「おはようございます坊っちゃま」
柔らかな声と共に陽の光を遮っていたぶ厚いカーテンが開けられた。真っ暗だった室内に入ってきた突然の光がまぶしくて、身を捩って逃げようとしたが、この厳しい執事は許してくれない。
「今日はご友人とお約束がある日でしょう。寝坊していいんですか?」
呆れたようなからかうような声音はとても主人を敬っているようには聞こえない。ん~と唸りながら薄目を開けて見れば、優しい顔をした執事が思ったより近くに来ていてシンは飛び起きた。
「起きなければこのまま口付けてやろうと思ったのに」
にやりと笑うその顔は、さっきまでの優しい表情と口調とは一転して、男を感じさせる熱の篭ったものになっていた。
「なっ……!」
「冗談ですよ。さあ起きてください。アーリーモーニングティーはいかがなさいます?」
「……茶葉は任せる。渋めのストレートがいい」
「かしこまりました」
動揺して顔を真っ赤にするシン。先程までの熱をあっさり隠して、涼しい顔で給仕する執事の完璧なまでの所作を見ながら、シンはドキドキが止まらなかった。
この執事―碓氷アブトという―は、いつもこうだ。父の知り合いの子を執事見習いとして預かった、と聞いてから執事になるまでのスピードといったら……雇った父だって驚いていた。それだけ、アブトは優秀だった。
本来執事は下働きから始め、徐々に責任のある仕事を任されていき、屋敷内の全てを把握できた時に執事として任命される。それを同年代の少年が、しかも僅か一年足らずでやり遂げたのだ。
完璧で隙がない。アブトと働く者たちは口を揃えて彼を称する。実際アブトがシン専属の執事となってから、何かミスをしたのを見たことがない。夜中にこっそり気になっていた書物を読んでいたらいつの間にか室内に来ていて寝かしつけられるし、なんなら読もうと思っていたら食後に運動をさせられてぐったりしてそのまま寝落ちてしまうこともままある。おかげでシンの肌ツヤはとてもよくなった。
そんな完全無欠のアブトと、実はひっそりお付き合いをしている。アブトは常に完璧でスマートで、外での距離を決して見誤らない。シンも自分から誰かに言ったことはないから、友人も屋敷内にいる者も、きっと誰も知らない。
だけど不思議と寂しくはなかった。屋敷外の人間から鉄仮面なんて揶揄されることもあるアブトが、唯一熱を見せるのがシンの前だけだと言うのが嬉しいから。
「どうしました?」
「……べつに」
優雅な手つきで給仕された紅茶は爽やかな香りに反して深い味がある。ああもうこの時期か、と懐かしさを感じつつ香りと味をゆっくり堪能していると、ふふっと小さな笑い声が聞こえてきた。
「どうしたんだ?」
「いいえなんでも。そろそろ起きましょう。今朝の朝食はフレンチトーストですよ」
「やった! 島さんのフレンチトースト大好き!」
ティーカップに残った紅茶をぐいっと一気飲み。行儀が悪いとじとっと睨まれてしまったが、無視してカップを押し付けた。アブトが入れてくれた紅茶を残す方が、シンの流儀に反するのだ。
「まあいいです。朝食前に着替えましょう」
「……自分でできるよ」
「ダメです。これは私の仕事です」
着替え、の言葉にシンは固まった。膝まである丈の長い白いシャツがシンの寝る時の格好だ。上から二つほどボタンを開ければガバッと脱げる。抜かりないアブトは既に着替えもベッドに持ってきてくれているから、自分で着ればすぐに終わるのだ。けれどもその意見が通ったことはない。
白い手が胸元に伸びてきて、上から一つずつボタンを外していく。いっそガバッと脱がしてくれたらこんなに恥ずかしくもないのに。いつもテキパキ動くくせに、脱がせる時だけはやたらとゆっくりだ。
「ああ、まだここが赤いですね」
「ひっ……やめ」
