「次のデートプランは、僕が考えるからな!」
ボスがそう宣言したのは、前回会った時のこと……目元を赤く染めながら、木漏れ日に溶けだすような柔らかな緑が挑むように私を見据えていた。
気を逆立てた子猫のような愛らしさながらも、恋仲の相手に向ける視線ではないと思いつつ、自分は確か「楽しみにしています」と答えたのだったか。
モクマさんのところにコソコソと連絡を取っていたことは当然知っている。ふたりが話した内容を知ろうと思えば、ハッカー殿の手を借りるまでもなく容易く出来ただろうけど、久しぶりの心躍る時間を、ネタばらしが済んだ状態で過ごすのも野暮というものだ。
あまりかしこまった恰好じゃなくていいから……そう告げられたけれど、あまりにラフな格好は性に合わない。やや砕けたジャケットスタイルで空港に降り立った私に、迎えに来ていた彼が大きく手を振る。
「チェズレイ!」
するりと耳に馴染む声。清しい響きの中に僅かな甘さを伴いなら、私の名前を呼ぶそれに、自然と口角が上がる。
お前さん、ルークと話してると本当にいい顔するよねえ、と笑うパートナーの言葉が頭を掠めた。私とボスの新たな関係について、告げる前に知っていた聡いあの人は、たまにまるで保護者のような顔をしていつはじけてもおかしくない小さい泡のような恋を見守る。
今日も、本当だったらまだしばらく会えない予定だったけれど、ここはおじさんに任せて、と送り出されてしまった。いつの間にか用意された綺麗な名義の旅券と一番早くにエリントンまで辿り着く航空券も渡されて目を丸くした。同じ道を歩む中、そうした手続きは自分の役目だったはずなのに、器用な相棒はいつの間にか手筈を覚えて自分を出し抜くまでになったらしい。
いや、それも含めて、相談を重ねていたのかもしれないが。
例えば、ハッカー殿を巻き込めば、それくらいのことはきっと容易い。
「久しぶりだな、チェズレイ」
とても嬉しそうに笑うから、ついついつられてしまう……そんな言い訳は、他の誰に通じても自分自身には通じない。
仮面の詐欺師と呼ばれるほどに、計算され尽くした表情を作れるはずの私の顔が、彼の前だと崩れてしまう。予定調和と無縁の相手と過ごすひとときは、私にとっては心浮き立つと同時に自分を失いそうな不穏さを常にはらんでいた。
「チェズレイ、覚えているか? 次は、僕がプランを決めると言っただろ」
「ええ、もちろん。楽しみにしていましたよ」
「僕も楽しみにしていたんだ。君の喜ぶ顔が、見られたら嬉しいけど」
どうだろうな、とはにかんで笑いながら、手を差し伸べられる。
人を殺さないための銃に馴染む手を、なんだかひどく眩しく感じた。
「こちらは……?」
美しい、建物だ。
ミカグラの、マイカで見た建築に似ている。柱などの構造体に木を用いた優しい色合いと、オフホワイトに塗装された壁で構成された室内は目に優しい。
サロンとベッドルームの間に、プライベートを隔てる扉は見えない。スイートルームを模した作りは、空間の使い方の贅沢さを示していた。
サロンには、ピアノが据えられている。そのピアノに、目が吸い寄せられた。
「君と過ごすときは、いつも華やかな場所で過ごすことが多いけど、たまにはこういう場所もいいだろう?」
「……あちらの、ピアノに触れてみても?」
「もちろん!」
ゆるしを得て、近付いた先の豪奢なピアノを間近に見て、これは誰の仕込みなのかと嘆息する。
バロックとロココ、どちらの要素も併せ持つ金に縁どられた数多の装飾。大屋根を彩る見事な絵画が、とうに忘れたはずの郷愁を疼かせる。しゃなりと歩く猫の背のようにうつくしくなだらかな曲線を描くペダルライルを、忘れるはずもない。
まだ彼女が、あの男の愛を受けていた頃、その愛の証として与えられた幸福の象徴が、其処に在った。
そっと手を伸ばし触れてみる。
心が千々に乱れるかと思ったけれど、そうはならなかった。むしろ、どこか穏やかな気持ちで、譜面台を起こす。
一音、Cを響かせれば、調律の行き届いた柔らかな音は、あの頃より更に甘やかな深みを帯びているように思えた。
深く沈み込みそうな思考をたぐり寄せて、現実のボス――ルーク――の元へ戻る。
にこにこと、犬だったらきっと尻尾をぶんぶん振り回しているんじゃないかと思う満面の笑みを浮かべたルークが、
「君がこっちにいられる間は、ここで過ごしたい。君が作ってくれる食事が食べたいな」
甘えねだる言葉の中には、私への遠慮とわずかな怯えが見える。
「あなたは作って下さらないのですか?」
「つ、作ったほうが良ければもちろん作るとも!」
ボスの作った食事なら食べられるし味もわかる。けれど、いまだ私が無理をしているのではないかと不安に感じていることは知っていた。だから、自分の望みとしてそう口にすることで、こちらの心に負担のない形を提示したのだ。
今この時だけは自分に向けられている彼の博愛じみた愛情を、嬉しいと思う気持ちは確かにある。それなのに、踏み躙ってしまいたいような気分にもなるのは、懐かしい存在を不意に目にした反動なのだと、そう思いたかった。