シンの渡航を間近に控えたある日、いつもの様にシンがアブトの部屋を訪ねていた。毎日のようにテレビ電話をしているにもかかわらず、ぽつりぽつり、でも途切れずに続く会話。春の陽気も相まってか、シンの話を聞くアブトの表情も穏やかに緩んでいく。
その優しい表情を見て、思わずシンは見とれてしまった。綺麗な造りをしているのは知っていたけれど、最近は妙な色気があるのだ。そしてその表情はまるであのときの……。
一度思い出すとダメだった。汗だくになるくらい我慢しているのに、穏やかな表情を浮かべてシンの体を気遣ってくれているアブト。大丈夫だと伝えるととろけるように笑って口付けを落としてくるアブト……。
シンの口は紡ぎかけの単語を音にすることもできずに、半開きのまま固まってしまった。今顔を見られたらまずい気がする。けれど、目線をタブレットに落としているアブトから目が離せない。
「シン」
「っ、ぶと……」
ああ、だめだ。まるでこんな、誘うような。
シンの顔を見て笑みを深めたアブトが、そっと頬に手を添えてくる。近付いてくる顔、間近に来て閉じられた瞼。吐息が唇にかかって、耐えきれなくてシンも瞼を下ろした。
「アブト……っ」
触れるだけの口付けは、それでも互いの体温を感じられて気持ちがいい。食まれるように啄まれて、擽ったくて唇を開けば、待ってましたとばかりに舌先が忍び込んでくる。歯列をなぞってくるのを、擽ったさから嫌がって顔を逸らそうとするけれど、いつの間にか両頬を包まれていて逃げられない。大きく開いた口の中に入ってきた舌は、奥で縮こまるシンの舌をつついて舐めて。負けてばかりが悔しくて追いかけようとしたら、するりと逃げて今度は上顎を擽られる。
「ん、んんぅ……ふ」
舌の側面をなぞられて震えた体を優しく押し倒された。春の陽気のせいじゃなく上がった室温と、触れる舌先の熱さに思考が溶けていく……。
「っ、まって!」
アブトの手が服の裾から入ってこようとしたところで我に返って、どんと胸を押し返す。危ない。流されるところだった。
「……ここで止めるか」
「今日は出かけようって言ってたじゃん」
「……まあ、そうだな」
「これだけ確認したいからってタブレット見てるから待ってただけだし。今日はだめ。行こうよ」
下にいる状況は分が悪すぎる。肘をついてずりずりとあとずさった。半身を半端に起こした体勢はいつ倒されるか分からない不安定さはあるが、真下に押し倒されているよりはマシだ。
「アブト」
「……でもお前、もうすぐ行ってしまうだろ」
「……それは……そう、だけど……」
念押しするように名を呼べば、帰ってきたのは存外に寂しそうな声だった。表情も、さっきまでの穏やかさとは一変して物悲しげだ。
ああだめだこれは負けルートだ。
アブトの言いたいことはわかる。シンだって新天地が楽しみなのと同様に離れるのは寂しい。寂しいから少しでも長くそばにいたくて、春休みの今三日と開けず通っているのだ。
でもこの顔に、声に、負けたのは前回と前々回とその前とその前と……もう数え切れないくらい負けている。最初から勝負になってないくらい勝てた試しがない。
シンがアブトのことを好きすぎるのと、同じくらいアブトがシンのことを好きでいてくれているのがわかるから、押し切ることができない。敗因もわかっている。
でも今日はそれを覆したかった。どうしても、アブトと見たいものがあるのだ。
「アブトは、オレと出かけるの、やだ?」
「いやなわけないだろう」
「どうしても、行きたい所があるんだ。一緒に行ってくれない……?」
今度はアブトが口を噤む番だ。先程も述べたように、シンが離れるのが寂しいので、全身にシンを刻み込んでいたいのだ。香りも感触も、声も、体温も、全部。
