潮風の星 ────波間を思わせるハーモニカに誘われて、優しいピアノの音に出会った。
『光る海に かすむ船は』
『さよならの汽笛 残します』
太陽眩い夏の夕暮れの海辺に佇むピアノを見ている。ピアノを弾く、誰かを見ている。
『緩い坂を 降りてゆけば』
『夏色の風に 会えるかしら』
柔らかに耳を撫でて渚のように切ない音を奏でるそれは、忙しく行き交う往来の隙間を潮風と共に通り抜けて、私たちの心に沁み渡る。
『私の愛 それはメロディー 高く低く歌うの』
『私の愛 それはカモメ 高く低く飛ぶの』
足を止め、立ち止まり、耳を傾けるたくさんの人。雑踏林の向こうに見えたその姿から、目を離せないでいる。
『夕陽の中 呼んでみたら』
────黄昏色に輝く海を背に、祈るように音を紡ぐ彼に、出会った。
『優しいあなたに 会えるかしら』
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「あ、いたいた! おーい、長子ー」
「探したぞ、一体何を」
「……しー」
幼なじみ五人で出かけた海辺の街の一角。ふらりふらりと彷徨っているうちに見つけた、長い坂を下りた先にある小さなコンサート会場。探しに来た四人に、今はまだ、と口に人差し指を立てて見せる。
「! なるほど、すまん」
「ストリートピアノか」
私の幼なじみである四人は全員男。声をかけてくれた順に善法寺伊作、食満留三郎、潮江文次郎、立花仙蔵。音楽の造詣が深かったり音楽を嗜んでいたりするわけじゃないけれど、こういうことには一定の理解を示してくれる良き友だ。
(弾いているのは男だな)
(ピアノを弾けるのってすごいよね。尊敬するよ)
(設置してあるあれは……ハーモニカも演奏するのか。器用なもんだ)
(人は見かけに寄らぬもの、ってやつか。繊細な演奏だ)
文次郎がそういう感想を抱くのも無理はない。鍵盤を撫でる男の人は、飾り気のない、どこにでもいるような男性だ……後頭部に白いゴムで結ばれても尚長い、その髪を除いて。女性でも珍しいほどの長髪はそこまで手入れされていないらしくて、大型犬の毛並みのようにふわふわとしている。袖に紺色の差し色が入った白いTシャツと、腰の近くにポケットが付いた黒いジーンズ。どこにでも売っていそうな黒のスニーカー。特別何かを整えているわけじゃない、服を無造作に着こなした青年。
そんな、無造作とは正反対の優雅な運指で音を風に乗せて若いピアニストの演奏会は続く。同じ旋律、同じメロディーを、二度目は始まりよりも力強く鳴らし、高らかに歌った。三度目の今はノスタルジアを想わせる、少なくてもはっきりとした音を響かせている。
「……綺麗」
この海の街で聞くに相応しい、押しては返す千重波のような曲。演奏を見守る人たちはみんな、穏やかな顔をしていた。
『古いチャペル 風見の鶏』
『夏色の街は 見えるかしら』
ストリートピアノは色々な場所に置かれているし、実物でも動画サイトの動画でも、それを弾く人をたくさん見たことがある。それなのに、この人の演奏はこんなにも私の心を掴んで離さない。このコンサート会場はピアノの音を聴くためにあるのに、その音色を生み出す彼自身に目が奪われてならない私がいる。
自分の目と耳で聞く生の演奏だから? 珍しい景色に感化されているから? それはそうかもしれない。だったら、他の人の演奏でもそう思うのだろうか。
『明日の愛 それはルフラン 終わりのない言葉』
きっとそうじゃないんだと、高鳴るこの胸の鼓動が言う。徒人には見えない何かを一途に見つめて、ただひたすら音に魂を込めている彼だから。
『夕陽の中 巡り会えば』
この人だからそう思うんだと、零れ落ちた一雫の涙が言う。
『あなたは私を抱くかしら』
