慈愛の指など要らず 彼は――、乱凪砂は、巴日和のものだ。
人間に所有権を付して考えるなど、甚だおかしな話だが。乱凪砂の人間らしい一部分は日和に由来している。じっくりと彼の動作を見れば、分かってしまう。一見違うが、ひとつひとつ分解していけば、日和の影が見えてくる。
凪砂の中には日和がいる。
子の背後に、親の影があるかのごとく。
だからこそ、凪砂が日和と違う環境で過ごすことは悪い事だと思わないし、むしろ今でもプラスに働いていると思う。
日和と違うものをみて、思いを共有しない事で、“個”の“乱凪砂”を強くしていく。日々記録をつけながら、茨は実感していた。
凪砂の中の日和を少しずつ消していったことに、罪悪感はなかったが、それらの進化を日和は変化と呼んで、偶に忌み嫌った。
「凪砂くんに、今度はなにをすすめてるのかな」その日、秀越学園に来た日和は実に彼らしかぬ顔をしていた。後々知ることだが、この日より数日前に凪砂から日和に電話があったらしい。その内容が日和の心に引っ掛かったという。「閣下が学ぶ方向性まではある程度決めていますが、詳細までは決めていませんよ」
「うそ」
「私が選ぶ範囲では、閣下の知識欲には追いつきません。日和殿下とてそれはよくご存知でしょう」
あからさまに嫌そうな顔をした日和の前に、ジュンが割って入った。
「あー、もうやめやめ。本人のいない所でやっても、意味ないでしょう。おひいさんはその顔、事務所NGですし、茨も分かっててこういうのやめてくださいよ」
ため息交じりの静止に入ったのはジュンを一瞥したあと、眉間に皺を寄せたまま日和は踵を返した。まだ姿を現さない凪砂の元へ行ったのだろう。
「実際、なんもなかったんでしょう」
「おや、どうしてそう思うんです?ジュンも俺を疑うのかと思ってました」
「うーん、俺らがどうしたって、あの二人が揺らぐことなんてありえないし」
面倒くささを隠そうともせず、ジュンがソファに座り、今日のライブの企画書に目を通していく。
茨も同じようにソファに腰をかけ、タブレットでネット上の反応の最終チェックをはじめた。
二人は、凪砂と日和は、特別だった。よくある“親友”とかいう生易しい関係性ではない。血がつながっているとかそういう表現も違う。
二人の間に激しい衝突はなく、穏やかで、優しい。
平和な世界にあの二人はいる。
行方不明になったと思っていた凪砂の姿は、Adam専用ルームから見える中庭にあったらしい。
茨はついタブレットから、目を離した。
茨が窓の外を見ているのにジュンが気付いたのは、企画書に半分くらい目を通したところだ。
見ているのは、凪砂と日和だろう。
凪砂は没頭する趣味を次々と変えていくが、発掘だけは長続きをしていることをジュンも知っている。
いつもは、常に人を見透かすような抜け目のない茨の眼が、今はぼんやり遠くを見ているかのようで、彼らしくない。(妙なもん見ちゃったなぁ……)油断していたとジュンは後悔した。なにせ、秀越学園に来るまで、日和を宥めるのに骨を折らざるを得なかった。なんでも、日和曰く喜ばしい凪砂からの電話が「毒蛇」に毒されているような内容だったらしい。日和は凪砂が茨に影響されていることを殊に気にしている節があるが、ジュンから見れば日和と凪砂の関係性は絶対的なものだろうと思う。
日和と凪砂は家族みたいなものだ。
だから、基本的に接し方がちがう。愛し方がちがう。
恋とかそんな簡単なものではないから、あれを真正面から見ていると気後れすることがある。
(家族でさえ、あんな愛し方は……たぶんしない)
凪砂の手を日和が取り、土を払う。ごく自然な動作。日常のよくある動作が慈愛に満ちている。
ジュンは、さすがに茨に同情した。
「閣下、ライブまであと二時間もありません。さぁ、急いで準備をすすめましょう」
中庭から帰ってきた凪砂を浴室に連れていく途中でさり気なく茨は手を取って、爪が割れていないか確認した。前は発掘に夢中になりすぎて、爪を剥いでしまったのだ。Adamの単独ライブだったが、爪がないのは致命的だったため、急遽手袋をした。ファンからはレアだと喜ばれたが、日和には良い顔をされなかったと凪砂はいっていた。
爪の中に残った土を取ろうとすると、凪砂がふと不満そうな顔になった。
「茨はこういうことをしなくてもいいのに」
Eveの二人が扉の向こうで言い合いをしているせいで、ここも大概はやかましい。「おひぃさん、そんなに髪型も変わらないんですから、早くして下さいよ」と。
「いいえ、閣下はやはり完璧な姿でステージに立っていただきませんと」
「うん、茨から貰った冊子の内容は全て頭に入っているよ」
「さすが閣下です、……やはりっ」用意していたいつもの賛辞は途中で消えた。凪砂の白い手が、茨の手をとらえた。指の間に、指を通して、しっかりと。