それをシンが許してくれていたから、それに甘えに甘えていたが、今日は甘やかしてはくれないらしい。
シンがアブトを甘やかすのが嫌いじゃないように、アブトもシンの突拍子もない行動に付き合うのが嫌いじゃない。
じと、と見つめてくるシンの目は少し潤んでいて、しかも上目遣いで、押し倒してくれと言ってるようにしか見えない。
ふう、と深い息を吐いた。押し倒してなし崩しにしてしまうのは容易だが、シンがここまで言うことを無視してコトに及んでしまったら、その後が怖い。出国前に喧嘩なんてしたくない。
「……どこに行くんだ?」
負けたよ、と困ったように笑うアブトに、シンの顔が綻んだ。
「あのね、丸山変電所!」
「丸山変電所……? なんで今更……」
「いいから! 行こ!」
どんなオカルトスポットが飛び出すかと思えば、通い慣れた、行き慣れた場所だった。今年の桜は早咲きな分もう散ってしまったから、見るところなんてない気がするのだが。
スキップでもしそうなほど嬉しそうなシンの様子に、疑問は全て飲み込むことにした。多分、答えは着けばわかるだろう。
「やっぱりここも葉桜だなー」
「今年は早かったからな」
「鉄道文化むらのライトアップも急遽決まったみたいだもんね。見たかったなあ」
「またいつでも機会はあるさ」
道中も見つけた風景を元に会話が弾む。決してハイテンションではないけれど、穏やかで落ち着いた会話は、二人の過ごしてきた時間の親密さを表しているようで心地がいい。
「ここ、なんだけど」
「……丸山変電所だな」
「うん、そう。なんとなく、オレたちの始まりがここって気がしてて」
目を細めて変電所の屋根を見上げるシンは、かつてここで追いかけっこをした時と変わらないようで、でも確かに成長を感じる姿だった。
ここの屋根に登ったのを写真に撮られて、それが宇宙人かもとオカルトマニアの間で話題になったのがきっかけでシンは横川に来た。鉄道にカケラの興味もないシンが、あの日あの時横川に来たのは、確かにこの変電所がキッカケなのかもしれない。
「あとさ、なんというか……初めてアブトの素を見たのも、他にもなにかとここに縁がある気がして。見納め? じゃないけど、最後にアブトと来たかったんだ」
見納め。最後。別れを思わせる言葉たちに、胸が苦しくなった。
これで最後なわけないだろう。確かに物理的な距離は離れるけれど、シンのことを離すつもりなんてさらさらない。もしお前がどうしようもなく困っているなら、地球の裏側にだって駆けつけてやるんだ。お前が、宇宙にまで駆けつけてくれたように。
「あ、待って。しんみりしちゃった。違うんだ、なんていうかその……初心に戻りたかったというか……。言葉って難しい」
丸山変電所を見上げてたシンがアブトの方を向いて、慌てて両手を振った。眉間にシワが寄ってるアブトを見て誤解させたと気づいたのだ。
「……ここでアブトに出会えて良かったなあって。幸せだなって胸に刻んでおこうと思って」
半歩も離れていない距離をシンが詰めた。出会ったころと、結局縮まらなかった身長差。シンの肩はアブト二の腕にぶつかる。そのまま頭ももたれさせた。
「何があっても、誰よりも近くに気持ちはいるからな」
アブトは何も言えなかった。好かれていることはわかっていたけれど、アブトの想像以上に大きな愛に泣きそうになったのだ。シンと出会ってから随分と素直に言葉を発せられるようになったけれど、まだまだ修行が足りないらしい。
体で繋ぎ止めることばかりだと笑われてしまうかもしれないけれど、でも言葉にするより雄弁にアブトの気持ちを伝えてくれるはずだ。
もたれかかってきているのとは反対の肩を掴んで強く抱き寄せた。甘えるようにシンのふわふわの髪の毛に頬を擦り寄せる。
ざあっと強い風が二人に襲いかかってきたが、隙間なく寄り添った二人を割くことは終ぞできなかった。