ほんの一瞬だけ凪いだ世界が、ハーモニカに導かれてまた動き出す。ああ、終わってしまう。この歌は全ての詞を伝えきったのだろうという、ふんわりとした予感。一つの曲の終わり。このまま、悲しげな音のまま終わってしまうのだろうか────
「……!!」
その予想を裏切って。その曲は、その曲を結んだ音は、朗々と夏の空に溶けていった。
ぱち……
ぽろぽろと流す涙も知らずに、この手を叩いていた。私の鳴らした音が四人の音を呼び、そしてもっと多く大きくなって海のように彼を包む。演奏を終えて立ち上がり、私たちの方を向いた彼は驚いていたけれど、やがてにっこりと笑って恭しくお辞儀をした。
「演奏を聞いてくださり、ありがとうございます! 次にピアノを弾く方はいますか!」
「お兄ちゃんお兄ちゃん! お兄ちゃんのピアノすっごいすごかった!」
「おー! みんな元気だなあ!」
「わたしも! わたしも、いつかお兄ちゃんみたいにピアノ弾けるようになりたい!」
「絶対なれる! たくさん練習して頑張るんだ!」
途端、演奏を聴いていた子どもたちが彼の周りに集まってくる。どの子もきらきらと目を輝かせて……こらこら、と親御さんたちが窘める中、彼は大丈夫ですよと屈託なく笑って彼らと触れ合っている。無邪気で活発な、元気な子たちにも響く何かがこの演奏にはあったのだと思うと、なぜだか私も嬉しくなる。
「ねえねえ、にいちゃん! べつのきょく弾ける? もっと弾いてよ!」
「ん? ああ、たくさん弾ける! けど私がストリートピアノで弾くのはさっきの曲だけって決めてるんだ。ごめんな」
ええー、と残念そうにしている男の子にしゃがんで、申し訳なさそうに笑いかける。人懐こい子と人のいい兄貴、といった感じで、まるで兄弟でも見ているかのよう。
「でも、ちゃんとしたコンクールやコンサートなら他の曲をたくさん聞かせてあげられる。もしピアノに……音楽に興味を持ったなら、お父さんお母さんと一緒に来てほしい」
申し訳なさそうに駆け寄ってきた親御さんと思しき二人にお辞儀をして、息子さんと一緒に何かを話している。その様子を見ていた仙蔵が、ああ、と腑に落ちたような声を上げた。
「どこかで見たことのある顔だと思っていたが、ようやくわかったぞ。この人は『七松小平太』だ」
「! 七松小平太……!」
「へえ、この人がそうなんだ! 雑誌で見た通り背は高いけど、思ってたより体格は細めだね」
「ナナマツ?」
「誰だそりゃ」
「まあ、お前たち二人はそうだろうよ」
七松小平太と言えば、「流星の神童」と名高い若きピアニストだ。その異名の通り、きら星の如くピアノ界に現れてコンクールで数々の賞を獲得したという。弱冠十九歳で世界規模の活躍も期待されているのだとか。私たちと同い年だというのもあって、謎の誇らしさがある。自分の得手を磨いて高めた結果を発揮できている、というのはとても素晴らしいことだ。
同様に正体に辿り着いたのか、他の聴衆もざわざわと色めき立っていた。私も新聞やテレビなどでその活躍を耳にしていたから、七松という名前は知っていたけれど。
「短髪で見慣れていたのでな。七松さんだとすぐに気づけなかった」
「……うん。髪を伸ばしたんだろうか」
メディアで見知っていた彼の姿はどれもショートカット。髪の長さが違えばこうも人相は変わって見えるものだ、と私も驚いている。
「本日はご清聴ありがとうございました! またいつかどこかでお会いしましょう!」
老若男女の拍手喝采を受け、真夏の夕暮れコンサートは幕を閉じた。……本当に、また彼に会える日は本当に来るのだろうか。この広い日本で。この広い世界で。何もしないままでいいのか。あのときの気持ちを伝えなくていいのか。ここで立ち去ってしまったらこの先二度と会えない、そんな人なんじゃないのか────
「そこの女性の方!」
「ひゃっ!?」
「……やっと見つけた!!」
