたからだ。お弁当用に小さく作られているそれを一口で頬張る横顔が好きだった。
りん、とドアベルが鳴る。ぱっと顔をあげて笑みを浮かべ、光忠はぴたりと体中の動きを止めた。
「――っ、」
ドアを押し開け、入ってきたのは大倶利伽羅だ。髪が、すこし伸びている。目元にかかる前髪はその表情を隠してしまっていたが、それでもわかった。あの金色の目が、すこしだけ、丸くなっている。
「…いらっしゃいませ」
「………、」
「どうぞ。よかったらカウンターに」
ひとつ、溜め息のような吐息をこぼして、大倶利伽羅が足を進める。光忠が待つカウンターの前まで進んで、その手が椅子の背に置かれた。
グラスに水を注ぎ、手拭きと一緒に大倶利伽羅の手元に並べる。
「…ありがとう」
「……何の礼だ」
「うん、来てくれてうれしいんだ」
こぼれてしまった礼と笑みに、大倶利伽羅が今度こそはっきりと溜め息を吐いた。けれども十二分にその表情はやわらかい。それが記憶と重なるようで、光忠はじわりじわりと頬を緩める。
「葉書、届いたよ」
「――あぁ」
「春だね」
「……桜が、咲いたな」
「うん」
「あんたは、」
「うん?」
メニューを渡しながら続きを待てば、大倶利伽羅の目がゆるく細められていく。
「…あんたは、変わらないな」
「え、」
どういう意味だろうか。そう聞きたいのに、その目がすぐにメニューへ向いたせいで、聞けなかった。
騒いでしまった胸を抑えるように手を置いて、努めていつも通りの声を出す。日替わりのメニューはこっちだよ、とカウンターに置いているポップを差せば、ハンバーグか、と言うのに思わず笑った。
「たっぷりチーズと、デミグラスソースとあるよ」
「そうか」
パスタのほうはナポリタン、ペペロンチーノ、クリームソースだと続けたところで、大倶利伽羅の眉が寄った。
「どうかした?」
「…ランチタイムはまだだろう」
「あ、そうだね」
「……」
「…ふ、気にしないで注文してくれるとうれしいんだけど」
もうランチの準備はできているし、せっかくだ、大倶利伽羅に食べてほしい。どっちも自信作なんだと笑う光忠に、寄っていた眉根が徐々にほどけていく。それからまた溜め息を重ねて、視線がうろりとさまよった。
「お腹空いてるかい」
「…それなりに」
「なら、パスタにハンバーグ乗せようか」
「――、」
やけにゆっくりと上がった視線が、光忠を見つめて、くっと笑う。
「あんた、そういうところが」
「ぇ、」
「………、お人好しが過ぎると、貞に言わせるんだな」
「そ、うかな」
ぎゅうと自分の胸元を掴んでしまった。ばくりと跳ねて、くるしくなった気がしたのだ。胸の奥が、腹のどこかが、体中が、意識すればどこもかしこも暴れている。
それでもどうにか、パスタとハンバーグをオーダーとして受けてキッチンに向き直った。大倶利伽羅に背中を向ける形だ。大きく吸った息を、また大きく吐き出す。それを二回、繰り返して冷蔵庫を開ける。
「光忠」
「っ、なんだい」
ハンバーグの種を取ろうとしていた手が滑りかけ、慌てて掴み直した。五年振りに呼ばれた名前に、耳にした音に、じわりと体温が上がる。どうしてこんなに動揺してしまうんだろうか。
鍋を用意して火をつけ、フライパンを下ろしてコンロに置き、一度振り返る。大倶利伽羅はカウンターに手を置いて、じっとこちらを見ていた。見上げてくる目の色がすこしだけ濃い。店のライトのせいだろうか。オレンジに近い色にしているから、きっとそうだ。ふっと瞼に隠れたそれが、現れた次にはまるで笑うように細められている。
「こっちに戻ることが決まった」
「――!」
「夏には引っ越すつもりだ」
「え、こっちって、どこに、」
「駅前から少し歩く」
「公園のほうかい? それとも、」
「公園だ」
駅前から歩いて一五分のところに公園があった。そこからさらに十分も歩けば、この場所に着く。光忠がはくはくと喘ぐように唇を震わせていると、大倶利伽羅が首を傾げた。
「…あんたの店が、こんなに近いとは思わなかったな」
「伽羅ちゃん、じゃあ、また、」
「あぁ」
「また、来てくれるのかな」
「…そうだな」
こんどは、と続けて、大倶利伽羅は水を飲んだ。グラスについていた水滴が落ちていく。カウンターにぽつりと丸く残った。
「こんどは、春でなくても、あんたに会えるな」
「っ、待ってるよ!」
つい、身を乗り出してしまった。声だって大きくなってしまった。右の目だけを器用にすがめた大倶利伽羅に、笑われてしまった。
あんたは、変わらないな。
繰り返されたその言葉がやけに優しく響いて、光忠は困ったように息を吐いた。また胸がうるさい。もしかしたら顔も赤いかもしれない。なんてことだろうか。こんなのまるで、春の嵐だ。