寒いから抱きしめてほしい。そう言われたから俺は彼女を抱きしめただけ。誰に言い訳するのやら、そんな言葉を今まで何回思い浮かべて来ただろう。
だけどその日は違っていた。彼女は泣きながら、俺に身を寄せ囁いた。抱いてほしい、と。愛している、と。
俺は、俺の口からは、何も言えなかった。言ったら最後、認めてしまうことになる。言い訳が効かなくなる。だから俺は何も返さぬまま彼女と、レナと体を重ねた。
それが、彼女との最後の記憶。俺の最期の思い出。
崖の下は波が強く打ち付けている。ここから落ちて、尖った岩肌にぶつかって当たりどころが悪ければ即死、そうでなくとも溺死は免れないだろう。
「ごめん」
口にした謝罪はレナにもパウロにも向けていない、世界への謝罪。俺が生まれてしまったことへの後悔。
この死は世界への絶望じゃない。破壊神を破壊した男だと、悪魔の子だと恐れられた俺が勇者として唯一できること。
震える足も早まる鼓動も泣きたい心も何もかも無かったことにして、俺は空へ足を──
「ロラン!!」
悲鳴のような叫び声が聞こえた。宙に浮いた身体を、誰かが抱きしめた。見慣れた紫の髪だった。
※
結果から言うと死ななかった。死ななかったと言うよりも、別の世界に飛ばされた。
その世界の住民たちは、ハーゴンの作った幻の世界だと言った。元の世界から来たという人も何人かいた。シドーすらもいた。
元の世界への旅の扉はすぐそこにあったけれど、俺の足はそちらへ向かなかった。この世界でなら、俺は生きていてもいいのかもしれないから。
けど、レナは。
「なんのしがらみもなくなるんだ」
彼女がぽつりと呟いた言葉に、俺は気付かないフリをした。レナは帰らなきゃならない、帰ってムーンブルクの復興をしなければ。
「ロラン」
帰さなきゃいけない。断らなければならない。俺と共に暮らすのは、何も彼女のためになりはしない。
「愛してる、ロラン」
抱きつく彼女を振り解けない。己の弱さに反吐が出る。ダメだ、諦めろ、レナは帰さねば。
「ごめんね」
けれど何かを言うよりも先に、レナの体は離れて行く。今にも泣きそうな顔で、ただレナは口角を上げた。
「貴方の望み通り、私は帰るから」
「……何も、言ってない」
「言わなくてもわかるよ、あなたは自分を大切にしなさすぎるから。私の思いに応えてくれないんでしょ。ムーンブルクを復興してほしいと願ってるんでしょ。わかるよ、ずっと一緒に旅してたんだから」
レナはゆっくりと歩みを進める。そうだ、それでいい。それでいい、はずなのに、俺の手は、彼女の腕を。
「……ロラン?」
「行かないで……」
弱々しい声だった。情けない言葉だった。けれどようやく絞り出せた声だった。
「……行かないよ。ロランがそう望んでくれるなら」
レナが振り向いて、俺の頭を抱きしめた。赤子をあやすように頭を撫でられて、涙がぽろぽろとこぼれ落ち、やがて嗚咽に変わったそれが収まったのは日が沈んでからだった。
「落ち着いた?」
レナの言葉に頷きで返して、身体をぎゅうと抱き締める。長らく突っかかってた言葉は、案外すんなりと口から飛び出した。
「愛してる」
「……ロラン、」
「一緒に、暮らそう」
「……言い訳、立てられないよ?」
「もういらないだろ、そんなもん」
涙を零すのはレナの番だった。
大声を出して泣き喚く彼女を、俺はただ黙って抱きしめることしかできなかった。