12.12.
体温計に表示された数字を見て、アズールは片眉を吊り上げた。高熱、というほどでもないが、明らかに体温は上がっている。その体温に対して、布団に包まっているフロイド本人は「寒い」と歯をガチガチと鳴らしている。その顔は赤く、呼吸も苦しそうであった。
姿を変えているとはいえ、自分達は人魚である。人魚は体温が低い。微熱だとしても体は慣れておらず、この状態は辛いだろう。そして悪寒がしているという事は、これからまだ熱が上がるのだ。
「あとで水と解熱剤を持って来ましょう。食欲は……なさそうですね」
風邪だろう、と判断し、アズールは体温計をサイドテーブルに置くと、身を屈めてフロイドの顔を覗き込む。フロイドは無言でこくんと頷いて、アズールの視線から逃れるように布団の中に顔を隠してしまった。風邪を伝染さないようにと配慮しているつもりだろうが、アズールとしては顔が見えないのは心配だ。
「大方、風呂上がりに碌に髪も乾かさず、腹でも出して寝ていたのでは?」
つい、そんなお小言も口を衝いて出てくる。ジェイドが傍に居ないフロイドの生活など、想像するに容易い。
「昨日の雨で濡れたわけでもないでしょう? ……ジェイドがわざわざ迎えに行ってましたし」
片割れの名前を出せば、布団の中の存在は分かりやすくビクッと反応した。まだ喧嘩をしているのだろうか。昨日、モストロラウンジに戻って来たジェイドの方は、いつも通りだったのだが。
「──で、どうしますか? ジェイドに知らせますか?」
フロイドが風邪を引いて寝込んでいる、と聞けば、あの男は直ぐに飛んで来るであろう。ジェイドは以前からフロイドを甘やかしているようなきらいがあったが、ここ数週間は更に酷くなったように思う。一緒に寝ていると聞いた時は流石にアズールも心底ドン引きしたし、一昨日の諍いも、アズールの目にはただの痴話喧嘩にしか見えなかった。
「……言わなくていーよ。伝染ったらヤダし」
「バレないわけがないと思うんだが」
「そん時はそん時。どうせこの部屋はオートロックだから入れないっしょ」
フロイドは布団の中からくぐもった声でそう答える。まだ喧嘩していて片割れに会うのが嫌なのか、それとも純粋に伝染る事を心配しているのか、アズールには分からない。
「……知りませんよ、どうなっても」
後から知られた方が余程怖いのではないだろうか。まして部屋に入れないとしたら、尚更。
それっきり黙り込んでしまったフロイドに、アズールは溜息を吐く。まあいいか、この先の事は考えるのはやめておく。
「では後で薬を持って来ます。他に必要な物はないですよね」
「ウン」
フロイドは布団から両手を出し、のそっと顔を上だけ見せて返事をした。その目が熱のせいで潤んでいるのが庇護欲を煽る。今は寝せておいた方がいいだろう。休養が一番の薬だ。
まずはフロイドのクラスの担任に連絡しなくては。食事は熱が下がったら何か消化の良い物を、と色々と考えながら、アズールはゲストルームを後にする。
そういえば、フロイドの右手には新しい絆創膏が貼ってあった。傷はまだ良くならないのだろうか──なんて、一瞬思った事は、たくさんの考え事のせいで、直ぐに頭の中から消えた。
寒い。
陸は、こんなに寒かっただろうか。冷たくて暗い海の底に居た時よりも、寒い。
体が震え、足元から寒さが迫り上がってくる。
奥歯を噛み締め、布団を被って、ぎゅうっと目を瞑る。
確かにフロイドは、昨夜は髪の毛をちゃんと乾かさなかった。半袖のシャツで夜遅くまで起きていたし、冬でもいつもハーフパンツのままだ。特に昨日は色々考え過ぎたせいで、碌に睡眠も取れていない。何度も寝返りを打って、上掛けも体に掛けていなかった。
このベッドは嫌いだ。大きくてふかふかだけれど、ジェイドの匂いがしない。ここには、ジェイドの温もりがない。自分が居るところじゃない。
ジェイド──。
──あなたといやらしいことがしたい。
いやらしいこと、とはなんだろう。
熱に浮かされた頭で、フロイドはぼんやりと考える。普通に考えれば、人魚にとっては繁殖、人間にとっては性交の事だろう。分かってはいる、分かってはいるが、でもどうして? と、頭に疑問符が浮かぶ。