ハリのある声がかけられて、ぴゃっと飛び上がる。気づいたら七松小平太さん本人が目の前に……本当の本当に目の前にいた。
「もう長子、驚きすぎだよ」
「ずっと話しかけてたぞ。お前は上の空で気づいてなかったみたいだが」
子どもたちと触れ合っていときの、溌剌とした笑顔はどこへやら。七松さんは、少し緊張したような面持ちで私を見つめていた。
「……? え、と」
「さっき、曲が終わったとき……一番に拍手してくださったのは、貴女ですよね?」
「!」
なんともいたたまれなくて俯いていた顔を上げる。気づかれていた。最初に拍手したのが私だと。あんなにまっすぐピアノを見ていたのに。
「その……そうやって率先して拍手してくれる人って、そんなに多くないんです。だから、嬉しくて」
「それは……素敵だと思ったから、素直にその気持ちを伝えたかっただけ、なので……」
ぽそ、もそ、としりすぼみになりながらも、なんとかあの演奏は素晴らしかったと伝えることができた。彼……七松さんから私の方に来るとは思ってもみなかったけれど、そのおかげで七松さんへの賛辞を送りそびれずに済んだ。
「……私の演奏を気に入ってくださったこと、とても嬉しいです。ありがとうございます」
地平線に傾いていく夕陽の中ではにかみながら微笑んだ七松さんは、見蕩れてしまいそうなくらいに美しかった。
「それで……あなたに、渡したいものがあって」
「?」
「これ、なんですけど」
懐から出てきた封筒を手渡される。みんながなんだなんだと覗き込んできて、封筒の中に入っていたものを見て仙蔵があっと声を上げた。
「コンサートの、チケット?」
「一枚で二人まで入場できます。全部で五枚あるので、後ろの四人方……あなたのお友達も。来られるなら、そのご家族もご一緒に」
チケットを見てみる。開催日時は一ヶ月後、つまり八月中旬の夜六時から。場所は……東京、か。有名ピアニストのコンサートなのだから、それはまあそうだろうとは思う。どうやら全国ツアーの真っ最中らしく、その最終日程のチケットを渡してくれたようだ。ここ兵庫のどこかでピアノを弾いた後、ということなんだろうか。
「おい長子、これは凄いことだぞ! 七松さんのコンサートチケットは今じゃプレミアが付くほど入手困難なんだ、それを本人から直接……!」
「仙蔵の食いつきの方がすごいな」
「色々な音楽を聞いてるからね」
そう、仙蔵は大の音楽好きだ。自分で音楽活動をしているわけではないけれど、年代や文化を問わず様々なジャンルの曲を聞いている。なんでも自宅には巨大な防音室まであるとか。……音楽を聞くためだけに使っているわけではなさそうだけれども。
「本人の目の前でがっつくなって……おい文次郎、責任取って仙蔵を大人しくさせろよ」
「はあ? なんで俺が」
「あーあ、始まっちゃった……」
「お前は仙蔵の同室だろうが」
「それを言ったらお前だって仙蔵の同室だろう馬鹿留! 五人でルームシェアしてるのを忘れたか!!」
「うち一つの部屋を共有してるだろ!! 俺の同室は伊作だ阿呆文次!!」
「……っふ、あはははは!!」
幼なじみなのにずっとケンカばかりしている犬猿の二人。ケンカの始まりを察して困ったように笑うけれども最早止めることはしない伊作。その三人を他所にチケットを興味津々に眺めている仙蔵。
そんな私たちを見ていた七松さんは、心底おかしそうに笑っていた。
「本当に面白い人たちなんだなあ」
「あの……友達も一緒になんて、本当にいいんですか?」
「もちろんです! 都合が合えば、是非」
「そういえば、まだ名前を言っていませんでした……
私は中在家長子です」
「僕は七松小平太です」
よろしく。
はらはらと紅葉舞い散る、小さい秋のような笑み。真夏の海を燦々と照らす、夕陽のような笑顔。
移り変わっていく季節のようなその微笑みに、心を奪われていた。