『――新規提出または内容の差し替えを希望する場合は、◯月×日までに特務部庶務係に紙媒体にて提出のこと。尚、次回の更新受付期間は約半年後の予定。』
ガラにもなく真面目に目を通してしまった長いメールの文面を閉じる。無意識に溜息が漏れてしまうのは仕方ないと思いたい。
(どうするかな……)
実は、オレはこのメールをもう何度も読んでいる。読んでは閉じ、でも削除するには至らなくて、ずっとモヤモヤしている。
メールの件名は『【重要】遺書の提出受付期間について』だった。
◇ ◇ ◇
入所一年目のオレたちに、遺書を書いておくことを勧めたのはジェイだった。
「万一の時に、遺された家族や大切な人に確実に渡るようになっているものだ。ヒーローとして覚悟を固めるという意味でも、悪くない取り組みだと俺は思う。もちろん、強制ではないがな」
誰が誰宛の遺書を書いたかは個人情報として厳重に管理されるから、その点も安心して良い、とジェイは言った。マニュアルを読んだだけのようなその一言がやけに記憶に残ったのは、オレがその時思い浮かべていた相手のせいだった。
(……ブラッド……)
どこかで生きているはずの唯一の肉親のことは思い出しもしなかった。オレの頭を占めたのはアカデミーで知り合って何だかんだで研修チームの配属も同じになった、ブラッドのことだった。ディノのことももちろん考えたけれど、そっちはオレにとって大した問題ではなかった。ディノ宛になら、簡単にとは言わないまでもオレはきっと書けると思ったからだ。でも、ブラッドの方はそうは行かないだろう。
オレはブラッドに惚れている。アカデミー一年目の頃から、ずっと。そして、今まで築いてきた関係を壊したくないからこそ、この気持ちは墓まで持って行くと決めていた。でも。
(遺書、か……)
自分がブラッドより先に死んで、その時に自分は何を書き遺したいだろうか? 最期くらい、本音を伝えてしまっても良いんじゃないか?……でも、どんな言葉で?
いざ具体的に何を書くかを考え始めると一向にまとまらなくて、オレは結局、『先に死んでごめん。お前らに出会えて良かった。』という、結果だけ見れば何とも通り一遍の内容をブラッドとディノの二人宛として提出することしかできなかった。
◇ ◇ ◇
それから十年近く経って、いなくなったディノが帰ってきて、しばらくした頃に今年も遺書の提出受付期間がやってきた。今オレを悩ませているのは、「ブラッド一人宛の新しい遺書を書くかどうか」だ。
ブラッドとオレは、つい先日付き合い始めた。告白は、一応オレからしたことになっているが、実際の所は、酔ったオレの口が滑って好きだと言ってしまうという、何とも格好のつかない展開から始まった。「素面で同じことが言えたら返事をしてやる」とブラッドは言ったらしいが、もちろんオレの記憶はなくて、翌日ディノ経由でその話を聞いてオレは頭を抱えた。一生伝えないつもりだった気持ちがダダ漏れだなんて、間が抜けすぎている。
それからオレの思い切りがつかないまま数ヶ月が過ぎ、痺れを切らしたブラッドが「やはりあれは酒の席での戯言だったのだな」と盛大な勘違いに至り、ディノ経由でしか会話をしない傍迷惑な状態が数週間続き、そんなオレにキレたリリーにどやされて、死ぬ思いでブラッドを屋上に呼び出して想いを伝えたのが今から二週間前のことだ。仕事でお小言を浴びる関係性は残念ながら変わりないが、二人きりの時のブラッドの視線が少し甘いだとか、ちょっとした違いがオレを浮かれさせている。何より、「ブラッドがオレをそういう意味で好いてくれている」という、今までは想像もつかなかったことを少しずつ受け入れられるようになってきていて、それはオレを大いに安らがせていた。
そんな中でオレの中に浮かんだ思いが、「恋人になってくれたブラッド宛に何か書き遺すべきなんじゃないか」というものだった。とはいえ具体的な言葉が思いつかないまま時間ばかりが過ぎ、気付けば提出期限の前夜になっていた。オレは今、真っ白な便箋を前に机に向かって途方に暮れている。
ブラッドに言いたいことなんて山ほどあるけれど(ちゃんと寝ろとか食えとか、そういう類だ)、どれも死んだ人間が言い遺すこととしては些細なような気もするし、本当に伝えたい想いは上手く言葉にならない。それに、先に死ぬオレがブラッドへの想いをしたためてしまったら、律儀なブラッドのことだ、その言葉にずっと縛られることにならないか? オレがいなくなった後もどうか幸せに生きて欲しい――そこまで考えて、オレの思考は止まった。
ダメだった。他の誰かの隣で笑うブラッドを想像したら、とてもじゃないけれど耐えられないと思ってしまった。オレはいつからこんなに贅沢になったのだろうか。強く握り込んだペンが震えている、いや、震えているのはオレの手の方か。
どれくらい経っただろう。オレは一つ息をついて、ペンを置いた。どうやら新しい遺書は提出できそうにない。仮にも恋人なのに一言も遺さないなんて酷い男だとは思うが、ブラッドはこんなオレの悩みさえ察してくれるような気がしてしまう。そんなヤツの隣が本当にオレで良いのかよ、と、この数ヶ月何度となく考えたことをまた考えて、オレは頭を抱えた。酷く喉が渇いて、水を取りに向かったリビングから見えた空はもう白みかけていた。