フロイドとジェイドは兄弟である。血も繋がっており、姿を見れば瓜二つで、遺伝子が殆ど同じ存在である。そして同性だ。当然、繁殖は出来ない。稚魚は作れない。
だが、性行為は出来る。人間のセックスは出来るのだ。人間のそれは、子を成す事だけが目的ではない。そして人間は同性でも性行為が出来る。ジェイドが言う、「いやらしいこと」とは、きっとそういう事だ。ジェイドはフロイドと、セックスがしたいと言っているのだ。人間の姿で。
でも、どうして。
まあ、薄々は。そういう事なのだろう、とは思っていた。嫉妬していると言われた時も、充電したいと言われた時も、抱き締められた時も、ひょっとしたらそういう事なのかな、と思ってはいた。フロイドに触れる手が、眼差しが、言葉にはしなくても明確に伝えていた。
最初はきっと、お互い良く分かっていなかった。無自覚だった。無自覚に送られているサインを、お互いに解読出来ていなかった。出来の悪い暗号。伝わらなければ意味がない。自覚をしてなければ、伝えようもない。
だってこんな感情は知らなかった。フロイドは知らなかったのだ。
今でもはっきりと自覚をしているわけではない。ジェイドに言葉を言われたわけではない。そうなのではないか、という推測しているだけだ。
布団の中で、フロイドは体を丸くする。この息苦しさは、多分風邪のせいだけじゃない。あの告白を聞いた時から、フロイドの心臓はずっとドキドキしっぱなしだ。苦しくて切なくて、死ぬんじゃないかと思うほど。
『あなたといやらしいことがしたい』
それを伝えたジェイドは、「急いではいない」と言った。フロイドの心の整理が付くまで待つと、拒否しても構わないと。燃えるような目で。フロイドを突き刺すような目で。
拒否なんて、させない癖に。
──いやらしいこと。
フロイドはそれを、ジェイドに許してあげる事が出来るのだろうか。
どれくらいの時間が経ったのだろう。
寒さに耐えるようにシーツを握り締めていた手を、上からそっと掴まれた。強張っていた指を外されて、体をゆっくりと仰向けにされる。額に触れる、優しい手。薄く目を開いても、視界は靄が掛かったように白い。
「フロイド」
自分を呼ぶ、ジェイドの声。
フロイドはこの声を、他の誰かと間違えたりはしない。
「……じぇーど?」
制服姿のジェイドは、フロイドがいるベッドに乗り上げてくる。流石に高級なベッドでも、男二人分の体重を受けてギシリと揺れた。
「具合はどうですか?」
ジェイドは顔を覗き込みながら、フロイドの髪の毛を優しく梳く。いつもの手袋は外しているのか、額に感じるのは温かな手だった。
「……さむい」
掠れた声で答えた途端、ぶるっと体が震えた。殆ど無意識に、温もりを求めてジェイドの手に頬を擦り寄せる。
「まだ熱は上がり切っていないようですね」
寒気はこれから熱が上がる合図だ。
小刻みに震えるフロイドの体。両腕を自身で抱き、布団の中に顔を埋めても、寒さは一向に和らぐ気配はない。それどころか、悪寒は酷くなる一方だ。
「ジェイド……」
囁くように、片割れの名前を呼ぶ。布団の中から震える手を出して、そっとジェイドの手を縋るように握る。
フロイドの手も足も、氷のように冷たかった。口から洩れる吐息だけが、唯一温かい。
「……たすけてぇ……」
ジェイド。
お願い。
そんなフロイドを困ったように見下ろすと、ジェイドは徐ろにジャケットを脱いでソファに放り投げた。中に着ていたベストも手早く脱ぎ、ネクタイもするりと外して床に落とす。
「一緒に寝ましょうか」
そう口にしたジェイドは、フロイドが返事を返す前に布団の中に潜り込んできた。そのままフロイドの背中に腕を回し、胸の中で頭を抱くようにして体を抱き締める。両足は熱が伝わるように絡め、足の甲を擦り合わせた。
二日振りの、片割れの体温。
フロイドはジェイド脇に腕を滑り込ませると、その腹にぎゅうっと抱き付いた。温かな熱。ジェイドの匂い。耳に聞こえる心臓の鼓動は、いつもより早いような気がする。
ジェイドの体温に包まれて、フロイドの寒気は止まった。