橙の眼が、茨をまっすぐ見つめていた。
「閣下、こういうのは……」
「大切な人へはこうするんだって、違ったの?」
湯が浴室に落ちていく音が、やけに小さく聞こえる。
「閣下は、大切の範囲を広げて考えすぎていますね!それだから、今朝も」
「キャッチ……、なんとかってやつかな。それは謝るよ」
凪砂が考え込むように目を伏せた。
「でも、誰が大切かそうじゃないかは、分かっているよ」
「閣下、もしかして、昨日は近代哲学書でもお読みになりましたか?」
「茨」
人形のように揃った睫毛の億。鮮やかな色の眼が、茨をずっと見ていて、手を離す気配はない。
「閣下、そろそろ準備を始めませんと、ライブに遅れます」
「そうだったね。……それは、困るね」
ふと凪砂の手の力を緩んだところで、そっと絡まった指を取った。
その日のライブで、茨はいつもよりも凪砂の様子を具に観察しなくてはいけなかった。決められたように彼は絶対に動く。
視線の配り方、笑い方、客へのアピール。
今日もすべてが完璧だ。
「茨」
ジュンに呼び止められたのは、日和と凪砂二人のステージになって、舞台そでに引っ込んだときだった。
「なんか、あったんすか?」
「なんか、とは?」
「ナギ先輩の方を気にしすぎてますよ。おひいさんに気付かれる前にやめたほうが得策だと思って。ナギ先輩、ライブで失敗することはないでしょう。それともなにか変更点が?」
「ありませんよ」
ジュンが息を吐いた。
つられるようにして、茨も体の中に溜まっている余計な酸素を出すかのように言葉を継いだ。
「例え自分がいつもと違う行動を取ったとしても、閣下は決して間違えません。そういう風に動くように……、」
「あー……もう、」面倒くさそうに頭を搔いた。ジュンが言いたいことが分からない茨ではない。その上で、こんなことになっているのだからと、ジュンの眼がわずかに気遣わしげになったのも茨は見逃さなかった。
「私が間違ってもファンへの動揺は少ない。ですが、閣下が間違いを起こすのであれば、それはリスキーなことです」
「さっき、失敗しないって言ったじゃないっすか」
「……そうですね」
自分に言い聞かせるように茨は頷いた。
「ジュン」
「忙しいのは分かってますよ、別に協力します。見返りとかなしでね」
ひらひらと手を振って別れた。
舞台上から、明るい光と歓声が漏れている。大きく手を振る横に、凪砂の背がある。(……眩しい)遠く感じる背中。それは事務所の意向をくみ取り、茨自身が描いた凪砂のアイドル像でもあった。ファンからは、遠く在り、気高く在れと。
ふと、凪砂が振り向く。
燃える陽のような瞳が、まっすぐに茨を見る。瞳と同じような無垢な感情が向けられているのに気づいて、無意識に茨は眉を寄せていた。
ライブは何事もなく終わった。凪砂のパフォーマンスにはなんら問題はなく、他のメンバーにも反省点は特にない。それでも、微妙な茨の表情を読み取った日和は「なにが不満だっていうのかな」と唇の端をあげた。
日和とジュンを送り出し、Adam専用ルームに戻った茨は、今日のライブのデータを纏めはじめた。
ファンの間から、凪砂が変わったという意見はひとつも見つけられず、安堵する。吐いた息は重くなった。
「茨」
「……閣下!まだ起きていらっしゃいましたか……!そうとは知らず、失礼いたしました、自分もまだまだ……」
「茨」
静かな声に、つい押し黙った。
「今日、目があったのは、台本通りじゃなかったよね」
「申し訳ありません、あれは自分のミスでして」
「私は、きらいじゃないよ……、茨の用意してくれる台本にはいつも助けられているけれど」
「ミスにならなかったのは、閣下のお力があってこそ」
「茨」
調子が狂う。
ジュンが言った通り、疲れているのだろうか。(否、こんなの疲れの内に入らない)「茨、私は……茨の声がききたい」
後退さったのは、茨の方だった。純粋な願いに、どう応えていいのか分からなくなって。途端に、凪砂の顔を見るのが怖くなった。
「茨……?」純粋な疑問を乗せただけの声だ。あぁ、はやくいつものように言葉を継いで、凪砂をフラットの状態にしなくてはと思うが、顔をあげるのが億劫になってきた。
ライブの熱狂を残した手が、茨の手を掴んだ。あ、と思ったが、離せなかった。その手は、優しくて慈愛に満ちている。
「なぜ……」冷や汗が、出る。求めているのは、こんなものではないのに。
凪砂が微笑った。
「さっきも同じように手を掴んだはずだよ」
見たいものは慈愛に満ちた景色ではない、無意識に茨は首を横に振っていた。
「茨、私を見て」
あれだけあったはずの日和の影が見えない。心の中を見透かしたように、凪砂が更に口角を上げた「なんの影もないはずだよ」と。