「後で薬を塗りましょうか」
「ん、いらな……っ」
三つ目のボタンを外したことであらわになった胸元に指が滑り降りてくる。頂点に指先で優しく触れられると、前日の感覚が戻ってきてしまう。
赤くしたのはアブトのくせに、とは口にはできない。だってそんなこと迂闊に口にしたら大好きなフレンチトーストが食べに行けないことをされるのはわかっている。
アブトがわざわざ朝食の内容を告げたのも、反抗させないためだったのだ。思惑通りになって悔しいが、今は黙って耐えるだけだ。
「更に腫れてきましたね」
「アブトのっ……んっ、せいだろ……!」
「じゃあ責任取らないとな?」
しまった、そう思った時には遅かった。黙っておこうと思ったのに、煽るような言葉につい返してしまった。
にぃと口の端を上げて笑う姿は、いつもの完璧執事の姿ではない。年相応の、夜のアブトだ。
「あ、だめ……っ」
制止なんて全く意味をなさない。両手首を掴まれて小さくばんざいするような体勢で固定される。そして近付いてきたアブトの顔。次にくるものが何かわかっている。それを待ってしまっているのも、きっとアブトにはお見通しだ。
「んんっ」
熱い舌でちろりと舐められて、体が震えた。それだけで昨晩の記憶も舞い戻ってくる。
普段敬語で、丁寧な所作で、シンの為に尽くしてくれるアブト。夜になると一転、意地悪ばかりしてくる。普段あまりおねだりなんて言わないシンだが、夜はアブトの求めるまま強請らされている。昨晩だって散々恥ずかしいことを言わされた。昨日は胸の気分だったようで泣いて訴えてもそこばかり弄られて気が狂いそうだった。アブトが満足した頃には両方とも真っ赤になってジンジンしていたし、シンもぐったりしていた。勿論そこで終わるはずもなく、手が下半身に伸びたあとも散々鳴かされたのだが。
「ひっ、う……っん」
「ダメだと言う割にいい声を出してるじゃないか」
「ちが……アブトが、あっ」
「んー?」
「ひっ! 噛まないで……っ」
「好きだろ?」
完全にアブトのペースだ。辛うじて開けられていない下半身の布が、逆に刺激になってしまっている。なんとか快感を逃がそうともじもじ足を動かすが、無理だった。
シンは頭の中で朝食を食べたい気持ちと、友人と博物館に行く約束とを思い出して、この場をどう切り抜けるか必死に考えていた。このまま流されてしまったらどちらも消えてしまうからだ。
「アブト……っ、帰ってから……!」
「ん?」
「帰ったら、あっ……! すきにして、いいからぁ……ッ」
その言葉がどんな意味を持つかわかっているが、今この場から逃げるためには仕方なかった。涙目で見上げたアブトは、とても嬉しそうな顔をしていた。
「約束だぞ」
「んん、ぅ……っ」
降ってきた唇を受け止めながら、とんでもない約束をしてしまったと思った。けれど、楽しみにしている自分もいて、きっとそれもアブトにはお見通しなのだろう。
完璧なアブトが、自分の前でだけで崩れることはシンの最大にして最高の秘密だ。
◇
「うわぁ……すごいねアブト。おいしい」
初めて執事見習いとしてこの屋敷に来たのがちょうど一年前。桜が散り始めた頃だった。その日は屋敷中が慌ただしく、まだ見習いのアブトにも仕事が振られたのだ。それが、この屋敷の坊ちゃんであるシンを起こすこと。言われるがままに給仕した紅茶は、初めていれたからきっと渋かったろうと思う。それでもシンは嬉しそうに笑ってくれたのだ。その日からアブトはシンの専属となるために必死だった。あの笑顔を、自分が一番そばで見ていたいから。
今朝はあの日と同じ紅茶を提供した。気付いたのかわからないが、嬉しそうに微笑むシンの姿を見て、この場所を勝ち取ったことについ口が緩んでしまった。
願わくばいつまでもあなたのおそばに―。