「……あったかい」
「それは良かった」
ジェイドの手が、ぽんぽんとフロイドの背中を宥めるように優しく叩く。ほんの少し鼻先に香る、ムスクの匂い。今のフロイドは、ジェイドと同じこの香りはしていない。
片割れが傍にいるというだけで、フロイドはやっと体の力が抜けた。瞼は重力に逆らうかのように、少しずつ下がってくる。
「おやすみなさい、フロイド」
優しい声と共に、額に触れる柔らかい感触。
ジェイドの腕、体温、香りに包まれて、やがてフロイドは眠りに落ちてゆく。
──ジェイドに伝染らなきゃいいなぁ。
そんな事を考えながら、フロイドは緩やかに意識を手離した。
フロイドが目を覚ますと、部屋の中はすっかり暗くなっていた。壁にある間接照明が、足元でぼんやりと光っているだけだ。カーテンの向こうの海も、遠くの方は暗くて見えない。
──今、何時だろう。
フロイドはゆっくりとベッドから体を起こす。スマートフォンが周囲に見当たらないが、ベッド脇のデジタル時計には夜の八時だと表示されていた。思っていたより、長く眠っていたらしい。体中が汗でベトベトで、皮膚に張り付いたシャツが不快だ。あれほど感じていた寒気もすっかりなくなって、体も軽くなっていた。
──ジェイドと、一緒に寝たような気がしたのだが。
あれは夢だったのかも知れない。それとも、願望だったのだろうか。
この部屋は鍵が掛かっているし、その鍵はフロイドが持っている。部屋の中に入るには、アズールが持つスペアキーじゃないと入れない。
そう言えば、アズールはあの後どうしたのだろう。
「起きましたか?」
その時、急に声を掛けられて、フロイドはビクッと肩を跳ねらせた。
「え……」
「起きたのならちょうど良かったです。ミルク粥を作ってみたのですが、お口に合うかどうか」
部屋の灯りを点けて、片割れがベッドに近付いてくる。手にしているトレーには湯気が上る皿が載っていて、優しいミルクの匂いが辺りに漂っていた。
「……ジェイド?」
「はい」
ジェイドはベッドに腰掛けて、面白そうに口端を吊り上げる。どうしてフロイドが混乱しているのかが、全て分かっている顔だった。
「なんで、」
「アズールが鍵を貸してくださいましたので」
「……」
その答えに危うく舌打ちが出そうになったのを、フロイドは寸前で止めた。
「……アズールって、ジェイドに甘過ぎじゃね?」
「本当にアズールが甘いのは、あなたにだと思いますが」
「は?」
「腹立たしいことですがね」
どういう意味だ、と思ったが、ジェイドはそれ以上何も言わなかった。
ジェイドはトレーをベッドサイドテーブルに置くと、置いてあった水差しからコップに水を注いだ。「どうぞ」と言って、フロイドの方へ差し出す。喉が渇いていたフロイドは、それを一気に飲み干してしまった。
「……ジェイド、ここにいたら風邪伝染っちゃうよぉ」
「今更だと思いますよ」
愉しげに片眉を吊り上げるジェイドは、制服のワイシャツ姿である。ワイシャツの第二ボタンまでを外し、袖は捲ってある。普段なかなか見られないラフな格好だ。それも、まるで何処かに寝転んでいたかのように、シャツは皺だらけだった。
ハッとしてフロイドが周囲を見回せば、ジャケットやベストが綺麗に畳まれ、ソファに置かれているのに気付く。その理由に思い当たり、フロイドは目を見開いた。
「……ゆめ」
「じゃ、ないと思います」
くす、とジェイドは笑って目を細める。それは揶揄するような笑いではなく、優しくて慈しみに満ちた笑いだった。
「あー……」
はっきりとフロイドの記憶は甦ってくる。頬に熱が集まるのが分かり、思わず顔を手で覆った。道理で安眠出来たわけだ。体調が悪かったとはいえ、これはちょっと恥ずかしい。
「……付き合わせてごめん」
「いいえ、僕も心配でしたし」
ジェイドはにっこりと微笑みながら、自身のシャツの肩口に鼻を寄せ、「フロイドの香りが移りましたね」と独り言のように言う。こう言う事をわざと言うところが、最近のジェイドの悪いところだと思う。赤くなったフロイドが睨んでも、しれっとしているのだから。
「取り敢えず食事をしましょうか。食べられますか?」
「先に着替えたい」
「着替えを用意してますよ」
ジェイドが用意してくれたのは、ちゃんと長袖長ズボンのパジャマだった。フロイドがクローゼットの奥に仕舞い込んでいた、ジェイドとお揃いのやつだ。寝ている時はもっと楽な格好がしたくて、フロイドはそれをあまり着ていなかった。
「シャワーはどうしますか?」
「食べてからでいーや」
熱が下がったせいか、腹は空腹を訴えている。先程飲んだ一杯の水で、体の内部が動き始めたのが分かった。
フロイドはTシャツとハーフパンツを脱ぎ、素早くパジャマに着替えると、ミルク粥が載ったトレーを手にする。それは少し冷めかかっていたが、まだ万全の体調では無いフロイドには、ちょうど良い熱さだった。
ジェイドが食べさせたがるのを制止し、フロイドは自分でスプーンを手にして口に運ぶ。ミルクのまろやかな味と、コンソメの塩っけが混ざり合っている。チーズも入っているのか、意外に味はしっかりしていた。
「美味しい。もっと病人食っぽいのかと思った」
「気に入ったのなら良かったです」
フロイドに食べさせられず不満顔だったジェイドは、少し機嫌を取り戻したらしい。フロイドが完食するのを、傍らでずっと見守っていた。
「ありがと、美味しかった」
こうして食べられたのも、熱が下がったお陰だろう。睡眠中のフロイドは悪寒の記憶ばかりで、熱が上がった後を覚えていない。起きたらかなり汗をかいていたし、それなりに高熱だったらしい。
「薬が効いたのだと思いますよ」
「薬?」
「アズールが解熱剤をくれたんです。人間用の薬なので、ひょっとしたら効き過ぎるんじゃないかと心配していましたが」
皿とコップを片付けながら、ジェイドが説明をしてくれる。フロイドはその言葉に小首を傾げた。
「オレ、薬飲んだ? 全然覚えてねーんだけど」
「苦しんでらしたので、起こすのが忍びなくて……寝ている間に飲ませました」
「……どうやって」
「聞きたいですか?」
トレーを入り口の付近のテーブルの上に置き、ジェイドが戻ってくる。その口許には笑みが浮かんでいて、フロイドは嫌な予感が頭を掠めた。こう言う顔をするジェイドは、フロイドにとってはあまり良い事を言わない。
「口移しです。それが一番確実でしょう?」
「は、」
あっさりと告げられた言葉に、フロイドは目を大きく見開く。思わず自身の唇に指で触れるが、当然そこには何も残っていない。なんの感触も、熱も、味も。
「か、風邪が伝染ったらどうすんの?」
「そうしたらあなたが看病してください」
「信じらんねぇ……」
飄々と答える片割れにフロイドは呆れてしまった。薬を飲ませる為なのだから、仕方がない事だったのかも知れない。要するに、人工呼吸と似たようなものだろう。だがフロイドとしては、それを全く覚えていないのが面白くはない。
「ではもう一度しますか?」
「……何を」
「フロイドが覚えていられるように」
ベッドに腰掛けたジェイドはそう言って、フロイドとの距離を詰めてくる。吐息が触れる程の至近距離で顔を覗き込まれ、フロイドは小さく息を呑んだ。
──あなたといやらしいことがしたい。
昨日のジェイドの言葉が思い出される。あの時の、強い眼差しも。
「……待つ、って言ったじゃん」
「言いましたね。……キスも駄目ですか?」
囁くように問う声は砂糖菓子のように甘くて、フロイドの心臓は跳ね上がった。
ジェイドの顔は酷く真剣で、美しい色彩の目には揺れ動く不安がある。縋るような目。その目は拒絶しないで──とフロイドに懇願している。
──子犬、みてぇ。
獰猛な人魚の癖に。
フロイドは内心で苦笑をすると、ゆっくりと目を閉じた。すると目の前で、ジェイドが小さく息を呑む気配がする。
頬を優しく包む手。温かな吐息が近近付いてくる気配。
やがてゆっくりと重なった唇は、一瞬だけ触れた。
柔らかく、温かな片割れの唇。
フロイドは体に、悪寒とは違う震えを感じる。
また唇が重なり、離れ、それが何度も繰り返される。角度を変え、舌先で唇を舐められて、フロイドは薄く唇を開いた。そのまま入り込んでくる舌。
「ふ、ぅ……」
初めてのキスは、ミルクの味がした。
.